ライトノベルは斜め上から(30)――『世界で2番目におもしろいライトノベル』

こんばんは、じんたねです。

ハロウィーンといっても、日本酒を飲んでいるだけですね。。。

 

さて本日のお題はコチラ!

世界で2番目におもしろいライトノベル。 (ダッシュエックス文庫)
 

 

 

解題――あなたに贈る、鎮魂歌

 

 

1.作品概要

内容紹介

あらゆるラノベ的災難やイベントに巻き込まれ、どんな凡人でも「主人公」に変えてしまう、英雄係数(メサイアモジュール)。

「祭」は、世界一影の薄い高校生だったが、 最終回を終えて、現世に戻ってきた元主人公たち(魔法少女やら女勇者やら学園異能の覇者やら)の策略により、英雄係数をMAXまで上げてしまった! !

ラノベのあるあるやパロディが満載のファンタジーコメディ。

 

内容(「BOOK」データベースより)

認知度海抜0mを自負する高校生「祭」は、ある日“エンディング後の主人公”と名乗る4人と出会う。非日常に飽き飽きした彼女たちは、平凡な日常を取り戻すため、どんな凡人でも主人公に変えてしまう“英雄係数”をもらってくれと、祭に頼む。最初は全力で断る祭だったが、“元魔法少女”の「夏恋」の危機を救う為、4人全員の英雄係数を引き受けた瞬間…世界が一変!“魔法少女”がヒロインに、“学園異能の覇者”は悪友に、“異世界の救世主”は妹に、“伝説の勇者”は担任に。なんと祭は、最強の元主人公たちを脇役に従え、世界を守るラノベ主人公になってしまった!ライトノベルへの愛と憎しみに満ちた、泣けて笑える終幕英雄“エンドロール”ラブコメ、新発売!!

 

 

2.ラノベめった切り

本作品を開いてみて、まず目に飛び込んでくるのは、そのライトノベルの「お約束」をバシバシ指摘する主人公のモノローグオンパレードです。あるわあるわ。ビックリするくらい続いて、読みながら「大丈夫か?」と心配してしまうほど。

 

1つずつ引用して指摘することはしませんが、「そうそう」「あるある」といったネタがふんだんに盛り込まれていて、それを作者自身が、作中内でツッコミを入れるという構図が、しばらく続きます。

 

作品の宣伝文句に『※この作品は、ライトノベル界に喧嘩を売っています』とあるだけあって、いわゆる90年代ファンタジーから現代異世界ものへの系譜の押さえ方は、中々に、辛辣です。

 

じゃあ、この作品はライトノベルに、その売り言葉のように喧嘩を売っているのか。それは全然違います。昔から言うではありませんか、ケンカするほど仲がいいって。この諺の解釈には諸説ありますが、一つの解釈として、ケンカするほどに相手のことを長所も短所も含めて知っていなければ、それだけ仲良くなければ、ケンカなんかできないとい意味があります。

 

本作品、ライトノベルのお約束を自分で書き連ねつつ、それに自らツッコミを入れている。ライトノベルを愛していなければ、こんなことはできません。もっと言えば、自分で書いたものに自分でツッコミを入れている。誰も傷つけていません。このあたりにも、雑駁な文体で書かれているようで、よく神経が配られていることが分かるでしょう。

 

 

3.ツッコミを回避している部分から見えるもの

さて、かといってライトノベルのお約束の「すべて」にツッコミを入れていては、ストーリーは前に進みません。「お約束じゃん」と言ってしまったら、キャラクターたちが真面目に行動する足場を奪い取ってしまうからです。あざとく執拗にツッコミを入れているようにみえて、よく読んでみれば、細かい部分では「お約束」でもツッコミを免れている部分があり、それがちゃんと、ストーリーの核になっていたりします

 

ここは具体的にあげておきましょう。

 

・主人公が冴えない男子高校生であり、ワナビであること。

・他作品を読んで、その感想を辛辣な言葉でブログに書いていること。

・とあるライトノベル作品に心打たれ、それをきっかけにしてワナビになったこと。

 ・美女・美男の転校に、クラスメイトがわき立つこと。

・お昼ごはんをめぐる購買部での買い物競争。

・主人公が『秘蔵のエッチ本』を所持していること。

星新一の言葉が、キーとなる場面で使われていること。

 

 

他にもありますが、おおむね、このあたりでしょう。これらのツッコミを免れた現象を、うすらボンヤリと眺めてみてください。とりわけ20代後半から30代にかけての読者のみなさま。

 

・・・分かりました、か?

 

時代の香りがしてくると思いません? まだライトノベルが今ほどメジャーではなくて、趣味は読書ですと親しい人間にも苦しい説明をしなければならなかった頃のライトノベル現代の若者にとっては、おそらく『秘蔵のエッチ本』は、同人誌あるいはネット上の動画であって、ベッドの下に隠すのは、もはや様式美といっていいでしょう。美女美男にわきたつ教室賑わうお昼の購買部というのも、ここまでアイドルやコンビニが一般になった現在、あまりリアルな現象ではない。様式美なんですね。

 

つまり、この様式美を共感し、読み込める世代というのが、本作品のターゲットとして設定されており、それは現役の中学生・高校生・大学生、ではないんです。

 

ワナビとして書き続ける活動も、社会人になったあたりから、その切迫性が変わってきます。学生の時代であれば趣味の延長であっても、社会人になって続けることは、大変苦しい。評価されないことへの重課が、その身を憔悴させるからです。

 

若い頃、ライトノベルに心惹かれ、自分でも筆をとるようになり、そして小説家を目指す人たち。この世代の人間に向けて、本作品は書かれています。これは間違いない。

 

