ライトノベルは斜め上から(23)――『悪誉れの乙女と英雄葬の騎士:躯の船を守る竜』

こんばんは、じんたねです。

本日2回目の更新は、コチラ!

悪誉れの乙女と英雄葬の騎士 骸の船を護る竜 (ビーズログ文庫)

悪誉れの乙女と英雄葬の騎士 骸の船を護る竜 (ビーズログ文庫)

 

 

  

解題――目的志向と関係志向

 

 

1.作品概要

次なる指令(ミッション)は【幽霊船】討伐――!?

海賊姫×邪道騎士が、今度は共同生活で衝突(コンフリクト)!!

 

極悪騎士アドルフと不本意ながら(?)も共闘し、『船長試験』に合格した海賊の娘クレア。

だが、そんな彼女に与えられた船は、父船長ですら手を焼く問題児ばかり!!

そんな折、シェランド国海域では【近づくと死ぬ】と噂の幽霊船が出没。

密かに討伐の命を受けていたアドルフと、無理やり問題児集団の船に乗り込んだクレアは、

彼と同室生活を送りつつ幽霊船の出現を待つが……!?

 

 

2.いい男だけいればいい

本作品、海賊の娘さんが主人公になります。彼女の父親は偉大な海賊であり、その娘として活躍する。その活躍を支えているのが、口が悪く心配症で超絶イケメンな騎士。いい、ほんと、いい・・・!

 

それどころか何だか、他のいい男に迫られたり、騎士様に困ったときは支えられたり、たしなめられたり、甘やかされたりと、なんて気持ちいいんだ・・・俺もそうなりたかったんだよ。普段はハーレムラブコメ読んでるから、女の子も大好きだけど、いい男だってそりゃ好きだよ・・・悪いかよ・・・

 

そんな気持ちにどっぷり浸りながら、海賊として活躍する主人公に、ずぶずぶ感情移入。気づけばいつのまにか読み終えていました。

 

 

3.男向け/女向け

このタイトルで論じるのは、ジェンダーを踏まえていないとお叱りを受けるでしょうし、私自身、厚顔無恥であると思います。ただ、ほかに適切な表現を思い付かず、ここでは、この用語を用いさせてください。

 

本題に入ります。

 

本作品のメインターゲットはおそらく女性ですライトノベルといえば、おおむね男性向けのものであり、女性向けのものをライトノベルと称するのは、いささか抵抗感がありますが、それはいいとしましょう。

 

作品の内容を読めば、それは一目瞭然です。

 

まず主人公。某有名海賊マンガにあるように、海賊王になりたいだとか、お宝を見つけるだとかいう目的を持ちません。もちろん作中では、海賊として独り立ちしたいとこぼしていますが、それへ向けて積極的に動いている風にも見えません。ライバルやモンスターとのチャンバラも、ほぼありません。

 

物語のラストパート。とある男性クルーを仲間にし「次は何をする?」と問われ、その答えに窮していることが、とても象徴的です。彼女にとって、海賊になるということは海賊王やお宝さがしといった目的とは結びついておらず、何をするという行動に直結していないことを示唆しているためです。

 

じゃあ、無目的に海賊になるの?――そうじゃありません。

 

彼女の生い立ちにその隠れた動機はあるのですが(ネタバレすぎるのでここは割愛)、そこから導き出されるのは、(広義の意味での)他者とのやり取り。正確に言い直せば、お互いの感情の機微を理解し合い、受け止め合う関係を構築すること。それが目的であり、海賊になることは手段でしかありません

 

これは男性向けライトノベルと、極めて好対照です。

 

男性向けのものでは、アクションや敵が味方になって、自分を誉めそやす。あと綺麗な女性陣が、やたらエッチで絡んでくる。これが快楽原則です。主人公には目的があり、それを貫くためにライバルとのいさかいは避けられない、でも、いずれ拳で語り合った強敵(とも)は、仲間になってくれ、自分の目的を支持するようになる。

 

まとめてしまえば、男性向けと呼ばれる作品は、目的志向なのです。

 

ライバルや障害が、どのように自分の目的にそぐわず、なぜ障害となるのか。その説明に紙面は割かれ、最終的にバトルにつながる。これが基本線です。だからもし、主人公が目的をもたず、他者との関係づくりに奔走するとすれば、あまり好意的に読まれないでしょう。

 

逆に、女性向けのものは、これという明確な目的のために、他人を排除すること、バトルすることをよしとしません。敵/見方、というシンプルなロジックそのものに乗らない。いがみ合うとすれば、どう和解や共感に持ち込めるのか。政治や経済といった大上段から構えるのではなく、日々の言葉遣いややり取りから、どう影響を与え合うかを、仔細に描写する。

 

本作品でも、掃除をしようとしたり、敵対する相手を仲間にしようと、カードゲームを持ちかけたりします。ゲームの勝敗に応じて、仲間になる/ならない、ということはない。お互いに話し合うための自由時間を設けろ、と要求しています。

 

つまり、女性向けと呼ばれる作品は、関係志向です。

 

 

4.強いとはどういうことか

この「強いとはどういうことか」という言葉が、作品のドラマにつながっています。キャラクターたちが、その意味を自問自答し、各人で考えていこうとする。

 

ここにも目的志向、関係志向の差異を読み取ることができます。

 

主人公をとりまく男性キャラクターたちは、各々の持論を展開します。必ず、主人公に向けて、「俺は~と思う」と言う風に、考え方を提示しています。そのどれもが、他者と関係する事で、守るべき存在があることで、弱くなってしまうという趣旨のものばかりでした。

 

反対に、主人公は、とあるシーンでこう言い放ちます。

 

「あなたが強くても、弱くても、私には関係ない(203ページ)

 

そうなんです。彼女にとって強いとはどういうことか、という問いは意味を持っていないのです。じゃあ、何が意味を持つのか。引用文にあるように「関係」を持つ他者が意味をもつ。登場する敵が強いのか弱いのか、バトルで勝ち伏せるのかどうか。それは視野にない。その他者と、どのような関係を築けるのか。それこそが彼女にとって問うべき課題であり、その行動原理です。

 

だからこそ。そんな主人公の関係づくりに巻き込まれ、それを支える男性陣たちが、私には快哉を叫ばざるを得ないほど、心地よい。ライバルと切磋琢磨して、誰が一番強いのかをハッキリさせてもいいけれど、良好な関係づくりだって大事なことだから。

 

流麗で比喩がふんだんに用いられた文体とも相まって、日々、関係を作っていくことへの関心が、本作品を貫いているのです。

 

ここからは勘繰りですが、おそらく男性向けライトノベルを読まれる方には、主人公の意思のなさが目に付くかもしれません。仲間を信頼するという行為において、いきなり態度を180度変えることがあったりします。

 

ですが、それは関係志向という視座からみれば、そうではない。

 

主人公にとって、豊かな関係こそが大事であり、そのために機能しない大義名分を掲げるよりは、柔軟に動いたほうがいいことがある。堅い樹木が折れてしまうのに対して、竹や柳が折れないという比喩は有名ですが、目的志向・関係志向についても、おなじ対比が当てはまるでしょう。

 

堅ければカッコイイ。堅ければ強い。

同時に、そのストレスも強く、堅くあり続けることは難しい。

 

柔軟であれば豊かになる。柔軟であれば、次につながる。

同時に、その方向性も柔軟であり、どこに行くべきかを決めることは難しい。

 

本作品は、関係志向のライトノベルとして読まれるべきなのです。

 

 

5.おわりに――イケメンという言葉

私、さきほどイケメンという言葉を使いましたが、これは中々にやっかいな言葉です。私も若い頃は(今も若いよ・・・?)、見目麗しい男子が好きだったりしました。いっちょ前にアイドルの名前なんか覚えたりしちゃったり。

 

イケメンという言葉は、そういう見た目を指す場合もあるのですが、関係志向の話をしったのなら、別の意味にも気づくでしょう。

 

そう、私との関係を豊かにしてくれる、感情の上下をいなし、受け止め、からかい、ともに笑い、泣き、そうやって過ごしてくれる人をイケメンとも呼びます

 

・・・いいよね、イケメン。少女のぱんつを脱がせるライトノベルを書く俺の横で、料理を作って欲しかった。

(文責:じんたね)

 

追記:本作品、読み終えて気づいたのですが、2巻でした。また巻数を間違えちまったよ。

 

 

次回作はこちらになります。

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ライトノベルは斜め上から(22)――『グランブルーファンタジー』

こんにちは、じんたねです。

先日は所用により、ネットに入れなったため、本日お昼の更新になります。

今日はコチラ!

