ナノマシン、言語、球磨だクマー

「じんたねさん、アレ知ってます?」

 会社のお昼休み。いつものようにお昼を食べながら本を読む私に、後輩が声をかけてくる。

「アンタが、ウチの邪魔をしとることなら知っとる」

 私は、視線で応えもせず、ひたすら紙面の活字ばかりを見つめる。

「じんたねさん、よく本読むじゃないすか。だから俺、真似したんですよ」

「へえー、可愛いこといってくれんじゃーん。でも邪魔せんで欲しい――」

「――それで読んだヤツなんすけどね? ナノマシンなんすよ、ナノマシン!」

「・・・私の要望は無視かよ」

 

 ということで、貴重なお昼休みを後輩に奪われました。職場でも、人目をはばかることなく本を読むので、私はそういう扱いです。あと未婚です。だからそういう扱いです。余計なお世話だよ!

 ・・・さて今回は、後輩の無駄話からつらつらと連想したことを、ここに書いていこうかと思います。いろいろ引用したりしていますが、ほとんどが妄想の産物です。

  あまりネタバレにならないように触れますが、後輩はとある小説を読んで面白かったとのこと。なんでもナノマシンを体内に常駐させる科学技術を獲得した人類は、病気にもならず死ぬこともなく、平和に暮らしている。その世界には、主人公のいる仲良しグループがあって、彼らはそんなナノマシンが人間の尊厳を奪うということで自殺を試みる。だけど、そのナノマシンによって死ぬことはできず、そのうちの1人はグループから離れ行方不明になる。そして物語は佳境になり、とある事件が起こり始める。それはどうやら、かつて別れた仲間の1人が引き起こしているという。その仲間と再会を果たした主人公は――という筋だそうです。

 

自然VS科学?

 なるほど、たしかに面白そうな小説だと思いましたが、どうにも喉に小骨が引っかかったような感じが残ります。小説に対する、というよりも、そこに紛れていた考え方について。

 

 ――人間に「病気にもならず死ぬことも」許さない「ナノマシンは人間の尊厳を奪う」。

 

 ここが気になったんです。果たしてそれが小説内の言葉なのか、後輩の解釈によるものなのかは分かりません。だって私、その小説を読んでませんから・・・あくまでも後輩の感想から触発された感想というレベルです。

 いつの時代かは忘れてしまいましたが、生命倫理の問題で、自死は是か非かという議論がありました。末期ガン患者のQOLに鑑みて、自死をすることは倫理的に認められるのか。生命尊重の観点から妥当と言えるのか云々。もう具体的な議論を忘れてしまっているので、私自身の意見も何もあったものじゃないのですが(よく知らないものについて、適切な意見を持つことはできない)、自死を認める立場の前提には、おそらく次のような図式があったのだと思います。

 

 自然状態としてピュアな人間 VS 科学技術に毒されてしまった人間

 

 自然に死なせてあげられないなんて、科学技術の暴走は人間の尊厳を奪っている。いくら科学技術が人間の生み出したものであったとしても、度を越しては、やはりよくない。病院のベッドにくくりつけられて、点滴のチューブや人工呼吸器でがんじがらめにされて、薬で延命だけさせられて、どこに人間としての幸福があるのか。

 この考え方は、一定の説得力を持っているのではないでしょうか。環境ホルモンダイオキシンが社会問題となったとき、人類への目に見えない有害性もさることながら、それが科学技術に頼りすぎた自然への冒涜になっていると指摘する声があったように記憶しています。他にも、絶滅危惧種を保護しようとする立場のなかにも、こう考える人がいるかもしれません。本来、自然が備えている生物多様性を、人間の都合だけで損なうことは許されない、と。

 実は私は、こんな風に自然と科学を切り分ける考え方に、馴染めない人間です。オチを言っちゃうと、こういうことです。

 

人間は労働(1)を駆使して、自然に抵抗しながら、そのむき出しの暴力を削ぎ落とし、人間自身に取り込んできた。取り込まれた労働生産物としてのそれは、長い年月をかけて「再び」人間の自然として定着する。よって、自然と労働の延長線上にある科学とを、すっぱりと切り分けて考えられないだろう。