 

4.売れなくてもいいじゃないか

そして、そのメッセージは、とてもまっすぐで純粋です。孤独にパソコンのまえでキーボードを叩き、これといって評価されないことを経験し続け、他人に嫉妬し、己の能力を卑下・過信し、迷いの渦に飲み込まれたことのある人なら、涙なしには読めない。

 

それは物語の後半部、主人公がこう語っていることに集約されています。

 

「そもそも青春てもん自体がろくでもないんだ。中高生のバイブル星新一も言ってたよ。『青春はもともと暗く不器用なものなので、明るくスイスイしたものは商業主義が作りあげた虚像にすぎない』って。なのに、かけがえない時間だなんて大人は青春をもてはやす。過度な礼賛、神格化。本当は青春なんて人生で一番苦々しい時期なのに、それを甘酸っぱいとか味覚オンチかよ」

 受験。将来への不安。学校での人間関係。肥大化する自意識。

 未熟な器になみなみと大人の事情を流しこまれてみんな溺れそうなんだ。(216ページ)

 

 

この溺れそうな自意識、ライトノベル作家になれるに違いない、でもなれない、というものが隠されていることを見抜くのは、さほど難しい話ではないでしょう。これらの苦しい青春の「痛み止め」(217ページ)こそが、マンガでありアニメであり、ライトノベルであると断言されているのですから。

 

クライマックス。

次の言葉は、本作品でもっとも感動するものだと、私は考えています。

 

ラノベ作家になるのも諦めた。何もかも否定したかったんだよ。

ライトノベルへの情熱も。だからムキになってラノベ叩きをくり返した。

現実が怖かったんだよ。だってそいつに、俺の信じる最強のヒーローが殺されたんだ。(228ページ)

 

 

主人公が本音を吐露することで、読者に向けてメッセージを伝えていることは明々白々。ライトノベルなんて飽きた、どれもこれもテンプレでつまらない、女の子が可愛ければいいんだろ、そんな暗い言葉が脳裏をよぎる。情熱が裏切られたとき、それは安易に憎悪へと転化します。本作品は、そんな心を持った人に向けた、鎮魂歌なのです。

 

もう1つ、ぜひ読んでもらいたい台詞があるのですが、それは敢えて引用しないことにしましょう。ぜひ、本作品を手に取って、確認して欲しいからです。

 

とはいえ、何にも言わないのは「なんじゃそら」なので、簡単な小話をしておきます。昔むかし、ニーチェという哲学者がいました。彼は『ツァラトゥストラはかく語りき』という本を書きます。自分が書きあげたときは世紀の大作だ、絶対に評価されると、自信満々だったのですが、出版社からは軒並み断られます。仕方なく彼は自費出版して、ごく親しい人間に配ったのだそうで。ツァラトゥストラの第四部は40部ほどしか刷られず、日の目を見ることはありませんでした。

 

が。

 

その作品を古本屋で手にして、衝撃を受けた人がいます(ごく親しい人間が売ったかもしれないという事実がありますが、それはそれ)。あのショーペハウアーです。ニーチェの言葉に感銘を受けて、後世に名を残す哲学者になったことは、言うまでもないでしょう。

 

世に認められること、あるいは誉めそやされること。これは作品の内在的価値と連動することがありますが、そうでないこともあります。逆もまたしかりです。何が売れるのかは、分からないから。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』も出版社に引き取ってもらえず、さんざん苦労しました。

 

そういうことが書いてあります。ぜひ、作者の言葉を読んで、その力強さを感じて欲しいと思っています。

 

『※この作品は、ライトノベル界に喧嘩を売っています』――だったら読んでみるか、と考えて本作品を手にする人々に向けて、まさに本作品は書かれている。看板に偽りなしの傑作でしょう。

 

 

5.ライトノベルは誰が読むのか

最後に補足的なことがらをいくつか。本作品は、ライトノベル作家を志したあるいは憧れたような人々に向けた鎮魂歌である、そう私は言いました。

 

ただ、ここには強烈な逆説があります

 

本作品、商業作品として成功しているんです。売れ行きは今後の動向をみないと分かりませんが、少なくとも、ネット掲載のまま埋もれるようなことはなかった。スマップが世界に一つだけの花という歌で感動を呼びましたが、そりゃ、スマップのような超ハイスペックな個人がそういうのなら分かる。私のようになんの取り柄もないような人間が「一つだけの花」なんて言われても、というセリフを吐いた知人がいます

 

ははあ、それはそうだけど、なんだかなぁ、というのが当時の私の感想でした。

 

本作品は、ライトノベルのお約束へのツッコミからスタートするため、メインストーリーに移行するまで、かなりの紙幅を割いています。そこがなければ、200ページにも満たない分量になります。

 

これほどまでに前置きをしないと、ラッキースケベも、冴えない主人公も、やや難のあるツンデレヒロインとのやり取りも扱えないのか。ライトノベルの飽和が、まことしやかにささやかれていますが、それは良作が埋もれてしまうという問題もさることながら、こうした読み物への没入を妨げてしまう、反省作用がもたらすことの困難さではないかと思っています。つい他作品と比較して、引いて読んで、ああ見たことがある、と感情移入することを避けてしまう。

 

それと戦い、ツッコミから王道のラノベストーリーにまで引っ張り込んだ作者の力量はさすがとしか言いようがないのですが、その悪戦苦闘を生み出している状況に鑑みると、中々に、苦しいものがあります。

 

さて、これから作者は、どう戦っていくのか。その背中を追いかけながら、力及ばずとも力になろうと思った、おススメの一冊でした。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラです!