 

 

解題――ノベライズによるオリジナライズ

 

 

1.作品概要

 大地が空を漂う神に見捨てられし世界で、

星の島《イスタルシア》に渡ることを夢見る少年グラン。

ある日、森で剣の修行をしていると、突然空から轟音が鳴り響いた。

なんと村が《エルステ帝国》の艦隊に砲撃されている!! 急いで戻ろうとした彼は、

蒼い髪と瞳を持つ謎の少女ルリアに出会うが、そんな二人の前に帝国兵が現れ、

その少女を引き渡せと剣を突きつけてきた!!

大人気王道ファンタジーゲーム『グランブルーファンタジー』、待望の小説化!!

 

 

2.主人公の立ち位置

物語の流れは、ほぼゲームの内容をなぞっていきます。細かいエピソードが紹介される順番や、ゲーム内では直接言及されない設定などがあります。とても読みやすく、素晴らしい文章で書かれているので、作品としての面白さがあることは間違いありません。

 

ただし、ゲームと違うのは、主人公の存在です。

 

もちろんゲームにおいて主人公は登場しますし、その意味で違いはないのですが、その透明性において意味が違う。ゲームでは、一貫して無人格です。よく指摘されるように、ゲームのプレイヤーが感情移入できるように、くせがありません。かつてシナリオの選択肢が「はい」「いいえ」しかないRPGがありましたが、基本的には同様です。

 

ですが、ライトノベル版では人格を持ちます

 

仲間の剣技に、自分の能力のなさを感じたり、自分の考えを主張したり、ヒロインとの触れ合いに頬を赤らめたり。キャラクターの一人として命を与えられています。

 

 

3.性別を変えるとはどのようなことか

ゲーム版において、もっともライトノベルとして違うのは、主人公の性別が選べ、かつ、適宜変更できる点です。

 

キャラクターのキャラとしての記号性、かつてのレトロゲームのようなやり込み要素、これらがゲーム版の魅力を支えていると私は解釈します。だから、キャラの記号性にバリエーションを持たせるために、もっと言ってしまえば、その衣装(意匠)の変化にアレンジを加えるため、男の外見と女の外見が選べるようになっています。それはさきほど述べたように、主人公の無人格性があってこそ、なせるわざです。

 

だが、ライトノベル版では、そうはいかない。

 

設定で性別を変えられるような作品をつくることは簡単ですが、ひとたび命を与えられ、人格を持ってしまったキャラクターが、任意に外見上の意味で、性別を変更することはできない。あくまでも作品の世界観のロジックにおいて性別を変えなければならない。

 

そういった制約があり、本作品では、主人公は男です。だからルリアとの触れ合いにどぎまぎしたりする描写が可能ですし、逆にいえば、ゲーム版のように女性同士の触れ合いを描写できなくもなる。

 

これはすでに、ゲーム版と袂を分かっていることを意味します。

 

本当に当たり前のことすぎて、今さら何を言っているんだとお叱りを受けそうですが、ゲームとライトノベルは、同じ世界観を共有していたとしても、別のカテゴリーに属します。別カテゴリーであるということは、どちらか一方が好きでも、どちらか他方が嫌いであったりする、ということがあり得る。だって別作品なのだから。

 

性別を選べない。言い換えれば、プレイヤーの自由にはならない。

私はひそかに、ここに勝手に期待をかけています。

 

ノベライズというのは、原作の雰囲気を味わい、別媒体としての面白味を提供するものだと思っています。それはとても素晴らしい。小説を読みながら、ゲームの雰囲気を想起できるなんて、とてもよい。

 

だが、ゲームとは違う、ノベル独自の解釈も読んでみたい。同時に、そう思っています。主人公が性別を得て、人格を与えられ、あのグランブルーファンタジーの世界で活躍する。そこにはゲームの無人格とは異なる面白さがあるはず。

 

ノベライズ版の書き手である、はせがわみやび先生の実力は折り紙付き。作品を読めばすぐに分かる。原作やイラストの世界観を壊さないままでありながら、どう主人公をまさに「ヒーロー」として活躍させてくれるのか。本当に続きを読みたいと思います。

 

・・・ヴィーラはいつごろ出てきますか?

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラになります。

悪誉れの乙女と英雄葬の騎士 骸の船を護る竜 (ビーズログ文庫)

悪誉れの乙女と英雄葬の騎士 骸の船を護る竜 (ビーズログ文庫)

 

 

ライトノベルは斜め上から(21)――『女王の百年密室』

こんばんは、じんたねです。

本日はコチラになります! ライトノベルじゃないって言われたら、そうだねって返すしかないけれど!

女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN (新潮文庫)

女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN (新潮文庫)

 

 

 

 

解題――ユートピア・ラボラトリィ

 

 

1.作品概要

2113年の世界。小型飛行機で見知らぬ土地に不時着したミチルと、同行していたロイディは、森の中で孤絶した城砦都市に辿り着く。それは女王デボウ・スホに統治された、楽園のような小世界だった。しかし、祝祭の夜に起きた殺人事件をきっかけに、完璧なはずの都市に隠された秘密とミチルの過去は呼応しあい、やがて――。神の意志と人間の尊厳の相克を描く、森ミステリィの新境地。

 

 

2.ユートピアを社会設計する

本作品、上手く語ることが難しい。いろいろな要素が入り乱れ、答えを出さないまま、混乱という秩序をまとめあげている作品だから。特定の立場にくみすることなく、かといって、何かを否定することもなく。淡々とした筆致で、思考実験を展開している。そんな印象を持ちました。では、どのような思考実験を行っているのか。

 

――ユートピアを計算・設計することは可能か。

 

この一言に尽きるのではないでしょうか。近未来の世界で、主人公ミチルはとある都市を訪れるのですが、そこには死を恐れることも、貧富の格差も、男女の差別も、技術競争も、犯罪者やそれを罰したりする法律すら、ありません。ひたすら神様を信じ、その信託を授かる女王が管理する小国。周囲は壁によって囲われ、誰も外に出ようとすらしない。そこが平和で満ち足りているから、と人々が口にする。

 

果たして、そんな世界があり得るのか。

 

そう思考を一歩踏み出せば、いろいろな疑問が浮かんでくるでしょう。医療や経済はたまた教育はどうなっているのかという問いもさることながら、アイデンティティや生きがい、生死観や宗教、生―権力としての犯罪者の管理など。そういったテーマに、思考力・想像力を駆使して挑んでいるのが、本作品ではないかと思われます

 

 

3.フレーム問題

随分前に、人工知能は実現可能かどうかという議論がありました。最近では、機械がプロ棋士に勝負を挑んだなんて話もあります。

 

そのさい、「フレーム問題」という議論があり、その問題ゆえに人工知能は生み出せないという解釈がありました。

 

たとえば、ロボットにプログラムを施し、「冷蔵庫を開けて卵を取る」という命令を与えます。しかしロボットは動きません。どんな形状のものが冷蔵庫であり、色や形や機能や、細かい定義づけが困難だったからです。(私たちはファジィに冷蔵庫を冷蔵庫だと直感できますが) また「開ける」という動作もひどく、曖昧でした。完全に開ければいいのか、卵をとるのに必要な分だけでいいのか、右開きなのか左開きなのか観音開きなのか。これらを定義しなければいけませんでした。さらに一番の難問が卵をつかむ事。「割らずに」という条件をプログラムするのがたいそう難しかったそうです。卵によって、大きさや割れやすさが異なっているので、どの程度の力を入れればいいのか分からなかったそうです。

