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ライトノベルは斜め上から(26)――『美少年探偵団』

ライトノベルは斜め上から

こんばんは、じんたねです。

夜空が綺麗ですね、月は、どうでしょう。

 

本日取り上げるのはコチラになります。

 

 

解題――「無意味」であり続けることができるか?

 

 

1.作品概要

十年前に一度だけ見た星を探す少女――私立指輪学園中等部二年の瞳島眉美。彼女の探し物は、学園のトラブルを非公式非公開非営利に解決すると噂される謎の集団「美少年探偵団」が請け負うことに。個性が豊かすぎる五人の「美少年」に翻弄される、賑やかで危険な日々が幕を開ける。青春ミステリーの新機軸!

 

 

2.金太郎飴のような西尾維新

本作品に限らず、という形容がふさわしいと思うのですが、著者の書く作品の特徴として、けれんみの強いキャラクターたちが群雄割拠する、主人公は平凡な素振りをしながら、その中の1人として個性を発揮する、知力・体力ともに強烈な大人の女性が登場する、などが挙げられます。

 

本作品にもまた、そういった共通点が見られ、ああ西尾さんだなぁと安心感を覚えます。言葉遊びもまた独特で、たとえば、瞳にいわれのある主人公がこんな言葉を言っていたりします。

 

「どうしてわたしがこんな目に――どうしてわたしにこんな目が」(226ページ)

 

あざとい言葉遊びに、おもわず唸ってしまいます。一人称をベースに話が進みますが、主人公の見え方や感じ方もまた独特――というよりも西尾維新であるとしかいえない。どれもが全部、どこを切ってみても、西尾維新。他の誰かには書けない、その人から生み出されたものであると分かる。そんな内容になっています。

 

 

3.「らしさ」の出自

さて、これは書き物一般に言えると思いますが、その人にしか書けない「らしさ」というものがあります。ファンがいる場合、それはその「らしさ」を好きになってくれることがほとんどでしょう。

 

西尾さん「らしさ」というのは、では、何なのか。

 

アンディ・ウォーホール諧謔にある、と、私は思っています。芸術論には暗く、あくまでも私の見聞きした限り、の話です。ウォーホールの作品は、どれも表層的です。普通、芸術の世界では、その言葉は侮蔑の意味で使われることが多いのですが、もちろん、そんな簡単なことではありません。

 

彼は、様々な意匠のコラージュを貼り付け、再構築し、その新奇さや奇抜さを見せつける。どこで読んだか忘れましたけれど、彼自身も、自分の作品は表面だけ見ろ、といったことを言っていたように思います。

 

作家の内奥、あるいは芸術性、といった、表現活動に伴うことの多い考え方を、これでもかと鮮やかに無視する。これがウォーホールの面白さだといえます。で、これが西尾さんにも当てはまるのではないか。

 

具体的に考えましょう。

 

本作品、カテゴリーとしてはミステリーに分類されています。ですが、「本格派」(という表現は、私自身は好きではないのですが)の読み手にとって、これはミステリーと呼べない可能性があります。肝心の謎解き部分が、きわめてあっさりと終わり、すぐさま答えに行き着くからです。紙面の多くを割いているのは、けれんみの強いキャラクターたちのやりとり、言葉遊びに文字遊び、あるいは一般的に流布している価値観を軽やかにひっくり返してみせる「ロジック」。

 

きみの意見には反対だが、しかしきみが意見を述べる権利は死んでも守る――フランスの思想家、ヴォルテールの言葉だがさすがは歴史に名を残す巨人である……はっきりと反対を表明した上で、意見を戦わせることは一切しない、議論のテーブルにつくつもりはまったくないと宣言するのだがら、生かさず殺さずとはまさにこのこと。(8ページ)

 

これは本作品の冒頭ですが、これもまた金太郎飴のように作者の色がにじみ出ている。端的に言ってしまえば、ヴォルテールを「誤解」しているんですね、ワザと

 

ヴォルテールフランス革命期の思想家ですが、あの有名な台詞は「意見を戦わせることは一切しない、議論のテーブルにつくつもりはまったくない」という意味ではありません。逆です。

 

意見が違うからといって、お前を切り殺したりはしないぞ、嫌だけど我慢して議論のテーブルにつこうじゃないか――これが本来の意味です。民主主義が決定を遅延するシステムだという意味では、「生かさず殺さず」というのは正しいでしょうが、この辺は社会科でも習うことなので、割愛。

 

事実、民主主義という言葉で、議論のテーブルにつかなかったり、意見を戦わせずに多数決のみに頼ったり、というはまま見られる現象です。

 

その意味で、この冒頭文はヴォルテールへの諧謔でもあり、また別の意味で、現代の民主主義への警告でもあり――というのは、たぶん、違う。

 

むしろ、そんな思想やあるべき論などどこ吹く風。ヴォルテールといういわば教科書に載っているような人間の正統性を、軽やかに躱す。そこに思想性を読み取ると、手痛いしっぺ返しを食らう

 

ポストモダン的、とも言い換えられるでしょう。意味や歴史を脱構築して、その口ぶりや身振りを示す。元々、ポストモダンという思想が持っていた、モダンに対する緊張感や共感を切り捨て、記号性に依拠して、作品を作ってしまう。

 

これはできないことです。

 

どんなに軽やかで表面的なものを書こうと決めても、つい、意味を込めてしまうのが人間の性です。フランクルも言ってますが、無意味に耐えられるほど、強くはできていないから。それを、その場にとどまって、ウォーホール諧謔の言葉を紡ぎ続ける。

 

何度も言いますが、これは本当に、できることじゃない。本作品に限ったことではないですが、作者のこの徹底した筆致には、いつも驚かされます。(もちろん好き嫌いも分かれるでしょう)

 

キャラクターや言葉遊びの楽しさの底に、徹底した無意味がテイストとして流れている。そんな西尾さんが感じられる、珠玉の一冊でした。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラです!

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

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