 

 説明が分かりにくい、じんたねしっかりしろ、とお叱りを受けそうな「出オチ」ですが、もうちょっと待ってください・・・。

 

自然の馴致=労働

 分かりにくいところから触れます。さきの文章では、「労働」を特殊な意味で使っています。毎朝電車に揺られて通勤し、オフィスで過ごし、サービス残業をして、電車に揺られて帰る。そういう意味での労働ではありません。

 誰の言葉だったか忘れてしまいましたが、労働とは、自然界への働きかけを指すそうです。自然は、人間にとって予測不可能の厄災をもたらす荒々しい暴力でしかない。人間の生命を奪い、健康を損ない、予測不可能の被害をもたらしてくる、まさに厄災。それに対して人工物でもって闘うことが、労働であり、人間らしさでもあるということでした。

 これは農耕や牧畜を考えると分かりやすいと思います。

 自然種としての稲が、おそらく大昔にはあって、それは一定数の人間の生命を維持するには不十分なカロリーしかもたらしてくれない。だから、それらの種を手に入れ、育て、管理し、実りの多い稲の種だけを残し、さらに育て、管理し・・・こうして農耕技術が洗練され、今の農業に続いているという話です。牧畜なども、野生動物を家畜化することで、同様の恩恵に与ることができたのでしょう。俗にいう品種改良というやつです。荒々しい自然に介入し、人間にとって都合のよいものへと変え、それを利用する。この労働による自然の無害化を、とりあえずここでは「馴致」とでも表現しておきます。

 これは蛇足ですが、田園風景や公園や高速道路などに「人工」的に植えられた植物などは、まさに馴致の産物でしょう。田畑をみて「美しい自然風景」だと感じるのは、何とも倒錯した話です。あれはどこまでも馴致によってもたらされた「人工」物、労働の産物なのですから。まるで局部を布地で覆っているが故に興奮するようなチラリズムの如きです。いいですね、チラリズム絶対領域万歳!

 ・・・さて。

 とにもかくにも生命を維持するための「労働」(2)は、そういう意味では不可避でしょう。労働を止めてしまうと死んでしまうのですから。

 だけど、人間が「労働」(3)をしようとするモチベーションには、生命維持だけではない、別の動機があったんじゃないかと考えています。すなわち「苦痛の回避=反復への欲望」ではないかと。

 

苦痛の回避=反復への欲望

(1)苦痛は眼を開かせる

 

「苦痛は人間に眼を開かせ、ほかの方法では知覚できないような事象を、まざまざと見せてくれる。したがって苦痛は認識にしか役立たず、それ以外の場では、生に毒を塗りこめるだけである。ついでに言っておけば、そのことがさらに認識を助長する。/「彼は苦しんだ。ゆえに彼は理解した」――病気や不正や、何か別の不運の変種に襲われた者について、私たちが言えるのはこれだけだ。……」(4)

 

 これはシオランという、生まれたことそれ自体が呪いだと言ってしまう、いわゆるペシミズムの極致にあるような人の言葉です。無粋な解説はいらないと思いますが、要するに、苦痛は認識を鋭敏にすると言っています。反対に、幸福な人・成功している人は、意識のないボンヤリした状態だとも(ちなみに彼自身、苦痛もそうでない状態も、どっちも御免だ。生まれてきたことが厄災なんだから、と言いますが)。

 みなさんは重大な病気で長期入院を強いられたことはないでしょうか。そのとき、どうして自分だけが、こんな苦しい思いをしなければならないのか。健康な人間が、人生を謳歌する様子を、本当に恨めしく思ったりはしませんでしたか。

 私は、そうでした。

 最近、体調を崩して入院し、しばらく職場復帰もままならない時期がありました。ずっと病院のベッドで疲れきった身体を抱えながら、薬の眠気や薬効が切れかけたときの苦痛に襲われながら、よく考えたものです。

 

 ――どうして私(病人)と他者(健康な人)の人生は、こうも違うのか。

 