 

かりに、これらの情報をすべてプログラムしようとすれば、相当な情報量、もっといえば無限にも近いプログラム作業が必要になり、作業は困難を極めます。かりにプログラムに成功したとしても、その演算処理に時間がかかりすぎてしまい、とてもじゃないが無理だという話でした。

 

他にも、同居人が「やっぱオムレツはやめよう」とか、いきなり子供が前を横切ったりとか、そういった不測の事態に対応できなくなってもしまうそうです。

 

つまり、これから起こりうる事態をすべて予想し、あらかじめ対応を用意しておくというのは、人工知能にはできなかった。

 

このフレーム問題は、本作品のモチーフになっているように思うんです。すなわち、すべてを計算し尽すことはできない、と。ことあるごとに、主人公の相棒(?)であるロイディが「不確定だ」というのも、それがまさに、この世界それ自体を言い当てているからではないでしょうか。

 

 

4.計算可能/計算不可能

とはいえ、ここは森作品らしい、と言えるのかもしれませんが、単純に「不確定」がOKなどとは言わない。両者の微細でダイナミックで、矛盾しつつも共存しあう相を、しっかりと描き出しています。

 

物語を駆動するのは計算可能性と計算不可能性の矛盾です。言い換えれば、ユートピア=計算可能、現実あるいはディストピア=計算不可能、の入れ替わり立ち代わりの共存です。

 

主人公や、主人公と密接な関係をもつマノ・キョーヤ。これらは異物でありながら、完璧なユートピアに計算によって持ち込まれます。異物をあえて取り込むという、計算不可能性を計算されて。

その結果、このユートピアは計算通りに崩壊し、これから計算不可能な未来に投げ出されることが、エンディングで暗示されています。

 

他にもある。ユートピアを維持できたのは、ユートピアなど不可能だと考えている、事の真相を知っている一部の人間によってでした。神様という最も計算不可能なものをよりどころにして、ユートピアという計算可能なものが維持されていた。

 

この作品の、根底に流れているエッセンスは、計算可能なものによってユートピアを追い求めつつ、いつもそれは計算不可能なものによって(人間の意思、自然の摂理、あるいは死)邪魔されてしまう。そこで再び、計算をしなおして、もう一度、ユートピアを求めることではないか。

 

その運動のなかにこそユートピアはあるのであって、静止した、時の止まった、計算可能なユートピアは成立しない。このモチーフであふれかえっています。

 

考えてもみれば近未来設定。高度な科学技術(この言い回しも陳腐ですが)を実現した世界で生きていた主人公は、なぜかとても幸せそうには見えません。過去の確執によって、みずからの意思で自らを縛り、生きづらさを抱えています。

 

神様や宗教をあまり信じていない態度とつけあわせてみると、これもまた考えさせられます。なぜなら計算可能な科学技術の恩恵に与っていない、あの、ユートピアの住人たちは神様という計算不可能なものによって安寧を得ているのだから。とはいえ同時に、その住人たちはユートピアという計算可能な世界にいるとされ、陰では、計算不可能な人間の意思によって支えられている。

 

まるで目眩のするような、あれかこれか、の対立構図。森作品の魅力の1つとして間違いなく数えられるのは、作者がフィクションなのにいいとこどりをしない、知性と想像力を駆使して、矛盾をちゃんと抱えたまま仮想世界を構築しているところにあるでしょう。

 

 

4.主人公の位置価

さて、物語の最後の最後で、主人公の正体がばれます。細かい話は省略しますが、機械と人間、ユートピアディストピア、計算可能と計算不可能、その両極に同時に立つ、まるでキメラのような存在です。

 

どっちつかずで、どっちにもいる。その曖昧な状態だからこそ、彼はどちらも見通せ、物語を縦横無尽に動き回ることができたのでしょう。作品の後半、こんな言葉があります。

 

ロイディ、前を見ろ」僕は言った。大丈夫か? 運転」

「無免許だ」彼は答える。

(中略)

 ロイディにしては、上出来のジョークじゃないか(577ページ)。

 

これまでの主人公ミチルとロイディのやりとりでは、いつもロイディは「不確定だ」とこぼします。計算できないものは分からない、と。それに主人公は苛立ったり、ため息をこぼしたり。

 

だから、ここのシーンはとても意味がある。だって、これまで計算可能性にしか従わなかったロイディが、ユートピアでの事件を経て、ジョークの1つも言うようになるのだから。計算可能が、計算不可能を受け入れる。その構図を、圧縮して見せている。そんな象徴的なラストを描いてくれているのです。

 

本作品、相当な分量がありますが、ページの端々にエナジィがみなぎっている。まさに「ルナティック=神秘的」であり、「ルナティック=狂気」である。その圧倒的な力を、ぜひ感じてみてはいかがでしょうか。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります! ヴィーラでないけど!

 

 

ライトノベルは斜め上から(20)――『ノーゲーム・ノーライフ』

こんばんは、じんたねです。

最近睡眠不足です。ぐぅぐぅ。

 

さて、本日のお題はコチラになります!

 

 

 

解題――なぜ私たちはゲームのルールに従わなければならないのか

 

 

1.作品概要

ニートでヒキコモリ、だがネット上では都市伝説とまで囁かれる天才ゲーマー兄妹・空と白。世界を「クソゲー」と呼ぶそんな二人は、ある日“神”を名乗る少年に異世界へと召喚される。そこは神により戦争が禁じられ、“全てがゲームで決まる”世界だった―そう、国境線さえも。他種族に追い詰められ、最後の都市を残すのみの『人類種』。空と白、二人のダメ人間兄妹は、異世界では『人類の救世主』となりえるのか?―“さぁ、ゲームをはじめよう”。

 

 

2.ゲームが支配する世界

本作品のコンセプトは、何といっても、反転したゲーム万能主義にあります。まるで桂木桂馬のように、現実世界という「クソゲー」を否定し、すべてがゲームで決まってしまう異世界へゲーマーの主人公たちが召喚され、そこでカタルシスを得るという流れになっています。

 

(言うまでもないことですが、現実ではゲームよりも現実が圧倒的に意味を持ちます。ゲームが強いよりも、現実が強いほうが、生き残れるからです。とはいえ、ここは詰めて考えると、本当はそうでもないのですが、この論点についてはあとで触れます)

 

しかし、ゲームが支配するとはどういうことでしょうか。あらためて考えてみると、これはなかなかに奇妙な状態です。少し、本文を引用しましょう。以下の文は、異世界の神様が決めた決まり事で、それは絶対に順守しなければならないとされているものです。

 

【一つ】この世界におけるあらゆる殺傷、戦争、略奪を禁ずる

【二つ】争いは全てゲームによる勝敗で解決するものとする

【三つ】ゲームには、相互が対等と判断したものを賭けて行われる

【四つ】”三”に反しない限り、ゲーム内容、掛けるもおんは一切を問わない

【五つ】ゲーム内容は、挑まれたほうが決定権を有する

【六つ】”盟約に誓って”行われた賭けは、絶対順守される

【七つ】集団における争いは、全件代理者をたてるものとする

【八つ】ゲーム中の不正発覚は、敗北とみなす

【九つ】以上をもって神の名のもと絶対不変のルールとする

【十】『みんななかよくプレイしましょう』(66-67ページ)

  

世の中で起きることすべて、やりたいこともすべて、ゲームによって決めることができるということです。ゲームという言葉は色々な意味を持っていますが――サッカー・チェス・ソリティア・折り紙・しりとり・ストリートファイトなども「ゲーム」と呼べます――ここでは、おおむね一対一で勝敗のつくものという前提があります。

 

 