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)

 

 

ライトノベルは斜め上から(29)――『ミミズクと夜の王』

こんばんは、じんたねです。

もうすでに眠たいです・・・。

 

さて、本日のお題はコチラ! 

 

 

解題――語るに落ちない

 

 

1.作品概要

魔物のはびこる夜の森に、一人の少女が訪れる。額には「332」の焼き印、両手両足には外されることのない鎖、自らをミミズクと名乗る少女は、美しき魔物の王にその身を差し出す。願いはたった、一つだけ。「あたしのこと、食べてくれませんかぁ」死にたがりやのミミズクと、人間嫌いの夜の王。全ての始まりは、美しい月夜だった。―それは、絶望の果てからはじまる小さな少女の崩壊と再生の物語。第13回電撃小説大賞「大賞」受賞作、登場。

 

 

2.絵本の世界

背景や詳細な設定がほとんどありません。むかしむかしあるところに、という語りだしで始まっても違和感がまったくない。かつてどこかにいた娘が、人間になるというプロットラインは、絵本やおとぎ話を連想させます

 

無駄がないだけに、静か静かなだけに音がする音がするだけで心地いい。読みながら、ずうっと静謐な空間へと沈み込んでいくような、そんな気持ちになります。

 

絵本のような世界観だとしても、これは絵本のようにイラストがほとんど使われていない。イラストが使われないことが、読者の想像力を駆動させ、その魅力を引き出していることに一役買っている。

 

 

3.設定のむつかしさ

こういった作品を読むにつけて、設定が何のために必要なのかということを、考えさせられます。もちろん、結論から言ってしまえば、伝えたいことを伝えるために過少・過剰にならないものが求められる、ということにはなります。

 

「過剰・過少にならない」――言うは易し行うは難しの典型例のようなものです。

 

自分が伝えたいことを、あらかじめ明確にしていることが必要になりますが、それは多くの場合、語りだしてしまってから、あとから追いかけ気づき反省しながら、それは自覚化されます。別段、小説に限った話ではない。やりたいことが最初から明確にある、というのはかなり珍しいケースでしょう。運がいい、あるいは、それまでに試行錯誤を積み重ねてきた、という事でもない限り、普通は、最初から伝えたいことなんてハッキリしていません。

 

文章に無駄がない。設定に不必要なものがない、というのは読んでいて本当に心地よい。

 

寸分たがわぬ切れ味、と言えばいいのでしょうか。機能美といえばいいのでしょうか。そんな練りに寝られたものを読むと、こちらの贅肉まで落ちてしまうような気分になります。本作品は、その意味で、とても気持ちがいい内容になっています。

 

 

4.人間に「なる」というテーマ

無駄がなく、背景や設定について多くを語らないので、さまざまな解釈が可能なのですが、おそらくおおむね的を射ていると思われますが、本作品は、人間に「なる」というテーマを扱っているのではないでしょうか

 

主人公の女の子は、奴隷として育ち、およそ人間らしい扱いを受けずに育ってきます。そんな彼女が最初に受け入れられたのば夜の王という魔物の住まう場所。そこですくすくと育って、と言う風にはもちろんなりません。すったもんだがあって、いったんは人間の手に引き取られます。そこでしばらく人間らしい振る舞いを身につけ、そしてそのまますくすくと育って、という風にはもちろんなりません。また一悶着あって、彼女は夜の王のもとへと帰っていきます。

 

所属する場所で考えれば、彼女は「魔物→人間→魔物」と、どちらかといえば人間になるというより魔物に近づく風にも見えます。

 

ですが彼女が『ありがとう』という言葉を覚え、涙したり、人間らしい言葉遣いを発揮するのは、なによりも魔物のもとで、なのです。

 

どうしてか。

 

それは人間に「なる」という現象が、教育=想起、という扱いになっているからです。言い換えれば、彼女はもともと人間だったにもかかわらず、人間としてあれなかった=奴隷でしかなかった、状態にあった。

 

それが人間のもとを離れ、魔物と一緒にいることで、自分が人間であったことを思い出し始める。それから、しばらく人間のもとに引き取られている間、再び、彼女から人間であることが忘却させられてしまう。人間の間にありながら人間であることを忘れるという、よく考えれば、かなりシニカルな状況が描かれます。

 

そして最後に、夜の王のところへ戻る決意をしたとき、一緒に居たい人といるという、極めて人間らしい感情を、自分のなかに認めるようになるのです。ストーリーの要所要所で、彼女をモチベイトするのは、失われてしまった過去の記憶の想起&再解釈、なのも示唆的です。

 

幼女×人外、というよくあるモチーフと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、人間であることを強調するのに最も効果的な方法は、人間でないことを対比させることです。その対比が、きわめて効果的に使われています。こう言ってよければ、本作品最大の魅力のひとつは、人間中心主義にあるでしょう。

 

私だったらこう描く、という人間観がそこにはありました。その意味で、じんたねにとっては、いたく静謐かつ刺激的な小説です。かまびすしい毎日に疲れたかたには、おススメの一冊です

(文責:じんたね)

 

次回はコチラを予定しています。

世界で2番目におもしろいライトノベル。 (ダッシュエックス文庫)
 

 

ライトノベルは斜め上から(28)――『All You Need Is Kill』

こんばんは、じんたねです。

今夜はやや感傷的な書きぶりになるかもしれませんが、取り上げる作品はコチラ!