 ほんと愚かな話ですね。じんたねは身体の強いほうではなく、これまで何度も病気になってきたはずなのに。いざ、病気になった途端、そのことを思い出すのですから。それに健康な人間のグループに所属してきたと勘違いして、自分はみんなと一緒だという、謎の帰属意識に安心していたのですから。

 それはさておき。

 病気になると、色々な面でデメリットがあります。まず表舞台に立てない。社会は自分の意見はおろか存在がなくても、勝手に動いている。いなくたっていいと言わんばかり(実際のところそうでしょうけど)。世の中のほとんどが、健康な人のロジックによって組み立てられていて、自分の居場所がない。そして、逃れようにも逃れられない身体的不自由に縛られる。身体は痛いし動かない。薬がないとやっておれない。

 となると、残された手段は、それらに意識を向けること・考えることだけなんですよね。どうすれば一分一秒でも身体的不自由を避けられるかと知恵を絞り、社会復帰を果たしたら、絶対にビハインドを取り返してやると、どす黒い何かが蠢いたりする。

 このときの私、たぶんめっちゃ頭良かったと思います。いや、正確に言うと、内省するための精神が、とても研ぎ澄まされていたというか。あのときは、身体が不自由になればなるほど、意識は活性化するばかりでした。

 

(2)苦痛から反復へ

 先ほどの話と関連づけますと、自然は人間に苦痛をもたらす、昔からの最たる存在だったんですね。気候の変化、疫病、天敵、食糧不足、など。そのどれもが苦痛であり、予見不可能であり、不可避であり、人間を苦しめ続けてきた。それに直面せざるを得なかった人間は、苦痛を回避したい、除去したいと意識を研ぎ澄ませ、躍起になって考えながら行動したのだと想像しています。これは人間が人間として存在する、いわば変更不可能なデフォルト設定のようなものだと思っています。

 じゃあ、どうやってきたのか。そう、労働してきたんです。

 苦痛をもたらす自然をコントロールすればいいんです。そのメカニズムを理解し、それに基づいて管理・統制すればいい。管理・統制ができなくとも、メカニズムを理解できれば、自然を予測することぐらいはできる。予測できれば回避できる。回避できれば苦痛ではない。

 たとえば、台風のメカニズムを理解できれば、その発生を止められなくても、被害を回避することができそうです。そうすれば台風は苦痛をもたらさない。台風の発生を――何のデメリットもなく――事前に止められれば、もちろんなお良い。

 他にも、狩猟生活を基礎において、いつ食べ物が手に入るか分からないという不安な状態にいるよりは、動植物が再生産されるメカニズムを理解し、それを馴致することによって狩猟生活の出たとこ勝負に依存しないほうがよい。そう、農耕生活の始まりです。その方が、ずっと安定的に食料を確保できるため、苦痛は回避される。

 そして、この苦痛の回避は、すなわち反復の開始でもある。

 農耕生活は、同じことの繰り返しです。もちろん現実には、予想外の台風に見舞われたり、イナゴの大量発生に苦しめられたりと簡単ではありませんが、それでも基本的には、植物を育て、収穫し、再び育てる、それの繰り返しです。

 人によってはこれを退屈だと感じますが、苦痛の回避を願うことは、必ず、反復を求めることになります。突然のアクシデントを避けようとして、予想される事態のマニュアルを作成し、それを墨守する。予想外の事件が起こらない限り、それは同一作業の反復になります。

 

 ――昨日も同じだったとすれば、今日も同じであり、明日もきっと同じだろう。

 

 シオランの話を思い出してください。苦痛は意識を先鋭にするという話です。病気になって意識がはっきりするのは、それまでの健康という安定した反復状態が破られたからに他なりません。何としても反復を取り戻そう、この病気から逃れようと、意識化を開始するからです。だからシオランは、成功したり健康でいたりすることが胡乱だと見抜いていたんですね。反復とは、慣れてしまえば意識化の不要な、いわば退屈な現象ですから。

 まとめますと、自然という(人間にとっての)無秩序に直面した人間は、そこに秩序を見出し管理・統制し、安定した反復状態をもたらすため、「労働」によって人工物を対置し、生き延びてきた。

 