そのゲームに万能のちからを持たせるのが、神様。全知全能の神が、そういう風に世の中を作ったから。それに逆らうことができない。【六つ】の規約にあるように、その力は人間の心情にまで及びます。作中で、ゲームに負けた女の子は、主人公に「惚れろ」と命令され、実際に惚れてしまうほどです。

 

 

3.閉鎖系としてのゲーム

このように世界観を記述すると、主人公たちの天才さを描き出すことが、課題になります。なぜなら彼・彼女は強くなければならないから。

 

しかし考えても見てください。あらゆる手が読め、記憶力や思考力において常人を逸している主人公たちに、どうやってライバルが登場し得るのかもうレベル99でカンスト状態な勇者に、どこのモンスターが立ち向かえるのか

 

――チェスは『二人零話有限確定情報ゲーム』である。

『運』という、偶然が差し挟む余地のないこのゲームにおいて。

理論上、必勝法は明確に存在するが、それはあくまで理論の話。

(中略)

つまり十の百二十乗の盤面を読めればいいだけの話と断言し。

事実世界最高のチェスプログラム相手に二十連勝した。(27ページ)

 

勝てませんよね。そう、勝てないんです。チェスのルールに従っているかぎりは。

 

別の話をしておきましょう。とあるシーンで、異世界の言語を学ぶのですが、そこでの主人公の言葉は、こうあります。

 

「別に驚くことじゃないだろ。こうして喋れる程度には[日本語も異世界の言語も:じんたね注]文法も単語も全く同じなんだ。だったら文字さえ覚えれば終わりだろ」(130ページ)

 

日本語に似ているのだがら、辞書に乗っている言葉をすべて暗記すれば、それで言葉のルールがわかる、というのは現実を反映してはいません現実の言語は、日々日日、その使用ルールを含めて、減ったり増えたり変化したりしているからです。辞書は目安でしかなく、つねにすでに使い物にならない箇所があるのが、辞書の宿命だから。いわば言語は開放系なんですね。

 

だから作者の設定がどうたらこうたら――という話をしたいんじゃないんです。

 

主人公の天才的な頭脳をアピールする台詞として、さらっと語られていますが、私にはそうは読めない。いや、作者のゲーム観が気になってしまう。

 

冒頭の説明とあわせると、本作品におけるゲームとは、閉鎖系を基本にしています。つまり、ルールによって取れる手段が、すべてあらかじめ決定されており、その中から選択肢を選ぶ。そしてほぼ無限ともいえる手数のなかから最善のものを見つけ、勝利を勝ち取る。これが本作品におけるゲームの意味でしょう。

 

もっと言い換えれば、ルールはプレイ中、変化しない。これが大前提です。ここも現実/ゲームという図式の好対照でしょう。現実というゲームは、ルールが無数にあり、それらのどれかに従っていればよいというものでもないし、そもそもルールがあるのかどうかすら分からないのですから。

 

閉鎖系のゲームにおいて、すべてを把握できる主人公。プレイ中にしかもルールが変化しないのであれば、彼らは負けません。

 

これはライトノベルを書くうえで、かなり厳しい設定です。なぜならライバルや敵を出せない。どうやっても主人公が勝利するゲームを、どうして面白いと感じることができるでしょうか。それは法則であってルールではない。

 

だから、当然、そうはなりません。

本作品、偶発的で奇妙なねじれ――あるいは必然的な正しい調和――を迎えます

 

 

4.開放系のルール:メタルール

1巻のクライマックスですが、主人公たちは敵をチェスでやっつけます。敵はいわゆる異能を使い、主人公たちを苦しめます。駒が例外的にルールによらず動いたり、あるいは動かなければならないという盤上ゲームの暗黙的ルールに従わなかったり。もちろん、最終的にはその異能を逆手にとって、主人公たちは勝利します。

 

ここでねじれました。どういうことか。

 

チェスのルールが変わったんです。チェスが閉鎖系ではなく開放性に変化したんですね、プレイ中に。そうしなければ敵は、主人公と対等に勝負することすらできないのですから。ルールを変えてくるのは、もはや必然と言っていい

 

チェスというゲームのマウントポジションをとる、新しいチェスのルールを設定して、勝負したんです。私が小学生のころ、男の子同士が、こんなごっこ遊びをしていました。

 

「俺の剣、お前の絶対バリアー壊すー」

「はい、『お前の絶対バリアー壊すー、俺の剣』、絶対防ぐー」

「『『お前の絶対バリアー壊すー、俺の剣』、絶対防ぐー』バリアー、俺の剣は壊すー」

「『『『お前の絶対バリアー壊すー、俺の剣』、絶対防ぐー』バリアー、俺の剣は壊すー』の、絶対バリアーするー」

  

当時はバカだなぁ男子って思っていましたけれど、これ、ゲームをめぐる人間のありようを、よく表していたんですね、今にして思えば。つまりゲーム内で勝てない場合、ゲームの外にたって、言い換えればメタゲームのルールを設定しなおして、元々のゲームを無効にしてしまおうとするんです。ジャンケンに勝てないとき、「あと出しジャンケン」というメタルールを持ち込んで、それに勝とうとするメンタリティと一緒

 

ここまできて、違和感を感じませんか?

 

メタルールの設定って、ルール違反と何が違うのって。そうなんです、そこがクリティカルポイント。原理的にそれは区別できないんです。不利になる側が「ゲーム違反」を主張し、有利になる方が「メタルール」の有効性を主張する。まったく公平な立場にたつとすれば、メタルールとルール違反は、見分けがつかない

 

極端な話、オセロで負けそうになって、面も裏も白いコマを置いたって、それがありかどうかは、区別できないはずなんです。少なくとも、本作品のラストで展開されるバトルは、どっちも白いコマに等しい手段が用いられていました。

 

【八つ】ゲーム中の不正発覚は、敗北とみなす――この規定にもかかわらず、いや、この規定があるからこそ、メタルールの設定というバトルが、スリリングであるのです。

 

 

5.神様すら抗えない

話は、ゲームのプレイヤーにとどまりません。このメタルール設定のバトル、当の10個の決まり事にすら及ぶことが示唆されています。神様はなかなかに味のあるキャラなのですが、主人公に、こんな台詞を言わせています。

 

「……なるほど。唯一神の座さえ、ゲームで決まるってことか」(260ページ)

 

これはおかしい。すべてをゲームで決定できる世界を創造したのは、他ならない神様本人。その当人(人でいいのかな・・・)がその座から引きずり降ろされてしまっては、ゲームに従う謂れなど消え失せてしまうはず。「【九つ】以上をもって神の名のもと絶対不変のルールとする」はず。なのに、ここでは大胆にも、それすらもゲームによって決まるというメタルールが設定されているのです。

 

何度もいいますが、これは作者の世界観がうんたらかんたら、という話ではない。むしろその逆で、作者のゲームに対する洞察が、しっかりと私たちの本質をえぐっているからこそ、このような記述が可能なのです。

 

ここまでくれば、説明は簡単です。

 

ゲームのルールを絶対のものとする神様ですら、メタルール設定バトルに巻き込まれ、その絶対の効力を担保できない・・・はずなのに、ゲームのルールには従わなければならないプレイが行われている。きっと物語終盤では、メタルールに継ぐメタルールの設定が繰り広げられ、まるで目眩のするような書き換えのスピードが、心地良い疾走感をもたらしていることでしょう(まだ1巻しか読んでない・・・)。

 

どうしてゲームのルールに従わなければならないのか――とにかくそうだから

 

根拠や神の威力なんて、そもそもないんですゲームがあり、ルールがある。だから私たちは従ったり、あえてルール違反スレスレのことをしたり、都合が悪ければメタルールを決めたりする。それが私たちの現実であり、日常なんです。ルールが決まっているからゲームをするのではない。とにかくゲームで遊んでしまうことから、ルールが可視化されてくるにすぎない。私たちのルールを支えているのは、それを楽しむという、実践の一致にほかならないんです。「みんななかよくプレイしましょう」という10番目の言葉は、かくも意味深長です

