ライトノベルは斜め上から(21)――『女王の百年密室』
こんばんは、じんたねです。
本日はコチラになります! ライトノベルじゃないって言われたら、そうだねって返すしかないけれど!
女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN (新潮文庫)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/01/28
- メディア: 文庫
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解題――ユートピア・ラボラトリィ
1.作品概要
2113年の世界。小型飛行機で見知らぬ土地に不時着したミチルと、同行していたロイディは、森の中で孤絶した城砦都市に辿り着く。それは女王デボウ・スホに統治された、楽園のような小世界だった。しかし、祝祭の夜に起きた殺人事件をきっかけに、完璧なはずの都市に隠された秘密とミチルの過去は呼応しあい、やがて――。神の意志と人間の尊厳の相克を描く、森ミステリィの新境地。
2.ユートピアを社会設計する
本作品、上手く語ることが難しい。いろいろな要素が入り乱れ、答えを出さないまま、混乱という秩序をまとめあげている作品だから。特定の立場にくみすることなく、かといって、何かを否定することもなく。淡々とした筆致で、思考実験を展開している。そんな印象を持ちました。では、どのような思考実験を行っているのか。
――ユートピアを計算・設計することは可能か。
この一言に尽きるのではないでしょうか。近未来の世界で、主人公ミチルはとある都市を訪れるのですが、そこには死を恐れることも、貧富の格差も、男女の差別も、技術競争も、犯罪者やそれを罰したりする法律すら、ありません。ひたすら神様を信じ、その信託を授かる女王が管理する小国。周囲は壁によって囲われ、誰も外に出ようとすらしない。そこが平和で満ち足りているから、と人々が口にする。
果たして、そんな世界があり得るのか。
そう思考を一歩踏み出せば、いろいろな疑問が浮かんでくるでしょう。医療や経済はたまた教育はどうなっているのかという問いもさることながら、アイデンティティや生きがい、生死観や宗教、生―権力としての犯罪者の管理など。そういったテーマに、思考力・想像力を駆使して挑んでいるのが、本作品ではないかと思われます。
3.フレーム問題
随分前に、人工知能は実現可能かどうかという議論がありました。最近では、機械がプロ棋士に勝負を挑んだなんて話もあります。
そのさい、「フレーム問題」という議論があり、その問題ゆえに人工知能は生み出せないという解釈がありました。
たとえば、ロボットにプログラムを施し、「冷蔵庫を開けて卵を取る」という命令を与えます。しかしロボットは動きません。どんな形状のものが冷蔵庫であり、色や形や機能や、細かい定義づけが困難だったからです。(私たちはファジィに冷蔵庫を冷蔵庫だと直感できますが) また「開ける」という動作もひどく、曖昧でした。完全に開ければいいのか、卵をとるのに必要な分だけでいいのか、右開きなのか左開きなのか観音開きなのか。これらを定義しなければいけませんでした。さらに一番の難問が卵をつかむ事。「割らずに」という条件をプログラムするのがたいそう難しかったそうです。卵によって、大きさや割れやすさが異なっているので、どの程度の力を入れればいいのか分からなかったそうです。
かりに、これらの情報をすべてプログラムしようとすれば、相当な情報量、もっといえば無限にも近いプログラム作業が必要になり、作業は困難を極めます。かりにプログラムに成功したとしても、その演算処理に時間がかかりすぎてしまい、とてもじゃないが無理だという話でした。
他にも、同居人が「やっぱオムレツはやめよう」とか、いきなり子供が前を横切ったりとか、そういった不測の事態に対応できなくなってもしまうそうです。
つまり、これから起こりうる事態をすべて予想し、あらかじめ対応を用意しておくというのは、人工知能にはできなかった。