言語という装置の発明

(1)言葉の複雑性

 馴致の例なら、まだ他にもあります。とても奇異に聞こえるかもしれませんが、おそらく人間の言語もまた、労働の産物ではないかと。

 よくある説明では、食べ物のある場所を示すために、動物に名前をつけてその名を声にしたり、あるいはそのピクトリアルな図像を壁画として刻んだりしてきた。その営みが進化していって、言語を発明するに至ったって言われます。

 これ、まあ嘘じゃないでしょうが、酷くディテールを欠いた素描だと思っています。

 何でもいい。どれか一冊でも小説を読めば分かる。食べ物のある場所を示す「だけ」なら、たとえば「広島、お好み焼き、ある」という単純な文字列でも十分伝わる。でも、今の私たちが駆使している言語はちっとも単純じゃない。むしろ、意思疎通を行うため「だけ」にしては、無駄に複雑だと言ってもいいかもしれない。たとえば、言語を使うといっても、次のようにいろんなケースが考えられます。

 

 命令する、そして、命令にしたがって行為する――

 ある対象を熟視し、あるいは計算したとおりに、記述する――

 ある対象をある記述(素描)によって構成する――

 ある出来事を報告する――

 その出来事について推測を行なう――

 ある仮説を立て、検証する――

 ある実験の諸結果を表や図によって表現する――

 物語を創作し、読む――

 劇を演ずる――

 輪唱する――

 謎をとく――

 冗談を言い、噂をする――

 算術の応用問題を解く――

 ある言語を他の言語へ翻訳する――

 乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る(5)

 

 ざっと一瞥しただけでも、語彙や文法のことを無視したとしても、言語を使うことがどれほど複雑なことなのか分かると思います。だから私が言いたいのは、言語はそういった機能を持つにしては、あまりにも余剰な機能が多すぎる、ということです。あまりにも複雑で入り組んでいる(6)

 ここで私は、変なことを主張しようとしています。この複雑な言語は、食べ物云々とは、別の理由で、かくも複雑になったんじゃないかって。そしてそれは、他者を馴致するために生成されたのではないかって。

 

(2)他者に向けられる言語という労働

 農耕は共同生活です。他者との意思疎通、何より行動の乱れが起きてはうまく行きません。これは狩猟とて同じですが、もっと違う意味です。反復を欲望するということは、反復から免れてしまう他者を恐怖するということと一体の関係にあります。農耕生活によって安定しているからこそ、そこからの逸脱を酷く恐れるというか。農耕文化が始まってから、人間同士の戦争が起きたという説を耳にしたことがあります。曰く、食料の奪い合いが発端だとか。

 だから、この目の前にいる他者は、昨日も今日も明日も、ずっと同じように行動するはずだ。だから、この安定した生活を乱したりしないはずだ。そういう確信を抱こうと必死になる。逸脱しないように管理・統制する技術が、そこで求められます。たとえば、身分制であったり奴隷制であったりといった、他者の意向を無視するシステムが発案されたのではないかと疑っていますが、もっと根本には、言語による統制が横たわっているのではないかと。

 

じんたね「この球磨ってキャラ、可愛くない? 語尾で『クマクマ』言ってるし」

後  輩「じんたねさんのほうが可愛いですよ。語尾で『タネタネ』言いませんけど」

じんたね「・・・うっせえ」

 

 この会話を考えます(7)。「可愛い」という表現で、「可愛い」という感情を共有していると思われます。球磨とじんたねのどちらが可愛いのかは、論をまたないと思いますが(8)、「可愛い」で示されている内容である「可愛さそれ自体」が前提になっている。

 ただし、ここでの「可愛い」は疑えば、どこまでも疑える。

 

 ――後輩は本当に可愛いと思っているのだろうか。

 ――実は、そう思っていないかもしれないし、話を合わせているだけ、あるいは下心があるのかもしれないし、まったく別のことを考えているかもしれない。

 ――女のイメージしている可愛さと、男のイメージしているそれは別かもしれない。

 