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

 

 

 

解題――ヒロインを助けたいと思ったことはあるか

 

 

1.作品概要

「出撃なんて、実力試験みたいなもんじゃない?」敵弾が体を貫いた瞬間、キリヤ・ケイジは出撃前日に戻っていた。トーキョーのはるか南方、コトイウシと呼ばれる島の激戦区。寄せ集め部隊は敗北必至の激戦を繰り返す。出撃。戦死。出撃。戦死―死すら日常になる毎日。ループが百五十八回を数えたとき、煙たなびく戦場でケイジはひとりの女性と再会する…。期待の新鋭が放つ、切なく不思議なSFアクション。はたして、絶望的な戦況を覆し、まだ見ぬ明日へ脱出することはできるのか。

 

 

2.懐かしい

本作品は――と始めるのがスタイルになりつつありますが、今日は昔話から

 

本作品を読んだとき、とても懐かしい記憶が蘇ってきました。かつて「セカイ系」と言われるカテゴリーが流行っていた時代。その空気をたくさん吸いながら、私は育っていきました。

 

どうしても結ばれるべき2人が結ばれない。それを世界が許さない。

 

この感覚がとても切なくて、「セカイ系」とよばれる作品に触れては、「どうしたら2人を救うことができたのか」、そればっかり考えている自分がいました

 

本作品には、そのエッセンスが十二分に込められていて、昨日、あらためて読み返しながら胸が締め付けられるような気持ちになりました。どうしたら2人は助けられたのか。

 

あとがきにあるように、本作品はバッドエンドではないでしょう。きわめて妥当なかたちで、2人の生き方が示されている。だけど、やっぱり、それは切ない――というか、嫌だ。これが今の私のモチベーションの原点にあるのだと、再確認させられました。

 

 

3.さて、どう助けるのか

じゃあ、じんたねだったらどうするのか。

 

作品内でも丁寧にロジックが積み重ねられていて、なかなかタイムループの逃げ道が見つからない。まず基地を脱走しようとしても、民間人と一緒に殺されてしまう。2人が生きたままタイムループの元凶を断とうとしてもそれは成功しない。ようやくループから2人で抜け出せたと思った直後、それに失敗したときの主人公の悔しがる姿は、とても悲しいものでした。

 

イムループのメカニズムを解明して、事前に何とかする、というのも塞がれています。ヒロインはすでに精密検査を受けており、その原因は不明であると診断されているからです。限られた時間内に、たとえタイムループしていることを信じてもらえたとしても、それを解明する技術はない、と逃げ道が塞がれてしまっています。

 

そして作品内では、タイムループの原因となっている主人公とヒロイン、どちらかが死ななければならないという流れになり、最後は決闘することに。結論は言わずもがなでしょう。

 

じんたねはずっと考えました。どうやったら助けられるのか。作品の感傷的な雰囲気に呑まれてはいけない。きっと方法があるはずだ。

 

――1つだけ、可能性があります。

 

2人の人物が、お互いにタイムループを経験し、その経験値を蓄積したまま接触を果たしているという事実です。

 

小説内では、一人称視点の変更で説明しようとしていますが、ヒロインのループにあるときは主人公が、主人公のループにあるときはヒロインが、それぞれ記憶をリセットされている。どちらかがメインでループを繰り返したとしても、2人の関係は縮まりません。片方の記憶は消え、関係性も一からスタートしなければならないからです。

 

だが、ここはよく考えてみる必要がある。

 

お互いにループを繰り返し、その成果で、規格外の戦闘力を身につけている。これはつまり、2人のループが、同時発生し得ることを意味します。本当にいずれか一方だけのループしか発生しないのであれば、ヒロインと主人公が「両方共」規格外にはなれないはずです。だったらループを定期的に交互に繰り返すことで、コツコツと貯金するように、お互いの記憶の蓄積が進むのではないか。

 

経験値の蓄積が進むのならば、戦場でも違う戦い方ができないだろうか。もっと圧倒的に敵をほふり、次の手を考える時間を稼げないか。

 

作品内では、その可能性はないと否定されていますが、そう断言するのはヒロインの言葉だけです。裏づけはない。だったら、少なくとも、それを確認してからでもいい。最終的な結論に一足飛びすることはない。

 

 

4.なら助けられるのか

助けられません。

 

いったん文字となって作品として流通してしまったものは、もうそれがすべてだからです。なにより、私の作品ではありませんし、そんなつまらない結論を採用しては、せっかくの面白さが台無しになってしまう。二次創作という手段ももちろんあり得ますが、それはすでに私の解釈を通じた別作品です。私が助けたいのは、まさにこの作品にこそ登場する、あの2人なのですから。

 

ここまで考えると、気付かされます。

 

なんとかして2人を助けたいと思っている時点で、すでに作品にハマってしまっている。真剣になってどうにかしようと思わされている。まんまとやられたなぁ、というのが率直な感想でした。

 

専門知識を持っていたり、ライトノベルに馴染んでない人にとって、このタイムループという設定は荒っぽいものにうつるかもしれません。ただ、それでも精緻であれば面白くなるというわけじゃない。逆に、荒唐無稽であればエンターテイメントになるわけでもない。書かれた文字の背後から、何かを感じた、というそれが重要になるのだと思っています。

 

その意味で、本作品は間違いなく、私にとって素晴らしいものでした。これからも読み返し、あの雰囲気を思い出しながら、自分のモチベーションを確認することのできる、珠玉の一冊です。

(文責:じんたね)

 

さてさて、次回作はコチラを予定しています。

 

ライトノベルは斜め上から(27)――『美少年探偵団』その2

こんにちは、じんたねです。

前回、以下の作品をとりあげましたが、「具体的なキャラクターの話をしてよ」と言われたので、補足的に書きます。

 

