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ライトノベルは斜め上から(18)――『ナ・バ・テア』(前編)

こんばんは、じんたねです。

お酒を飲んで、沢山食べると、とても眠たくなりますね。ぐぅ。

 

さて本日のお題はコチラです!

ナ・バ・テア (中公文庫)

ナ・バ・テア (中公文庫)

 

 

 

本作品をライトノベルとして扱うのは、やや難しいかもしれません。

とはいえ、ライトノベルの特徴である、読みやすい文体やイラスト、あるいはノベルズという形式などに鑑みれば、ライトノベルに分類できなくもない。何をライトノベルとするかについては、別の箇所で論じたので、ここではその特徴に依拠して、この作品をとりあげることにします。

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無理そうだったら、「森博嗣は斜め上から」と題して、やり直しますね・・・。

 

 

 

解題――大人の階段をのぼっておりること

 

 

1.作品紹介

信じる神を持たず、メカニックと操縦桿を握る自分の腕だけを信じて、戦闘機乗りを職業に、戦争を日常に生きる子供たち。地上を厭い、空でしか笑えない「僕」は、飛ぶために生まれてきたんだ?? 大人になってしまった「彼」と、子供のまま永遠を生きる「僕」が紡ぐ物語。 森博嗣の新境地、待望のシリーズ第二作!

 

2.「暗い」主人公の「僕」

本作品は、戦闘機乗りである「僕」が、その憧れの存在である「ティーチャ」というコードネームで呼ばれる人物と、その周りの人間模様が織りなす、孤独との付き合い方をテーマにしている作品です。

 

主人公は、人間関係を極端に避けている存在です。それをくだらないもの、面倒なもの、押しつけがましいものだと感じ、なるべく周囲に染まらないように生きています。ひとりで読書をしたり、お互いに気遣うような会話をしたりすることに、何の興味も――というのは語弊があります。むしろ、嫌悪の感情を抱きながら、生きています。

 

それとは対照的に、彼女は戦闘機に対して、あるいは戦闘機に乗り込んで相手を打ち落とすという行為に、強く惹かれています。なぜなら、そこでは自由に空を飛べるから。何者にも煩わされることなく、右へ行くも左へ行くも、好きにできるからです。

 

これを読まれる方にも、心当たりがあるでしょう周囲の人間のやりとりが、ひどくバカバカしく見えたり、大人は誰も自分のことが分かっていない、みんな大事なことを忘れて意味のない無駄話に花を咲かせてばかり。こんなところに自分の居場所はないし、そんなところを居場所にするなんてまっぴらごめんだそんな思春期特有の青臭い感情を、前面に押し出して止まないのが、本作品の主人公なのです。

 

それゆえ、戦闘機に乗り込むとき、そこにいるときの高揚感に引き換え、地上に降りるときの独白は、かなり強烈なものがあったりします。この歳になると、主人公に感情移入するには、どうにも恥ずかしい。そう感じさせるほど、孤独への欲望は苛烈なのです。

 

3.読者に向けてしかけられた「罠」

導入部の説明を読めば分かるように、本作品は、特定の読者を虜にしてしまう魅力があります。

 

それはすなわち、この世界で生きづらさを感じている人、周囲に馴染もうとしても失敗してしまう人、しまいにはコミュニケーションをとろうとすることを断念してしまった人、あるいはイソップ物語の「すっぱいブドウ」の寓話のように、仲間の輪に入れないことに正当化や理由をつけて、メタ視点にたってプライドを保とうとする人、です。

 

ライトノベルの用語を用いれば、主人公は痛い中二病キャラだと言っていいでしょう。

 

エンターテイメントとして一般的な流れならば、主人公はその飛行機乗りの腕を評価され、次第に注目を集め、ライバルなども登場しつつ、結果的にみんなに祝福されるとなりますが、本作品はそうではない。かなり作為的に、孤独な読者のカタルシスを素直に用意していません

 

かといって、主人公が「暗い」性格を克服し、明るい性格のキャラとして、立派に成長するというプロットでもありません。その流れに持ち込んでしまうと、「暗い」ことを共有する愉悦を提示しておきながら、その読者を裏切るという真似になってしまうからです。

 

じゃあ、どうなっているのか。こうなっています。

 