 言葉とその指示されているものがズレ得るというのは、よくある話です。だけど、私が強調したいのはそこではない。さっき私は「ズレ」と言いました。「ズレ」が起きるためには、まずもって一致が成立していなければいけません。たとえば「音階がズレた」という表現は、そもそも一致した音階が想定されており、しかもそれが共有されていて初めて、意味を持ちます。そして、その想定こそが、とても重要なんです。本当のところ一致しているかどうかは、割と、どうでもいいんです。

 私が「可愛い」といった。だからそれを理解した人間も「可愛い」を――どういうわけか――理解しているはずだ。これは言語が持つ、優れて特殊な規範です。

 後輩が、球磨ではなく木曾を指さしながら「このキャラ可愛いっすよね」と言えば、「どうして? カッコいいじゃなくて? 眼帯って可愛いポイントなのか?」と、その真意を問い質すこともあるでしょう。本来一致しているべき「可愛い」の意味が、ズレてしまっている可能性があるから(9)

 お芝居や小説、歌、「現在のフランス国王はハゲである」という文、どれもがその意味ではズレていますが、それはズレを楽しむ、あるいは例外として扱う態度があるからではないでしょうか。

 悪貨が良貨を駆逐する――ではないですが、言語のこの規範が失われると、そもそも言葉を話すことができなくなるように思います(10)不思議の国のアリスに登場するハンプティ・ダンプティ。彼は自分が思った通りの意味で、言葉を定義します。アリスはさっぱり理解できません。もし世界が100人のハンプティ・ダンプティだったら――言語は機能しなくなるでしょう。

 この規範におんぶにだっこされるカタチで、他者の心について、アレコレと表現すること――これが食べ物のある場所を示すだけでは説明のつかない、はるかに複雑な語彙と文法を備えた言語の成立につながっているのではないか。だって、他者が言葉と一致するはずだということになれば、他者に怯えなくても済むようになりますから。

 

 Aさん「私のこと、好きって言ったじゃないの!」

 Bさん「その時はそうだったんだ・・・」

 

 いかにも三文芝居に出てきそうな別れ話の台詞ですが、これもまた言語の規範があるからこそ可能となっています。私を「好き」だという言葉は――本当はそうでないかもしれない可能性を無視して――今日も、明日も、ずっと「好き」だという気持ちを表している。表された気持ちは変化しない「ということになっている」。

 だからこそ、Aは「好き」だと言われることが嬉しかったんです。なぜならそれは、苦痛の回避をもたらすから。Bとの関係の不変、Bが敵ではないということ、Bが自分の利益に貢献すること、等々。どれもが「Bは敵ではない=態度を急変させない」という反復への欲望を満たしてくれます。

 逆に、Bもまた「好き」だと宣言することによって、Aからそう見られることを欲していました。「私はあなたの反復への欲望を満たす存在ですよ」と(11)。Aの詰問に対して、Bが口ごもってしまうのは、まさに言語の規範を破っているから。天才バカボンのパパみたいに、昨日の約束は明日になったら通用しないと振る舞えるのなら、Bはへっちゃらでしょう。だって「好き」だといったのは、その時その限りでしかないのだから。気持ちが変わっちゃったんだし、仕方ないよねって。

 ちょっと脱線しますが、「好き」宣言は、さほど問題にはならないでしょう。だけど「結婚しよう」「愛しています」となれば、その重さは比べ物になりませんよね。「結婚しよう」とプロポーズして「やっぱやーめた」となれば民事訴訟にも発展しかねません。民事訴訟にならずとも「愛しています」という宣言は、とても重たい。その発言がそれ相応の行動を求めるからです。よく言いませんか? 軽々しく「愛」を口にするような人間は、まったくもって信用ならないって。それは「愛しています」という発言でご機嫌をとれることを――意識的にか無意識的にか――分かっているからですよね。

 口約束による契約はどうして成立するのか。法律の文言にどうして従わなければならないと感じてしまうのか。それは言語の規範、すなわち言っていることと言われていることとの一致を求める、私たちの実践があるからだと考えています。その実践の背後には、言動を一致させることによって、他者の予測不可能性を馴致しようとするメンタリティがあるからだと感じています。自縄自縛。相手に約束を守らせることによって自分も守る。それは人間という動物種に固有の特徴ではないのか、と。