 

基本線は、前回のウォーホール的である、という立場のままです。本作品には、多くのキャラクターが登場するのですが、それらをまとめる主人公に注目して、今日のお話にしようと思います。

jintanenoki.hatenablog.com

 

 

1.主人公は謎めいている

本作品(に限らず)、主人公は多くを語りません。物語の冒頭では、「なんでこんなこと言うの?」というモノローグや仕草がまぜられていて、それが話の後半やラストに向けて、明らかになります。それは多くの場合「異能」とも呼べるもので、実はできるヤツだけど、それを隠している、というパターンをとります。

 

主人公はのび太である理論、から考えましょう。

 

物語の2つの作り方として、主人公を無能にするか、あるいは有能にするかのパターンに大別できるという話です。そして最近は、のび太のパターンが多い。つまり無能なんですね。もちろんこんなに簡単には分けられませんが、分析のための概念というのは、シンプルなほうが分かりやすいから、2つに分けられています。

 

さて、本作品はどうかといえば、明らかにのび太探偵団の事件解決にさいして、(物語の途中までは)まったくもって無能です。なすがままなされるがまま。主人公は何もしません。それは周囲の外連味のあるキャラクターたちを浮かび上がらせるための手法でもあります。

 

みんなが強いと、どう強いのか分からないけれど、主人公が弱いと、みんながどう強いのか分かる。違う言い方をすれば、ワトソン君という一般人がいるから、ホームズというすごキャラのすごさが分かる。

 

で、それを物語の途中でひっくり返して、のび太からジャイアンへと昇格させています。

 

主人公もまた少年探偵団に相応しい、「異能」の持ち主であることが判明し始めた頃から、ストーリーはその「異能」を基軸に移し始めます。読まれれば気づくかと思いますが、その頃から、探偵団のキャラは薄くなります。

 

いや、薄く感じられるようになります。これは新しいライバルの登場によって、主人公が覚醒しなければならないというプロットのお約束を、丁寧に抑えているからこそ、なのですが、そうしてのび太ジャイアンの両方を味わえるように、西尾さんの作品は作られていることが多い。エンターテイメントの鑑と言ってもいいかもしれません。

 

 

2.主人公は何を考えているのか

のび太としてひとまずは登場する主人公ですが、その性格にも特徴があります。ウォーホール的、と言えます。

 

最初に結論から言ってしまいましょう――主人公は、周囲に溶け込もうとするよりも、周囲で起きている事態を、一方上から俯瞰しようとばかりする。それは端的に、モノローグの言葉遣いにあらわれている。

 

今回も具体的に書きましょう。

 

 駄目だ。無駄って言うか、駄目だ。(84ページ)

 

これは探偵団のとある提案に対して、主人公が言葉にすることなく、心の中で評価している場面です。駄目と無駄という「駄」が共通している単語を並べて、言葉遊びをしつつ、彼らを俯瞰していることが分かります。無駄というよりも、もっとマイナスの提案だから、それは駄目だ、と。

 

他にも、こういった記述がチラホラと散見されます。相手の言っていることを単語1つでまとめ、「というよりは○○だ」と、言葉遊びで言い換える。そして言い換えられた方が、理に適っている。常にメタ視点にあろうとして、そこから一歩を踏み込まない。ベタベタな関係を作ろうとしない。これが主人公の行動のロジックになっています。

 

それは逆から言えば、感情や思考をダイレクトに共有しようとすることに、強い抵抗感を持っていることの言い換えでもあります。

 

 恥ずかしい。

 つーかダサい。

 男の子の前で泣いてしまうなんて。(73ページ)

  

泣いている理由を主人公は――いい理由で泣いているのに――誤魔化そうとします。私自身、この箇所を読んでいて「えー、ちゃんと言えばいいじゃん」と主人公にツッコミを入れました。どうして距離とるんだよお前って。

 

ウォーホール的です。コマーシャリズムに流れる、情報の断片群をリミックスし、そこに表層的にしかかかわろうとしない。メタ視点に立脚したまま、ベタに入ろうとしない。この傾向は、西尾維新作品に限らず、同時代の多くの作品の基調になっているように思いますが、その辺まで話を進めると、もう文学論書けよって話になりますので、割愛。

 

まとまりがありませんが、とりあえずはここまでにします。

次回作はコチラでーすよ。

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

 

 

ライトノベルは斜め上から(26)――『美少年探偵団』

こんばんは、じんたねです。

夜空が綺麗ですね、月は、どうでしょう。

 

本日取り上げるのはコチラになります。

 

 

解題――「無意味」であり続けることができるか?

 

 

1.作品概要

十年前に一度だけ見た星を探す少女――私立指輪学園中等部二年の瞳島眉美。彼女の探し物は、学園のトラブルを非公式非公開非営利に解決すると噂される謎の集団「美少年探偵団」が請け負うことに。個性が豊かすぎる五人の「美少年」に翻弄される、賑やかで危険な日々が幕を開ける。青春ミステリーの新機軸!

