ライトノベルは斜め上から(9)――『少女幻想譚』
こんばんは、じんたねです。
最近、グラブルに嵌まっていて、仕事に身が入りません。前からですけど!
さて本日は、コチラの作品を扱います。
0.解題の前に
ひとまず説明をさせてください。本作品は、一般的な意味におけるライトノベル(キャラ重視、イラストがある、特定のレーベルから出版されている、など)ではありません。
作者様も「ライトノベル」として取り上げられることに、違和感などを覚えられると思います。ひょっとすると不愉快に感じられるかもしれません。
ですが、です。
ここで本作品を取り上げたのは、それがライトノベルであるかどうか――というよりも。ライトノベルを考えるにあたって、極めて示唆に富む面白い作品だから、という理由があったためです。
私の解釈では、ライトノベルはある種の「分かりやすさ」を志向します。校正を受けるとき、最優先される基準は、「分かりやすい/分かりにくい」から「修正しない/修正する」というもの。「分かりにくい」から「修正しない」という選択肢はなく、「分かりやすい」から「修正する」ということもありません。
そのことの是非を問うてはいません。ただ、その基準に慣れ親しんできた私にとって、そうではない表現方法に触れられて、とても感動的だったということを、ここでお話したいと思っているのです。だから今回は、敢えてライトノベル的ではない作品を扱わせていただきました。
そしてそれは、別のライトノベル的な作品と比較することによって、さらに興味深い地平へと、私たちを誘ってくれるのですが、それは次回とりあげる作品をご覧になってください。明後日には掲載予定です。
解題――反復される記号と意味の剥奪
1.作品紹介
男、喋るトランク、七人の芸術家、そして閉じ込められた少女が織りなす奇妙な物語。
前衛小説、実験的と評されながらもポップさを併せ持つ、絶対移動(中)大賞受賞作。
(白雪姫前夜)
図書館にて、本の読み聞かせで少年が目にしたのは、彼にだけ見える不思議な少女だった。
物語のなかにのみ現れる少女と、少女を求めるあまり読書にのめりこんでいく少年を描いた短編小説。
(鏡子ちゃんに、美しい世界)
ある日突然少女の家から『゜(半濁音)』が消えた!パパはハハとなり、少女は消えた『゜』を探す旅に出る。
だが空からは大きな目=カルマが彼女を見つめていた。
(/いいえ、世界です。)
町のいたるところは『かれら』がいた。
誰にもつかまることなく自由に町中に現れる『かれら』と、にんげんたちの生活の24時間を切り取った、詩情を孕んだ一編。
(おはなしは夜にだけ)
少女をテーマに含んだよっつの物語を収録した短編集。
隙間社電書第一弾
筆者:伊藤なむあひ
表紙絵:よしくに
2.繰り返される表現
まずは上記のタイトルを眺めてみてください。ご覧のように、それぞれが独立したストーリーであり、私が読む限り、本作品は短編集です。
「私が読む限り」という留保をつけたのは、その作風から簡単な解釈を許容しない、あるいは、解釈が定まらない地平を目指している作風だから、です。
どれか1つの短編を選んで扱えば、他の短編について当てはまらない。また別の短編に注目しようとすれば、またさらに別の短編については説明できない。かといって全体を扱おうとすれば、ひどくピンぼけした解釈にしかならない。
読み手に「分かりやすさ」を提供しない。普段、慣れ親しんでいる活字から、ファミリアリティを奪って示してみせる、そんな作品だと考えています。
様々な「遊び」とも「実験」ともとれる、表現が続くのですが、ここでは特に心に残った『白雪姫前夜』に注目します。
『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』と共通の話題がない事に気が付いた。それどころか男は『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』のことを何も知らなかった。
『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』がどこで生まれたのかも。
『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』がどんな性格なのかも。
『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』がいままで何をしていたのかも。
『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』がどんな持ち主と過ごしてきたのかも。
これは良くない。そう思い男はまず『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』の話を聞くことにした。(電子書籍のためページ数なし)
どうでしょう。何度も『小柄な小学生なら一人くらいは入りそうな大きさのトランク』の表現が並び、読みながら途中で、ふわふわした感覚に襲われないでしょうか。たとえば、小学校の頃、「水」という漢字を10回書くという宿題を出されたことがありませんでしたか。最初の2,3回は「水」の持つイメージ、涼しい感じや透明な色が湧いてきたとしても、9,10回書く頃には、ただの鉛筆の黒線にしか見えなくなってしまう。
適度な反復はそのイメージを強化しますが、過剰な反復はそのイメージの閾値を超え、そこからのズレをもたらすからです。モノマネという芸も、「その人らしさ」を過剰に繰り返し、そのズレを提示して可笑しみをもたらすという機能があったりするとかしないとか(聞きかじり)。
他にも「。」という記号が失われた家庭の話があります。家の中から「。」がすべて失われてしまったため、たとえば「シャンプー」は「シャンフー」となり、「パパ」は「ハハ」になってしまいます。それは表記上の問題だけではなく、その名前に対応した実在物も姿が変わってしまうという設定です。
また、本のなかにだけ登場する女の子を求め、ひたすら読書に没頭する主人公の話――『鏡子ちゃんに、美しい世界』というのもあります。これは本のなかにある活字を追いかけて、そこから喚起されるイメージのようなものを、女の子に仮託していると解釈できます。『鏡』という言葉も意味深長です。鏡子ちゃんを求め、主人公は何度も何度もいろんな本を読み漁ります。
つまり、どれもが記号の反復による意味の剥奪というテーマを扱っているように思います。
3.剥奪されたあとの風景
では、言葉の意味を失った私たち読者は、最後にどこに連れてゆかれるのか。短編集の最後にはこんなセリフがあります。
「おかあさんおかあさん、おはなしの続きは?」
「今日はおしまいよ、もう寝ましょうね」
(中略)
「じゃあ明日の朝、起きたらすぐね」
「それもだめ。このお話は夜にしかできないの」
「どうして」
そう少女が尋ねたときにはもう、少女の母親の姿は見当たりませんでした。(電子書籍のためページ数なし)
本当はもっと面白い部分まであるのですけれど、ネタバレになるので割愛。ここもまた「おはなしの続き」をせがむ娘に答える母親が、ふっ、と消えてしまう。「話」=言葉の意味を剥奪されたまま、「娘」=読者は取り残されてしまいます。
と、ここまで話を続けてると、まんまと作者の罠に嵌められたことに気付かされます。なぜか。最後の最後に剥奪された風景を魅せつけられて、そこに意味を回復しようと、ああでもないこうでもないと、じんたねは自らの解釈を開陳してしまっているからです。
剥奪したままではなく、おそらくそこから再び、この意味のある風景へと揺り戻させる。読者を考える方法へと導く。それが隠れた狙いなのではないかと、考えているからです。
そしてその帰還の方法は、あくまでもじんたね個人によるもの。違う読者は、また別様に読むことができる。
私の解説を、どうか一度リセットして、本作品の「遊び」的「実験」的な文章にふれて、楽しんでみて欲しいと思います。
(文責:じんたね)
さて、次回のライトノベル的「遊び」作品は、コチラ。
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