 しかし、とはいえ。

 昔から「約束は破られるためにある」という金言が残っているように、言語の規範もまた、常に破られ続けてきたのでしょう。人間の心は、それ自体(?)、当人にも他人にもブラックボックスでしかないからです(12)

 

 Aさん「私のこと、好きって言ったじゃないの!」

 Bさん「いや、そんな意味で『好き』って言ったんじゃない」

 Aさん「じゃあどういう意味だったのよ!?」

 

 こうなってくると「好き」の意味も細分化せざるを得ません、たぶんきっと。こうして言語はどんどん複雑怪奇になっていく。他者の心を縛るための言語は、常に開発され続け、そして常に失敗し、さらに新たな用法を発明し・・・という労働の繰り返しによって、今あるような言語になったのではないでしょうか。

 

(3)言葉の自縄自縛

 話を戻します。

 人間という存在は、苦痛の回避を求め、反復を欲望している。そしてその欲望の対象は、自然にとどまることなく他者にまで広がってきた。

 他者とは理解不能な存在の謂いだったはずなのに、言語の規範による縛りを利用することによって、理解可能な昨日も今日も同じ、理解可能な存在にさせられる。きっとたくさんおしゃべりすればするほど、そうなっていくでしょう。お互いの趣味や関心を話し合い、どういう人間なのかを自己開示する。と同時に、開示された自己は、「これからも一貫したものでなければならない」と、その人自身を縛る。その意味で世間話とは、ハイデガーが言っているように、世間という曖昧模糊とした雰囲気に溶け込んで、お互いの意識を曇らせる共犯関係を作り上げることに他ならないでしょう。

 農耕技術を開発することによって自然の脅威を減らしたように、他者をもまた言語によって取り込んで(取り込まれ)、その脅威を減らそうとしている。結果、人間は生物として、言語を学ぶことができるように、自らをリプログラミングしたんじゃないか。

 たとえば母国語と第二外国語母国語の習得が、第二外国語の習得に比べて、なぜあんなにも簡単にできてしまうのか。それは、人間は生まれてからある一定期間、周囲の言語を習得しやすいように、生物学的にできているからではないか。母国語はその期間に学んだものである場合が多く、第二外国語はそうではない。そんなことからも、じんたねはリプログラミング説を主張したくなります。

 

再び、ナノマシン

 やっとここまで話を進められました・・・われながら前置き長えよ! 出オチで言ったことですが、確認のためもう一度。

 

人間は労働を駆使して、自然に抵抗しながら、そのむき出しの暴力を削ぎ落とし、人間自身に取り込んできた。取り込まれた労働生産物としてのそれは、長い年月をかけて「再び」人間の自然として定着する。よって、自然と労働の延長線上にある科学とを、すっぱりと切り分けて考えられないだろう。

 

 農耕も言語も、かつて自然の暴力を回避して反復を欲望した結果、人間に取り込まれてしまった。それはすでに、生物としての人間の「第二の自然」になっている。その意味では、後輩が解釈したナノマシンは、それらと同列に扱われ得る――これが私の言いたかったことです。

 きっとナノマシンもいずれは、さして新奇なものではなくなるでしょう。SFの設定ではなく現実の私たちのものとして。もちろん、それが自然を馴致した結果だということに、誰も気を留めなくなるレベルになれば、の話ですが。そのためには、とりあえず以下のようなことをクリアしないといけないかもしれません。

 まず、ナノマシンの素体の工夫です。電力を微弱な静電気から確保できるとしても、素体を金属に頼っていては困ります。故障した場合、人体内部で修理できないから。いちいち取り出して修理すると、そのための技術を備えた専門家が必要になってしまう。それは反復可能性を脅かしてしまう。専門家がいなくなってしまえば、それまでですからね。だから、自己修復機能を備えた故障しにくいシンプルな構造、かつ、素体は修理可能なものにするでしょう。

 たとえば、体内に流れているイオン化された金属を結晶化させる能力を持たせるかもしれない。あるいはそもそも金属ではなく、人体の組成と同様、タンパク質等で構成されたナノマシンを作り、体内にいたまま再生産が可能になるようにするかもしれない。