 

 

2.金太郎飴のような西尾維新

本作品に限らず、という形容がふさわしいと思うのですが、著者の書く作品の特徴として、けれんみの強いキャラクターたちが群雄割拠する、主人公は平凡な素振りをしながら、その中の1人として個性を発揮する、知力・体力ともに強烈な大人の女性が登場する、などが挙げられます。

 

本作品にもまた、そういった共通点が見られ、ああ西尾さんだなぁと安心感を覚えます。言葉遊びもまた独特で、たとえば、瞳にいわれのある主人公がこんな言葉を言っていたりします。

 

「どうしてわたしがこんな目に――どうしてわたしにこんな目が」(226ページ)

 

あざとい言葉遊びに、おもわず唸ってしまいます。一人称をベースに話が進みますが、主人公の見え方や感じ方もまた独特――というよりも西尾維新であるとしかいえない。どれもが全部、どこを切ってみても、西尾維新。他の誰かには書けない、その人から生み出されたものであると分かる。そんな内容になっています。

 

 

3.「らしさ」の出自

さて、これは書き物一般に言えると思いますが、その人にしか書けない「らしさ」というものがあります。ファンがいる場合、それはその「らしさ」を好きになってくれることがほとんどでしょう。

 

西尾さん「らしさ」というのは、では、何なのか。

 

アンディ・ウォーホール諧謔にある、と、私は思っています。芸術論には暗く、あくまでも私の見聞きした限り、の話です。ウォーホールの作品は、どれも表層的です。普通、芸術の世界では、その言葉は侮蔑の意味で使われることが多いのですが、もちろん、そんな簡単なことではありません。

 

彼は、様々な意匠のコラージュを貼り付け、再構築し、その新奇さや奇抜さを見せつける。どこで読んだか忘れましたけれど、彼自身も、自分の作品は表面だけ見ろ、といったことを言っていたように思います。

 

作家の内奥、あるいは芸術性、といった、表現活動に伴うことの多い考え方を、これでもかと鮮やかに無視する。これがウォーホールの面白さだといえます。で、これが西尾さんにも当てはまるのではないか。

 

具体的に考えましょう。

 

本作品、カテゴリーとしてはミステリーに分類されています。ですが、「本格派」(という表現は、私自身は好きではないのですが)の読み手にとって、これはミステリーと呼べない可能性があります。肝心の謎解き部分が、きわめてあっさりと終わり、すぐさま答えに行き着くからです。紙面の多くを割いているのは、けれんみの強いキャラクターたちのやりとり、言葉遊びに文字遊び、あるいは一般的に流布している価値観を軽やかにひっくり返してみせる「ロジック」。

 

きみの意見には反対だが、しかしきみが意見を述べる権利は死んでも守る――フランスの思想家、ヴォルテールの言葉だがさすがは歴史に名を残す巨人である……はっきりと反対を表明した上で、意見を戦わせることは一切しない、議論のテーブルにつくつもりはまったくないと宣言するのだがら、生かさず殺さずとはまさにこのこと。(8ページ)

 

これは本作品の冒頭ですが、これもまた金太郎飴のように作者の色がにじみ出ている。端的に言ってしまえば、ヴォルテールを「誤解」しているんですね、ワザと

 

ヴォルテールフランス革命期の思想家ですが、あの有名な台詞は「意見を戦わせることは一切しない、議論のテーブルにつくつもりはまったくない」という意味ではありません。逆です。

 

意見が違うからといって、お前を切り殺したりはしないぞ、嫌だけど我慢して議論のテーブルにつこうじゃないか――これが本来の意味です。民主主義が決定を遅延するシステムだという意味では、「生かさず殺さず」というのは正しいでしょうが、この辺は社会科でも習うことなので、割愛。

 

事実、民主主義という言葉で、議論のテーブルにつかなかったり、意見を戦わせずに多数決のみに頼ったり、というはまま見られる現象です。

 

その意味で、この冒頭文はヴォルテールへの諧謔でもあり、また別の意味で、現代の民主主義への警告でもあり――というのは、たぶん、違う。

 

むしろ、そんな思想やあるべき論などどこ吹く風。ヴォルテールといういわば教科書に載っているような人間の正統性を、軽やかに躱す。そこに思想性を読み取ると、手痛いしっぺ返しを食らう

 

ポストモダン的、とも言い換えられるでしょう。意味や歴史を脱構築して、その口ぶりや身振りを示す。元々、ポストモダンという思想が持っていた、モダンに対する緊張感や共感を切り捨て、記号性に依拠して、作品を作ってしまう。

 

これはできないことです。

 

どんなに軽やかで表面的なものを書こうと決めても、つい、意味を込めてしまうのが人間の性です。フランクルも言ってますが、無意味に耐えられるほど、強くはできていないから。それを、その場にとどまって、ウォーホール諧謔の言葉を紡ぎ続ける。

 

何度も言いますが、これは本当に、できることじゃない。本作品に限ったことではないですが、作者のこの徹底した筆致には、いつも驚かされます。(もちろん好き嫌いも分かれるでしょう)

 

キャラクターや言葉遊びの楽しさの底に、徹底した無意味がテイストとして流れている。そんな西尾さんが感じられる、珠玉の一冊でした。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラです!

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

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ライトノベルは斜め上から(25)――『ある朝目覚めたらぼくは』

こんばんは、じんたねです。

日本酒の原酒って、超おいしいんですね。

 

さて、本日はコチラ!

ラノベじゃないと言われていますけれど、ええい、ままよ!

ある朝目覚めたらぼくは ~機械人形の秘密~ (集英社オレンジ文庫)

ある朝目覚めたらぼくは ~機械人形の秘密~ (集英社オレンジ文庫)

 

 

 

解題――フラット

 

 

1.作品概要

『エデン』―それは日本有数の資産家である遠江家が広大な私有地に作った集落で、芸術家や職人が集まり、さまざまな店を出している。唯一の家族である祖父を亡くした高校生の遼は、彼が『エデン』に残してくれた住居兼アンティーク雑貨店『エトワール』に引っ越してきた。自分がいつからか持っていた機械人形を店に飾ると、人形の持ち主だという少女が現れて…?