 

どうですか。ねじれているでしょう

 

現実という「クソゲー」を否定してまで異世界に飛び込んだのに、そこに待っていたのは、私たちの現実そのもの。ゲームをなかよくプレイするという実践があるからこそ、ルールが意味を持つのだから。これ以上の現実はありえない。

 

きっと物語は、主人公が現実に帰るという帰結になる。だってそれがゲームなのだから。

 

 

6.最後に

本作品のタイトル『ノーゲーム・ノーライフ。おそらく一般的には、ゲーマーだからゲームがないと生きていけない、そんな人生なんか「クソゲー」だという風に解釈できますし、おそらくそれが正しい解釈になるでしょう。

 

でもここまで読んできた(そしてついてきた)方なら、その別の意味に気付くはず。

 

みんななかよくプレイしましょう、という現実の暗黙がなければ、私たちはゲームをできない。本当は、ゲームのルールだけでは何も決定できない。メタルールとルール違反を区別し、その都度トラブったりしながら、何とかゲームを楽しもうとする現実の態度があってこそ、ゲームは成立する。つまり「ノーライフ・ノーゲーム」が、本作品の、隠れたテーマなのです。

 

ゲームと現実との、ダイナミックで疾走感のある往還運動。本作品を読んで、その興奮を感じて欲しいと思います。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラです!

女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN―

女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN―

 

 

 

ライトノベルは斜め上から(19)――『ナ・バ・テア』(後編)

こんばんは、じんたねです。

ほんま、寒いのぅ。

 

さて、本日は引き続き、ナ・バ・テアを取り上げます。

前回へのリンクはコチラになります。

jintanenoki.hatenablog.com

 

4.ナ・バ・テア弁証法

さて、ようやく本題に入れます。

 

主人公はパイロットです。高みにのぼることによって、現世の煩わしい世界から足を洗おうとしている。あるいは見下すことで距離をとろうとしている

 

ここ、すでに弁証法的な矛盾が働いていることに、気づかなければいけません。

 

本当に、現世を超えた存在であったり、「理想」を生きている人間であったりすれば、そもそも最初から現世、言い換えれば「現実」にウンザリしたり嫌気がさしたりするはずがないんです。嫌悪というものは、同族のあいだで起こるものだから

 

主人公は、高みにのぼることで距離をとっているかのようにみえますが、本当は誰よりも、誰からも距離をとろうとしている時点で、下賤な存在なのです。言い換えれば「現実」を生きている

 

主人公は、定期的に戦闘機への愛着を示し、それが叶わない場合は、きわめて低俗な言動にでます。それは戦闘機に限らず、憧れの存在である「ティーチャ」の振る舞いや、それをとりまく人間関係が、「現実」的になろうとすればするほど。心乱れ、軽率な行動をとってしまいます。

 

なぜなら、それは主人公もまた「現実」にいるから。「現実」にいるからこそ、「理想」に恋い焦がれ、それを妨害するものを徹底的に排除しようとする

 

エンジンは確かに一瞬息をつく。そのとき、スロットルを少し下げてやらなければならない。それくらいの愛情は、どんなパイロットにだってある。冷淡なメカニックの連中にはわからないらしい。(144ページ)

 

この台詞は、新しい戦闘機に乗ったとき、癖のあるエンジンの扱いについて、独白している箇所ですが、多層的な解釈が可能です。戦闘機を愛してやまない主人公が、それを愛せるのは、戦闘機が「理想」を体現しているからに他なりません。空へと自分を逃避させ、「現実」のわずらわしさから解放してくれる存在。

だけど、エンジンの扱いというのは「現実」です。単純な操作ですませようとする「メカニックの連中」を愛が足りないと軽視しています。

 

「あれ? 何を言っているんだ?」――私はそう思いました。

 

メカニックたちが単純な操作ですませようとするのは、戦闘機がちゃんと機能するため。言い換えれば、それを操作するパイロットに負担をかけないためです。作中のメカニックは、かなり人間味にあふれた性格として、描かれています。

 

「現実」を簡単にすませて、そこから「理想」へと逃避しようとしているのは、他ならぬ主人公のほうではないかそんな主人公が、エンジンという「現実」をないがしろにできないメカニックに向けて、なかば冗談交じりに独白する。

 

「理想」を強く求めるために足元がおろそかになっている。あるいは「現実」に向き合うことを避けているからこそ、それに向き合っている人間に向けて、冗談の1つも言いたくなってしまう。そんな態度を、ここではきっちりと描写しているのです。

 

 

5.大人になるためのレッスン

そして主人公は、上述のように、「1.」から「2.」へとストーリーの山場を経験します。

 

1.主人公の「暗い」性格が、周囲に馴染めないままでいつつも、それがかっこよいと描写される。

 

この状態から、

 

2.だが、主人公がそのままの性格でいることで問題が生じ、本当に居場所を喪失してしまう。

 

への移行です。

 

すなわち、尊敬していた「ティーチャ」の人間的な側面を知るのです。それは空を飛んでいたカリスマが、地面に降り立つこと、すなわち「理想」から「現実」へ落ちてしまうことを意味します。作品では、「ティーチャ」が、ただの普通の男であることを、主人公は知るのです。主人公「僕」の心は千々に乱れ、読み手の気持ちも、それと同時に揺られる。その結果、「ティーチャ」と肉体関係を結んでしまいます。

 

作品の前半で示されていたのですが、実は「僕」は、生物学的に女性なのです。「現実」よりも「理想」を求める「僕」にとって、女性としてみられ、扱われ、ときに気遣われることは、ひどく煩わしいことであり、「僕」という一人称がそれへの反動であることを読み取っても、間違いではないでしょう。

 

そうして「理想」を失い、自分を見失い、「理想」が自分の思い込みによってつくられていたことを、「僕」は突きつけられます。その結果どうなるか。主人公は自分が「理想」に生きる超越的な存在などではなく、それを否定しようとするほど俗っぽい「普通」の人間であることを気づかされるのです。

 

もう駄目だ。

飛んでいられない。

降りなければ。

やっぱり、僕は、ただの人間なんだ。(286ページ)

 

この台詞は、まさに、そのことを示しているでしょう。

 

 

6.「現実」=懐胎という謎

そして物語の終盤になると、主人公は「ティーチャ」の子どもを宿していることに気づきます。そして「僕」は、堕胎の手続きをとるために彼と連絡をとるのですが、そこで「ティーチャ」が、その生命を引き受け、自分で育てようとしていることが示唆されます。

 

「もし、生きていたら、その子を、人工的に育てるのですね? そして、人間になるのですね?」

「もちろんだ」

「普通の人間になるのですね?」

「当たり前だ」

「本当ですね? 本当に普通の人間になるんですね?」

「君だって、普通の人間だろう?(308-309ページ)

 

すでに自分が普通の人間であり、もはや「理想」には生きられないとを知った「僕」は、普通の人間になるように迫ります。「ティーチャ」は言います。「君だって、普通の人間だ」と。これもまた弁証法的でしょう。

 

主人公は自分のことを普通だと、もう思い知らされています。「理想」ではなく「現実」に生きている。けれど、それでもかつては「理想」に近いところにいた、高みから「現実」を見下ろしていた、だけど落っこちたという考え方に立ち、そんな思いをさせないように「人工的に育てる」ことで「普通の人間になる」ように願います。

 

そこに「ティーチャ」は「現実」を突きつけます。そのように「現実」忌避し、「理想」を目指そうとする主人公こそ、その考え方や生き方が、まさに普通なのだと。主人公は欠片も「理想」の世界に生きていない。

 

ここで主人公が「僕」だったことが、そして妊娠したことが、とても重要な意味を持っていることに気づかされます。

 

これまで、いろいろな文学作品において、妊娠は何度も扱われてきました。生命賛美、不吉な運命の暗示、いろいろな意味が込められてきましたが、そこには共通の理解が流れています。