1.主人公の「暗い」性格が、周囲に馴染めないままでいつつも、それがかっこよいと描写される。

2.だが、主人公がそのままの性格でいることで問題が生じ、本当に居場所を喪失してしまう。

3.だけど最後に、そんな主人公が大人の階段を一歩のぼり、そして再び、一歩降りる。

 

 

 

ここには作者の――こう表現してよければ――巧妙な「罠」が仕掛けられています。導入部分で孤独を抱える人物に訴えておきながら、物語中盤で裏切る、けれど最後に大人になれるようなラストを用意する。読者がたどるであろう思考の道筋を先回りし、その水路に乗せようという企みが、隠されているのです。

 

罠について、説明しましょう。

 

本作品を読み解くには、二項対立を念頭におくのが分かりやすいと思います。ここでいう二項対立とは、たとえば右があれば左がある、高いものがあれば低いものがある、と世の中を当面は2つに分けて、お互いが矛盾し合うような事柄を指します。探してみれば、実に、ありふれた分類方法であり、フェミニズムや政治性の文脈では、その一方的な暴力的解釈の態度が問題になったりもしますが、それはここでは触れません。

 

本作品における二項対立とは、天才と凡人、崇高と下賤、秩序と混沌、理性と本能、生と死、これらがあります。天才が凡人に勝つ、だとか、下賤なものが崇高なものを打倒する、だとか、そういう簡単な流れにはなっておらず、この二項対立が小説の内部で幾重にも入り乱れています

 

ここでは話を簡単にするために、二項対立の前者を「理想」後者を「現実」と用語を統一することで、説明を続けます。

 

さきほど、二項対立が重層的だと述べました。これは別の表現を使えば、弁証法となります。前置きが長くなりますが、まずは弁証法的な見方について、触れておきましょう。これは、哲学の教科書などにのっている「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」という、私たちの考え方が世の中の現象として立ち現われてくるという話です。

 

世に成立している事柄には、それを支持するベクトルと、それを否定するベクトル、どちらもを同時に内在させているという話です。

世に成立している事柄であれば、すべてに弁証法があるというのが、弁証法的な見方をする立場なので、具体例は何でもいい。

 

たとえば、ダイエットについて考えてみます。

 

周知のようにダイエットの本来の意味は、食事療法です。食事の量やバランス、また成分を調節することによって、病気の療養をはかったり、病気の臓器を守り健康管理をはかることを指していました。

ですが次第に意味がズレてゆき、現在では、痩せるためのカロリーコントロールがなされた食事、という意味くらいになってしまっています。

 

そもそもなぜダイエットをするのかといえば、食事療法を行うことによって、より健康的に、より美しくなるためです。どうして健康や美を目指すのかといえば、それが幸福につながると考えられているからですね、一言で言ってしまうと。

 

だが、ここに弁証法的な皮肉が紛れ込みます。ダイエットをしたがために、栄養バランスが崩れ、かえって不健康になってしまうということが、往々にしてある。

 

健康になろう、痩せて魅力的になろう。というのがダイエットで実現されるべき目的だったはずなのに、それが成立しない。そのことを分かっているはずなのに、カロリー制限にばかり目を奪われてしまう。

 

逆もあります。どんなに頑張ってもダイエットできない。食事制限をしようと思えば思うほど、かえって過剰に食べてしまい、体重を増やしてしまう。

 

あるいはダイエット食という、いわば計算された味気のない、あまりおいしいとは思えない食事を食べ続けるとき、そこに食の喜びがなければ、何のためにダイエットをしているのか分からない。ダイエットをしようとするのは、健康的になるあるいは美しくなるためであり、それはそれを実現することで幸せに生きるためなのに、ダイエットをしようとするがために、不幸せを感じてしまう。

 

だけど、やっぱりダイエットをしようと思い立ったのは、そうすることが健康や美につながり得るからで、そうではない自分の現状に対する不満が、その出発点にある。すなわち、幸福でない状態があるからこそ、幸福を目指すのだけれど、その道のりにはダイエットをしたがために不幸に落ち込んでしまう作用が、必ず働くということ。

 

つまり、何かを目指すとき、そこには常に逆向きのベクトルが内在しており、かつ、何かを目指すための原動力となっていたりするんです。

 

(後編に続く)