 

 

2.物語の起伏

本作品の特徴は、なんといってもなだらかな物語の展開にあります。歴史ある人形を手にした主人公が引っ越してくるところから物語は始まり、その人形をめぐって、暗号をといて、お宝を手に入れて、美少女も転がり込んできて(?)という流れですが、きわめて淡々としています。

 

伏線が入り乱れることもなければ、キャラクター同士のどぎつい応酬もない。あざといエロスもなければ、読者を騙そうとする謎解きもない。すべてが平和裏に展開するのです。

 

いや、こう表現しては語弊があります。もちろん物語に山場はあるのですが、どういえばいいのでしょうか。禁欲的なまでに裏がない、といえばいいのか。まだ適切な言葉を見つけられないでいます。

 

 

3.癒しとしての物語

だれが言っていたのか忘れましたが、小説の面白さは、大別して二方向に分かれるのだそうです。1つは現実をどれだけ離れた設定を描けるか。奇想天外で新奇で突飛で読むものを興奮させるもの。もう1つは現実をどれだけ再現するか。日常を克明に描き出すことで、それを再認識させる。

 

本作品は、この分類に従えば、間違いなく後者です。私自身、ライトノベルを書きながら、この分類は荒っぽいと思いつつ、それなりに機能していると感じます。

 

ダイナミックな小説は、いわば心臓への負荷が大きいんですね。疲れて活字すら追えないとき、人と話をしたくないとき、元気すぎるキャラクターが愛らしいにもかかわらず、追いかけられないときがあります。読むときも書くときも。

 

そんなとき、本作品のように静謐なものを読むと、深呼吸ができる。ずっと突飛な展開で、それをいかして現実を逆照射する――晩期資本主義の問題点を指摘しよう、何でもお金や時給で考えることが普通になっているのを指摘しよう、でも当たり前すぎで誰も驚かない、だったら架空の貨幣が支配する学園とかどうだろう、あ、モチャ子だ!! 設定被ってるよ!!――ことばかり考えてきた私にとって、とても新鮮な読後感でした。

 

秋の夜長。しずかに活字を追いかけ、そして自分の心を落ち着かせたい時。本作品を読んでみてはいかがでしょうか。
(文責:じんたね)

 

次回作はコチラになります。

 

 

ライトノベルは斜め上から(24)――『黄泉比良坂は遠く』

こんばんは、じんたねです。

熱燗が恋しい季節がやってきましたね。

 

さて、本日取り上げる作品はコチラ!

www.pixiv.net

 

pixivというイラスト投稿サイトで知られる場所にある、名作群のうちの1つです。いずれは削除すると作者様はおっしゃっているので、早い段階での閲覧を、強くおススメします。

 

 

解題――死は、死より、重く

 

 

1.作品概要

本作品は、ホラー、ミステリー、コメディそれぞれの要素が、絶妙に混じり合った推理仕立てのストーリー、とひとまずは形容できます。が、これはこの作者にしか書けない世界観であるため、まとめてしまうと、酷く歪になってしまいます。

 

説明の方便のためにまとめますが、ストーリーは、謎の手紙からスタートします。そこには自分は死ぬけど心配するなという、やや身勝手な言葉が綴られていました。私のいるところは、本当は手紙など出せないけれど、入ったら出られないところだけれど、望んで死ぬから大丈夫だと。

 

そして続くシーンでは、不思議なハサミを携えた、わけあり風の少年の一人称からスタートします。彼は、飄々としていて、隙もユーモアもあるのですが、どこか腹の底で笑っていない、視線が焦点を結ばない、ぷいっと消えてそのまま行方をくらましてしまうような、怖さを持った人物です。

 

そんな彼が訪れるのが、黄泉比良坂

生と死の端境に存在する、えも言われぬ、幻想的で重苦しくて、なお郷愁ただよう村落。

 

そこには様々な魅力的なキャラクターが登場しますが、基本的には、ライバルが1人います。その人物と主人公とのやりとりが、プロットを前進させます。

 

ライバルの説明によれば、黄泉比良坂には、人間社会で居場所のない、自死を望んだ人々が集まる。だが、それらの人々は死を前にして自決することができない。かといって生き続けることも苦しい。そんな「半端者」たち。

 

黄泉比良坂には、そもそもそこに住まう異形の住人たちがひしめいています。彼ら・彼女らは、いわゆる妖怪の外見をしており、この世の暗いものを引き受けたがために、そんな姿になってしまった。だが、ここにくる人間と同じように、彼らも「半端者」。ちゃんと人間を殺してランクアップ(?)したり、強い妖力があるわけでもない。

 

ここで共犯関係が生まれます。自決しきれない人間を、異形のものたちが殺す。そうすることによって、異形のものたちは妖怪へ、人間は果たして死ぬことができる、と。

 

黄泉比良坂に迷い込んだ主人公が、この世界の謎を解き明かし、最後にどのような結末を迎えるのか。まだ完結していない作品ですが、今からラストが待ち遠しい、そんな内容です。

 

 

2.2つの死

本作品を考えるにあたって、2種類の死(あるいは生)を分けてみることが、簡便で有益だと思います。

 

まず1つめの死。これはいわゆる生物学的な死を意味します。心臓が停止したり、酸素がなくなったり、身体が潰されたり。そういった物理的に生命を維持できない状態になる意味での死です。

 