 

すなわち、意味不明で容赦ない「現実」であるということ。

 

考えてもみてください。人が人を作り出して、育てる。このあまりにも当たり前でそれなしではヒトの再生産は考えられないほど、重要な意味を持つ。けれども、人が人のなかから生まれ、それが新しい人になり、別の人間になる。これは意味の分からないことです。

 

私たちは他人の考えることが分かりません。ごく素朴な意味でも、他人が痛がっていたり、悩んでいたりする「それ」を、まったく同じように感じることはできません。それがないことが、むしろ他人であるということの定義ですらあるでしょう。

 

だけど懐胎は違う。私という1人の人間だったものが、どういうわけが2人の人間になって、分かれる。分かっていた自分に、まったく理解できない他人が、孕まれる。これは本当に不思議なことです。そして大事なことは、懐胎はとても「現実」的なことなのです。

 

「理想」と「現実」

この対比を用いながら、ずっと話をしてきました。

 

「現実」は、摩擦や泥臭さ、嘘や意図が入り乱れ、まったく混沌とした状態を意味します。言い換えれば、人間あるいは人間関係の混沌そのものです。それが面倒だから、主人公は「理想」を求め、パイロットになっていました。それが面倒であるという、きわめて泥臭い「普通」動機に基づいて。

 

懐胎は、「現実」のもっとも混沌としたことを表現するシンボルであり、比喩です人間が人間を作り、そこに人間関係が生まれる。まったくわけが分かりません。筋が通って高みに立つというようなことは、子育てにおいては難しいでしょう。子育ては、その混沌を丸抱えすることだから

 

つまり、懐胎の到来によって、主人公はもっとも「現実」的な状態へと、上空から突き落とされるのです。

 

 

7.それでも「僕」は空を飛ぶ

物語の最後。主人公は「ティーチャ」との関係を閉じ、パイロットとしての生活を再開します。

 

僕はそれから大笑いした。

思いっきり笑った。

空だから。

なにもないから。(344ページ)

 

 

このラストは、本当に味わい深い本作品は「特定の読者を虜にしてしまう魅力」があると、私は述べました。すなわち、孤独に苦しみ、その己の孤独を特権化しようとする読者を、です。

 

「ティーチャ」のカリスマが失落し、主人公はもう「理想」の状態には、い続けられません。普通の人間なのですから。ここだけを見れば、上記の読者を裏切っている君たちは俗っぽく、自分が普通の人間であると認められないだけだ、と

 

ですが、そうはなっていない。「現実」を受け入れたはずの主人公は、それでもまだ、パイロットをし続けるからです。面倒な「現実」に追いやられ、「理想」へと逃亡した「僕」には、やはりそれでも「理想」に恋い焦がれ続けながら、生きるという「現実」しかないのです。

 

これは、小説の冒頭に、ある意味戻ったことを意味しますが、ただ元鞘におさまったわけではない。主人公は「理想」を求めつつも、懐胎という「現実」の試練を経験し、それでもなお「理想」を信じることができる。単に「理想」の敗北者の物語ではなく、「現実」を踏まえて、より柔軟に、たくましくなり、また「理想」を願うから。

 

最後に大笑いした主人公は、幸せだったのだと思います。「現実」を否定し「理想」を求めたが、その夢に破れて「現実」に墜落しながらも、もう一度「理想」目指してフライトを果たしたのだから。

 

ここに作者の、孤独に生きる者への、優しい眼差しがあるでしょう「現実を知って大人になれ」と言いながらも、同時に「子どものまま夢を見ろ」と、弁証法的なメッセージを発しているのです。

 

この孤独の癒し方=向き合い方は、大人の階段をのぼって、また、そこをくだりなさいという、作者独自の声が反映されているのではないかと解釈しています。他人は他人、自分は自分、不干渉であることが正義だと、主人公に語らせておきながら、「現実」という他人と干渉しろと言っている。

 

こうまとめられるでしょう。

世間の常識から距離をとって孤独に飲まれるのではなく、かといって、それに馴染み溶け込んだ大人になって孤独をごまかすのでもなく、世間に紛れて、大人になって、回り道をして、再び孤独な子どもになりなさい。

 

 

本作品は、そんな声が聞こえてくる、ヒネリの効いた小説でした。

(文責:じんたね)

 

さて、次回の作品はコチラになります。

 

ライトノベルは斜め上から(18)――『ナ・バ・テア』(前編)

こんばんは、じんたねです。

お酒を飲んで、沢山食べると、とても眠たくなりますね。ぐぅ。

 

さて本日のお題はコチラです!

ナ・バ・テア (中公文庫)

ナ・バ・テア (中公文庫)

 

 

 

本作品をライトノベルとして扱うのは、やや難しいかもしれません。

とはいえ、ライトノベルの特徴である、読みやすい文体やイラスト、あるいはノベルズという形式などに鑑みれば、ライトノベルに分類できなくもない。何をライトノベルとするかについては、別の箇所で論じたので、ここではその特徴に依拠して、この作品をとりあげることにします。

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無理そうだったら、「森博嗣は斜め上から」と題して、やり直しますね・・・。

 

 

 

解題――大人の階段をのぼっておりること

 

 

1.作品紹介

信じる神を持たず、メカニックと操縦桿を握る自分の腕だけを信じて、戦闘機乗りを職業に、戦争を日常に生きる子供たち。地上を厭い、空でしか笑えない「僕」は、飛ぶために生まれてきたんだ?? 大人になってしまった「彼」と、子供のまま永遠を生きる「僕」が紡ぐ物語。 森博嗣の新境地、待望のシリーズ第二作!

 

2.「暗い」主人公の「僕」

本作品は、戦闘機乗りである「僕」が、その憧れの存在である「ティーチャ」というコードネームで呼ばれる人物と、その周りの人間模様が織りなす、孤独との付き合い方をテーマにしている作品です。

 

主人公は、人間関係を極端に避けている存在です。それをくだらないもの、面倒なもの、押しつけがましいものだと感じ、なるべく周囲に染まらないように生きています。ひとりで読書をしたり、お互いに気遣うような会話をしたりすることに、何の興味も――というのは語弊があります。むしろ、嫌悪の感情を抱きながら、生きています。

 

それとは対照的に、彼女は戦闘機に対して、あるいは戦闘機に乗り込んで相手を打ち落とすという行為に、強く惹かれています。なぜなら、そこでは自由に空を飛べるから。何者にも煩わされることなく、右へ行くも左へ行くも、好きにできるからです。

 

これを読まれる方にも、心当たりがあるでしょう周囲の人間のやりとりが、ひどくバカバカしく見えたり、大人は誰も自分のことが分かっていない、みんな大事なことを忘れて意味のない無駄話に花を咲かせてばかり。こんなところに自分の居場所はないし、そんなところを居場所にするなんてまっぴらごめんだそんな思春期特有の青臭い感情を、前面に押し出して止まないのが、本作品の主人公なのです。

 

それゆえ、戦闘機に乗り込むとき、そこにいるときの高揚感に引き換え、地上に降りるときの独白は、かなり強烈なものがあったりします。この歳になると、主人公に感情移入するには、どうにも恥ずかしい。そう感じさせるほど、孤独への欲望は苛烈なのです。

 

3.読者に向けてしかけられた「罠」

導入部の説明を読めば分かるように、本作品は、特定の読者を虜にしてしまう魅力があります。

 

それはすなわち、この世界で生きづらさを感じている人、周囲に馴染もうとしても失敗してしまう人、しまいにはコミュニケーションをとろうとすることを断念してしまった人、あるいはイソップ物語の「すっぱいブドウ」の寓話のように、仲間の輪に入れないことに正当化や理由をつけて、メタ視点にたってプライドを保とうとする人、です。

 

ライトノベルの用語を用いれば、主人公は痛い中二病キャラだと言っていいでしょう。

 