このフレーム問題は、本作品のモチーフになっているように思うんです。すなわち、すべてを計算し尽すことはできない、と。ことあるごとに、主人公の相棒(?)であるロイディが「不確定だ」というのも、それがまさに、この世界それ自体を言い当てているからではないでしょうか。
4.計算可能/計算不可能
とはいえ、ここは森作品らしい、と言えるのかもしれませんが、単純に「不確定」がOKなどとは言わない。両者の微細でダイナミックで、矛盾しつつも共存しあう相を、しっかりと描き出しています。
物語を駆動するのは、計算可能性と計算不可能性の矛盾です。言い換えれば、ユートピア=計算可能、現実あるいはディストピア=計算不可能、の入れ替わり立ち代わりの共存です。
主人公や、主人公と密接な関係をもつマノ・キョーヤ。これらは異物でありながら、完璧なユートピアに計算によって持ち込まれます。異物をあえて取り込むという、計算不可能性を計算されて。
その結果、このユートピアは計算通りに崩壊し、これから計算不可能な未来に投げ出されることが、エンディングで暗示されています。
他にもある。ユートピアを維持できたのは、ユートピアなど不可能だと考えている、事の真相を知っている一部の人間によってでした。神様という最も計算不可能なものをよりどころにして、ユートピアという計算可能なものが維持されていた。
この作品の、根底に流れているエッセンスは、計算可能なものによってユートピアを追い求めつつ、いつもそれは計算不可能なものによって(人間の意思、自然の摂理、あるいは死)邪魔されてしまう。そこで再び、計算をしなおして、もう一度、ユートピアを求めることではないか。
その運動のなかにこそユートピアはあるのであって、静止した、時の止まった、計算可能なユートピアは成立しない。このモチーフであふれかえっています。
考えてもみれば近未来設定。高度な科学技術(この言い回しも陳腐ですが)を実現した世界で生きていた主人公は、なぜかとても幸せそうには見えません。過去の確執によって、みずからの意思で自らを縛り、生きづらさを抱えています。
神様や宗教をあまり信じていない態度とつけあわせてみると、これもまた考えさせられます。なぜなら計算可能な科学技術の恩恵に与っていない、あの、ユートピアの住人たちは神様という計算不可能なものによって安寧を得ているのだから。とはいえ同時に、その住人たちはユートピアという計算可能な世界にいるとされ、陰では、計算不可能な人間の意思によって支えられている。
まるで目眩のするような、あれかこれか、の対立構図。森作品の魅力の1つとして間違いなく数えられるのは、作者がフィクションなのにいいとこどりをしない、知性と想像力を駆使して、矛盾をちゃんと抱えたまま仮想世界を構築しているところにあるでしょう。
4.主人公の位置価
さて、物語の最後の最後で、主人公の正体がばれます。細かい話は省略しますが、機械と人間、ユートピアとディストピア、計算可能と計算不可能、その両極に同時に立つ、まるでキメラのような存在です。
どっちつかずで、どっちにもいる。その曖昧な状態だからこそ、彼はどちらも見通せ、物語を縦横無尽に動き回ることができたのでしょう。作品の後半、こんな言葉があります。
「ロイディ、前を見ろ」僕は言った。大丈夫か? 運転」
「無免許だ」彼は答える。
(中略)
ロイディにしては、上出来のジョークじゃないか(577ページ)。
これまでの主人公ミチルとロイディのやりとりでは、いつもロイディは「不確定だ」とこぼします。計算できないものは分からない、と。それに主人公は苛立ったり、ため息をこぼしたり。
だから、ここのシーンはとても意味がある。だって、これまで計算可能性にしか従わなかったロイディが、ユートピアでの事件を経て、ジョークの1つも言うようになるのだから。計算可能が、計算不可能を受け入れる。その構図を、圧縮して見せている。そんな象徴的なラストを描いてくれているのです。
本作品、相当な分量がありますが、ページの端々にエナジィがみなぎっている。まさに「ルナティック=神秘的」であり、「ルナティック=狂気」である。その圧倒的な力を、ぜひ感じてみてはいかがでしょうか。
(文責:じんたね)
さて、次回作はコチラになります! ヴィーラでないけど!