 でも、まだそれだけでは飽き足らない。特定の個体ではなく、その後世にまでもナノマシンを伝達したい。新しい個体の発生のたびに、ナノマシンを埋め込むのは、やはりリスクを伴ってしまうから。じんたねだけではなくじんたねの子どもにも。ならば、遺伝子レベルにまでナノマシンを生成できるプログラムを書き込む必要がある。こうしてめでたくナノマシンは、十全なナノマシンとして、人間の反復の欲望を満たすことになるはずだ。

 

 さて、ここで話は終わっているのですが、後輩の話を広げて、自分だったらどう小説のカタチにするかも妄想してしまったので、ついでに書いてしまいます。

 

 たとえば、かつては別々の生命体であったミトコンドリアには、実は古代人のプログラムが書き込まれていた。それがいきなり作動し始め、ナノマシンと人体をめぐる領土争いを行うようになる。どちらが人体の主になるべきか。ミトコンドリア派の仲間はナノマシンを駆逐しようとし、ナノマシン派の主人公は、ニュータイプの人類を宣言する。そうして喧嘩をしている間に、ミトコンドリアナノマシン双方の機能が損なわれ、人類はかつて経験していた自然の脅威に、再び晒される(たとえば疫病)。そして仲違いをしていた主人公と仲間は、共同戦線を張り、次第に恋愛感情へと発展する。2人の間にできた子どもには、ミトコンドリアナノマシンの特徴を備えた労働の結晶が備わっていたのであった――ここまで妄想してお昼は終わり。

 

「じんたねさん、この話、面白いっすよね?」

「・・・(上記のことを考えていたので、説明が面倒になった)うん、そだね」

「今度、貸しますよ。感想聞かせてください」

「ところで、私のほうが球磨より可愛いくない?」

「え? もしかして飲んでます?」

「・・・ごめんクマー」

 

 お後がよろしいようで。

 ところで7月に『キミ、色、トウメイ』2巻が発売されるらしいですよ?

 

 

キミ、色、トウメイ 2 (ぽにきゃんBOOKSライトノベルシリーズ)

キミ、色、トウメイ 2 (ぽにきゃんBOOKSライトノベルシリーズ)

 

 

(1)人工とも技術とも訳される「art」の意味だと分かりやすいかもしれません。科学もまた、労働の延長にあると考えられます。

(2)これは無職である、働いていないといった一般的な意味での「労働」ではありません。

(3)大事なことなので2回言いますが、ここで言う「労働」は、一般的な意味での「労働」じゃありません。一般的な意味での労働に、私はモチベーションを持てませんからね!

(4)シオラン、E.M.、出口裕弘訳『生誕の厄災』紀伊國屋書店、1976年、229頁。

(5)ウィトゲンシュタイン、L.、藤本隆志訳「哲学探究」『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館書店、1976年、23節。

(6)岡ノ谷一夫『さえずり言語起源論』(岩波書店、2010年)にも、同様の論点が指摘されていて、この本ではジュウシマツの研究から、求愛の歌にその起源を求めたりしています。

(7)フィクションだよ、ちくせう!

(8)ここは「じんたね」だって言ってくれ・・・。

(9)木曾だって可愛いから、これはあくまでも喩え話だキソー。

(10)人によって言葉に込められた意味は違うと考えられるので、常にすでに「一致を前提としつつズレを調整する」という生成変化が、いつも発生し続けているというのが実情ではないかと思っています。

(11)言葉なんて定義の曖昧なものを取り払って、脳内のインパルスを記号に変換しダイレクトにコミュニケーションできるようになれば、他人の心をめぐる誤解や争いはなくなるという、陰に陽に示される考え方があります。この考え方、じんたねには本末転倒に見えます。言葉を取り払えば、お互いに交換可能な心の状態――嬉しい、悲しい、辛い等々――があると信じているからです。元々、共約不可能な他者を、相互に共約可能なものとして扱おうと労働した結果、言語があるのですから。言語の規範がもたらす、相互理解というフィクション性を、あまりにも単純に信じている気がします。

(12) 心もまた、言語によって構築されたものかもしれないという話もあるんですが、本筋から逸れるので、ここでは触れないでおきます。