エンターテイメントとして一般的な流れならば、主人公はその飛行機乗りの腕を評価され、次第に注目を集め、ライバルなども登場しつつ、結果的にみんなに祝福されるとなりますが、本作品はそうではない。かなり作為的に、孤独な読者のカタルシスを素直に用意していません

 

かといって、主人公が「暗い」性格を克服し、明るい性格のキャラとして、立派に成長するというプロットでもありません。その流れに持ち込んでしまうと、「暗い」ことを共有する愉悦を提示しておきながら、その読者を裏切るという真似になってしまうからです。

 

じゃあ、どうなっているのか。こうなっています。

 

1.主人公の「暗い」性格が、周囲に馴染めないままでいつつも、それがかっこよいと描写される。

2.だが、主人公がそのままの性格でいることで問題が生じ、本当に居場所を喪失してしまう。

3.だけど最後に、そんな主人公が大人の階段を一歩のぼり、そして再び、一歩降りる。

 

 

 

ここには作者の――こう表現してよければ――巧妙な「罠」が仕掛けられています。導入部分で孤独を抱える人物に訴えておきながら、物語中盤で裏切る、けれど最後に大人になれるようなラストを用意する。読者がたどるであろう思考の道筋を先回りし、その水路に乗せようという企みが、隠されているのです。

 

罠について、説明しましょう。

 

本作品を読み解くには、二項対立を念頭におくのが分かりやすいと思います。ここでいう二項対立とは、たとえば右があれば左がある、高いものがあれば低いものがある、と世の中を当面は2つに分けて、お互いが矛盾し合うような事柄を指します。探してみれば、実に、ありふれた分類方法であり、フェミニズムや政治性の文脈では、その一方的な暴力的解釈の態度が問題になったりもしますが、それはここでは触れません。

 

本作品における二項対立とは、天才と凡人、崇高と下賤、秩序と混沌、理性と本能、生と死、これらがあります。天才が凡人に勝つ、だとか、下賤なものが崇高なものを打倒する、だとか、そういう簡単な流れにはなっておらず、この二項対立が小説の内部で幾重にも入り乱れています

 

ここでは話を簡単にするために、二項対立の前者を「理想」後者を「現実」と用語を統一することで、説明を続けます。

 

さきほど、二項対立が重層的だと述べました。これは別の表現を使えば、弁証法となります。前置きが長くなりますが、まずは弁証法的な見方について、触れておきましょう。これは、哲学の教科書などにのっている「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」という、私たちの考え方が世の中の現象として立ち現われてくるという話です。

 

世に成立している事柄には、それを支持するベクトルと、それを否定するベクトル、どちらもを同時に内在させているという話です。

世に成立している事柄であれば、すべてに弁証法があるというのが、弁証法的な見方をする立場なので、具体例は何でもいい。

 

たとえば、ダイエットについて考えてみます。

 

周知のようにダイエットの本来の意味は、食事療法です。食事の量やバランス、また成分を調節することによって、病気の療養をはかったり、病気の臓器を守り健康管理をはかることを指していました。

ですが次第に意味がズレてゆき、現在では、痩せるためのカロリーコントロールがなされた食事、という意味くらいになってしまっています。

 

そもそもなぜダイエットをするのかといえば、食事療法を行うことによって、より健康的に、より美しくなるためです。どうして健康や美を目指すのかといえば、それが幸福につながると考えられているからですね、一言で言ってしまうと。

 

だが、ここに弁証法的な皮肉が紛れ込みます。ダイエットをしたがために、栄養バランスが崩れ、かえって不健康になってしまうということが、往々にしてある。

 

健康になろう、痩せて魅力的になろう。というのがダイエットで実現されるべき目的だったはずなのに、それが成立しない。そのことを分かっているはずなのに、カロリー制限にばかり目を奪われてしまう。

 

逆もあります。どんなに頑張ってもダイエットできない。食事制限をしようと思えば思うほど、かえって過剰に食べてしまい、体重を増やしてしまう。

 

あるいはダイエット食という、いわば計算された味気のない、あまりおいしいとは思えない食事を食べ続けるとき、そこに食の喜びがなければ、何のためにダイエットをしているのか分からない。ダイエットをしようとするのは、健康的になるあるいは美しくなるためであり、それはそれを実現することで幸せに生きるためなのに、ダイエットをしようとするがために、不幸せを感じてしまう。

 

だけど、やっぱりダイエットをしようと思い立ったのは、そうすることが健康や美につながり得るからで、そうではない自分の現状に対する不満が、その出発点にある。すなわち、幸福でない状態があるからこそ、幸福を目指すのだけれど、その道のりにはダイエットをしたがために不幸に落ち込んでしまう作用が、必ず働くということ。

 

つまり、何かを目指すとき、そこには常に逆向きのベクトルが内在しており、かつ、何かを目指すための原動力となっていたりするんです。

 

(後編に続く)

ライトノベルは斜め上から(17)――『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』

こんばんは、じんたねです。

本日はコチラの作品になります。

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか (GA文庫)

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか (GA文庫)

 

 

解題――ヘスティアの紐に縛られた性倒錯

 

 

1.作品紹介

大森藤ノ×ヤスダスズヒトのコンビが贈る

GA文庫大賞初の《大賞》受賞作、ここに開幕!!

 

迷宮都市オラリオ──『ダンジョン』と通称される壮大な地下迷宮を保有する巨大都市。

未知という名の興奮、輝かしい栄誉、そして可愛い女の子とのロマンス。

人の夢と欲望全てが息を潜めるこの場所で、少年は一人の小さな「神様」に出会った。

「よし、ベル君、付いてくるんだ! 【ファミリア】入団の儀式をやるぞ! 」

「はいっ! 僕は強くなります! 」

どの【ファミリア】にも門前払いだった冒険者志望の少年と、

構成員ゼロの神様が果たした運命の出会い。

 

これは、少年が歩み、女神が記す、

── 【眷族の物語(ファミリア・ミィス)】──

 

 

2.主人公ベルは出会いを求めない

本作品の主人公は、ベル・クラネル。いわゆる冴えない系男子であり、異世界の駆け出しの冒険者をしています。そしてヒロイン役として登場するのが、かの「紐」で有名な、ヘスティア。この世界においては神様であり、主人公のベルと契約を結んでいるという設定です。

 

そんな作品の冒頭は、次の言葉で始まります。

 

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか?

(中略)

ダンジョンに出会いを、訂正、ハーレムを求めるのは間違っているだろうか?(4ページ)

 

 

作品において、たしかにベルは周囲の女性たちから、正当な理由なくチヤホヤされます。見た目の可愛らしさというのはポイントとして挙げられるでしょうが、それ以外にモテる理由はありません。

 

さて、ここまで説明すると、さぞかしチーレムな設定で、男性読者の欲望に答えてくれる作風なのだろうと思わせますが、実のところまったくそうではない。いや、違う方法論においては欲望に忠実ではあるけれど、あの冒頭の文章に示唆される展開はまったくありません。

 

だってベル君、草食系男子なのです。女性を見つけてがっつくこともないし、とある女剣士に淡い恋心を抱くような、ナイーブなメンタリティの持ち主です。何気にいろんな女性からモテたりしますが、そのアプローチに気付くこともなければ、「ロリ巨乳」の僕っ子・ヘスティアとの同居中、けっこう露骨に迫られても、まったく無頓着。それどころか、女性が多いという理由だけで、とある酒場に入ることをためらったりするほど、チキンな性格をしてすらいます。

 

アニメや一般的な印象とは異なり、本作品の主軸は、ハーレム設定にはない。むしろそのプロットはビルドゥングス・ロマーン、すなわち青少年の成長物語をなぞっています。その意味において、少年の成長物語という、きわめて王道で古典的な作品としても読めるものになっています。

 

 