そしてもう1つめの死。これは社会的な死と解釈されます。世間に顔向けできない酷いことをした。村八分にされた。学校でいじめられて居場所がない。会社で上司に睨まれて立つ瀬がない。家庭では相方になじられる。能力も才能もなく、周りから見下されている。そんなときに感じる不安感と言い換えてもいいでしょう。ハイデガーの不安概念でもいいし、マズローの所属欲求の欠如でも、どう表現してもいいですが、この世にまったく自分は歓迎されていないという意味での死です。

 

2つの死について補足をしておきますが、たいていの場合、前者より後者のほうが、圧倒的に辛いものです。つまり身体が死んでしまうよりも、社会的に死ぬほうが、苦痛である。自殺願望のある人間に、「生きていればいいことがある」「なにも死ぬことはない」といった説得の言葉が、無効になりがちなのは、後者の死の重みを踏まえていないからです。

 

他者との関係性をまったく遮断されてしまう恐怖に耐えられないからこそ、そこから逃げたい一心だからこそ、生物学的に死んで、社会的な死を回避しようとしているのですから。前者を説得の理由に用いたところで、功を奏さないのは自明の理。

 

黄泉比良坂に迷い込む人間や、そこに住まう異形のものは、生物学的には死んでいませんが、社会的には瀕死の状態にあります。どこにも居場所がなく、追いやられ、でも辛うじてつながりを保っている。来る側も迎える側も、社会的死を恐れ、生物学的に決意できない、その間にいます。まさに黄泉比良坂。

 

さて、この図式から見ると、主人公とライバルとが、際立って両極端で正反対であることが見えてきます。

 

主人公は(ネタバレになるので詳しく言えませんが)、きわめてエキセントリックです。社会的には、間違いなく死んでいる。単に、生物学的な命を長らえているだけの状態です。こう言ってよければ、彼が一番の異形でしょう。

 

それゆえ彼は、ひどく社会的な生命に憧れを持っています。何としても認められたい、居場所を得たい。そんな焼けるような衝動をうちに秘め、狂喜=狂気の生をつないでいます。自分を理解させようと、他者の生物学的な生を奪うに等しい行為を行い、社会的な生こそが大事なのだと訴えて止みません。彼の懊悩は反転し、自分を受け入れない社会こそが悪であるという、立場をとるようになっています。

 

反対に、ライバルのほうは、社会的に生きています。黄泉比良坂の住人として、周囲の取りまとめ役を務め、それなりの認知を受けています。だが、食・睡眠・性などといった生物に必須とされる欲求を持っていません。異形の存在でもあるライバルは、いわば生物的に死んでいる状態といえます。

 

そんな両者が、反目し合いながら、強く惹かれあうのは、自明の理といっていいでしょう。

 

 

3.自分探しの旅

主人公とライバル。極端な生と死にあるため、その行動原理もはっきりしています。自分にとって欠けている生を、2人は求めている。

 

主人公にとっては何より、社会的な生を獲得することがすべてです。それは黄泉比良坂という、小さな社会集団を変容させ、自分を認めさせる戦いをしなければならないことにつながる。

 

黄泉比良坂には、とある神様がトップとして君臨しているのですが、最終目標はその地位と入れ替わること。あるいは、黄泉比良坂それ事体を破壊してしまうこと。いずれかでしょう。破壊してしまえば、再び、主人公は自分が社会的に死んでしまっていることを認めなければならず、あらためて苦悶の日々を経験しなければならないでしょうが。

 

ライバルにとっての目的は生物学的な生を獲得すること。それは生物学的な死をもたらしている黄泉比良坂という場からの解放、あるいは黄泉比良坂それ事体の消滅を意味します。実際、ライバルは黄泉比良坂のありかたに疑問を抱きながら、それに依存している。社会的生を謳歌しながら、生物学的な生を得ようとしている、と解釈すれば、すっきりします。

 

ライバルは黄泉比良坂を捨てて、人間社会に出て行くか、あるいは黄泉比良坂に生物学的な生を持ち込むことを目指すはず。持ち込むというのは、つまり、生物としての人間のありかたを、食・睡眠・性の解放を目指すという意味です。

 

気づきましたよね。

 

そう、主人公とライバル、黄泉比良坂それ事体の破壊や消滅、という点で目的を共有しているんです。だから2人は、イヤイヤながらも、行動を共にしている。

 

だがら、ストーリーは黄泉比良坂の謎を解き明かし、新しいシステムを目指すことになるはずだと睨んでいます。

 

どちらか一方が欠けても駄目だろうし、現状のままでもいけない。2人の関係にも、そのドラマを通じて終止符が打たれるだろうと考えています。

 

 

4.ホラーな描写には要注意

最後に。

本作品の説明には「異世界系主人公ツエー系」とありますが、嘘じゃないけどそれどうなんだよ、ってツッコミを入れたくなるような描写がたくさんあります。

 

そりゃ異世界だけどね?

主人公無敵だけどね?

意味違うくない?

 

けっこうな数の人間が登場するのですが、けっこうな確率でエグい殺され方をします

そういう描写に耐性のない方は、気をつけてください。

 

ただ、それを差し引いたとしても、本作品の素晴らしさは消えない。本当にオススメしたい。こんなに面白い小説がタダで読めるなんて信じられない。いずれは世に評価されるであろうことを、ここで私が宣言しておきます。

(文責:じんたね)

 

追記:作者によるキャラクター紹介だと、私が「主人公」だと言ってきた少年は、主人公ではありませんでした。。。ま、まあ、うん、ごめんなさい。

 

さて、次回の予定はこちらになります。

ある朝目覚めたらぼくは ~機械人形の秘密~ (集英社オレンジ文庫)

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