3.塗りこめられた欲望

ハーレム設定に主軸がないからといって、ハーレム要素がないがしろにされているということでは、まったくもってありません。むしろ、その逆です。本作品には、徹底したハーレムに対する欲望が塗りこめられています。その密度は、すぐにパンツを見せたり、おっぱいを揉ませたりするヒロインとは、比較にならないほど。もはや業(ごう)に近い純度の塊が、そこにはあります。

 

男性が興奮する女性として、立場が下の存在であったり(たとえば同僚よりも部下)、能力的に優位を感じたり、などがあると言われています。たしかにそういった女性を配置する娯楽作品は、数多いように思います。

 

この仮定を受け入れるとして、本作品は、見事にその逆になっています。すなわち、ベル君が下の存在であり、能力的にも劣っていたり、ということです。

 

ヘスティアは人間程度の能力しかないとはいえ、神様ですし、人間のいる世界を離れれば神様としての力を振るうことができます。いわばヘスティアのヒモ状態なんですね、ベル君。そして能力的にもベル君は非常に低い。駆け出しのペーペーということもありますが、生来の臆病な性格もあって、全然強くない。

 

この男女の逆転は、実は、こういう風に解釈できる。つまり男性が興奮する女性像というのは、そのままではぶつけにくい。どこかに疚しさや引け目を伴ってしまうから。

 

だからどうにかして、そういったマイナスの感情をチャラにして、女性を支配したいという欲望を実現できないか。そう考えて男性性と女性性をひっくり返したかたちが、まさにこの作品のスタイルになってるのです。

 

もちろん。ここで述べていることは、よく指摘されることです。俗にいう性倒錯ですね。これは一見すると変わった現象のように見えますけれど、実に、ありふれています。たとえばセーラー服。セーラー服はセーラー、すなわち水兵、すなわち男性の衣服だったんですね。それをわざわざ女性に着させることで、JKとして興奮の対象となる

 

やや無理な解釈をすれば、女子高生に日本刀や、女子高生にメカ、というお約束もまた、無骨な男性イメージのものを女性に背負わせ、「これは男性だから大丈夫」だというエクスキューズを獲得していることになります。昔、獣の肉食禁止だったお坊さんが、鳥なら食べられるので「兎」を鳥類だと言い張るために「羽」と数えるようになった、という話もイメージ的には似ているかもしれません。

 

ベル君は、こうして無力なままであり続け、かつ女性の下に位置することによって、その欲望を読者に提供していると考えられます。

 

 

4.成長の禁止、あるいは女性性

ベル君の担っている役割を理解できれば、彼が必然的に成長することが許されない存在であることも同時に見えてきます。

 

もちろん、作中でベル君は主人公らしく劇的な成長をとげます。そのために、他の冒険者から馬鹿にされ、その悔しさをばねにするというシーンもあるくらいです。「じゃあ成長することが許されないなんて嘘じゃん」と思われるかもしれませんが、そうじゃないんです。

 

まず、悔しさをばねにするシーンから触れましょう。ベル君は馬鹿にされ、傷つき、モンスターのでるダンジョンに入って、自暴自棄のまま戦闘を繰り返します。そうして命からがら、ヘスティアのもとに帰ってくる。

 

きっとヘスティアとの和解は難しいまま、どんどん孤独やこじらせを進めて、ベル君は成長しつつ孤独になっていくんだろうなぁ、なんて思っていたらそうじゃなかった。彼はあっさり、ヘスティアの心配する言葉に応え、もう無理しないと約束します。しかもその後はコツコツと経験値を蓄積していく。

 

これは、読みようによってはヘスティアによって急成長を止められたとも解釈できませんか。放っておけば、彼は荒みつつも、誰よりも強くなれたはずなのに。女性性、あるいは母性と言っても間違いではないかもしれない心地よい受容によって、彼は丸くなるのだから。

 

別の角度からも話をします。ベル君のレベルアップは、契約を結んだヘスティアの手によらなければできない設定になっています。経験値という可視化されたデータがあるのであれば、ヘスティアを経由せずともベル君は、ダンジョンで戦闘を繰り返せば強くなれます。だけどそうはならない。常に、ヘスティアの認可がなければ、彼は強くなれないんです。

 

まだあります。ヘスティアはベル君専用の武器を与えますが、それもまた戦うことは私の許可によって可能になるという関係を示唆していると言えるでしょう。

 

もうお分かりだと思います。ベル君は、ヘスティアの加護という名の支配下に置かれているのです。だからこそ、彼女が認めなければ成長できないし、それをつっぱねるような尖がった性格もない。裏を返せば、ヘスティアという母親さえいれば、彼は成長しなくてもいい。ずっと甘えることができる。

 

主人公の内面描写が多く、それが独特の魅力になっている本作品ですが、男女の倒錯という点において、驚くほど彼は悩みません。それもまたベルという役割が担う、役割だといえます。

 

繰り返しますが、これは何も、ベル君が作中で成長しないと言っているのではありません。先に指摘した、女性への欲望を隠すための性倒錯関係、それを覆すような成長があり得ない、と言っています。

 

思えば、ヘスティアは自分のことを「僕」と形容します。これもまた男女の倒錯という意味で見れば、ひどく意味深長でしょう。「僕」という一人称は、男性が使うものなのですから。

 

5.抑圧の開放

本作品は、本当にすごい。私はこんなの書けないかもしれないと思いました。それくらい男女の性倒錯というモチーフが徹底していたからです。

 

これはあくまで個人的感想ですが、小説を書くということはインプットした情報を処理してアウトプットする、ということでは「全然」ありませんそんなことをしてもコピー&ペーストの域を抜け出ないからです。コピー&ペーストを読ませたいと思うことは私にはできません。

 

じゃあどうするのか。書くということは無意識の抑圧の開放であり、同時に、解放されたはずの無意識を再び抑圧するというプロセスで、七転八倒することだと思っています。

 

書くという行為自体、極めて抑圧的です。素晴らしい風景をみた。そのことを文字にする。ここには強烈な断念があるはずです。その素晴らしい風景それ自体は、文字でも何でもない。文字にした途端、すぐに嘘になってしまう。だから、強烈な無意識や原体験それ自体を言葉にすることは、すでにしてそれを抑圧し裏切っている。

 

で、書き続けていると、その抑圧も板についてきます。慣れた言い回しや癖で、抑圧のスタイルが固定化してくるんですね、私の場合。そうなってくると、もはやそれは使い古された原体験でしかなく、縮小再生産になってしまう。

 

だから、これまでとは違った方法で、自分の無意識を解放し、別の抑圧方法を身につけていくことが必要になってくる。新しいものを書き続けるということは、おおむね、その繰り返しだと考えています。

 

前置きが長くなりました。本作品です。こちらは性倒錯の徹底したやり方が、無意識へ通じるフタをぺかっと開けている。本当であれば理性のブレーキが働いてしまい、そこまで深く潜ることが困難なはずなのに。それをサラッと活字にして見せてしまう

 

・・・すごい。

 

これが最初の読後感でした。ここまであけすけには、中々できないからです。どう思われるだろう、自分の内面は恥ずかしい。そんな防衛機制が働いてしまうから。なのに、そんな自意識もなんのその。作者さんは、深いところから無意識を引っ張り出し、作品へと昇華してしまう。

 

 

6.ダンジョン「に」出会いを求めるのは間違っている

最後に。本作品のタイトルの秀逸さについて。冒頭ではダンジョンに出会いを求めるのは間違っているのか、いや、間違っていない、という展開がありました。

 

これまでの話を踏まえると、このタイトルは別様に見えてきます。

 

そう、ダンジョン「に」出会いを求めなくたって、もうすでに出会っている。出会いどころか倒錯的な関係すら築いてしまっている。だから今さら出会いを求める必要なんてない。そう解釈できてしまいます。

 

アニメ化で注目されて本当によかった。もっと読まれて、その業を味わってほしい。心からそう思える快作です。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作は(ライトノベルじゃないかもしれないけれど)コチラになります。

 

ナ・バ・テア

ナ・バ・テア