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ライトノベルは斜め上から(19)――『ナ・バ・テア』(後編)

こんばんは、じんたねです。

ほんま、寒いのぅ。

 

さて、本日は引き続き、ナ・バ・テアを取り上げます。

前回へのリンクはコチラになります。

jintanenoki.hatenablog.com

 

4.ナ・バ・テア弁証法

さて、ようやく本題に入れます。

 

主人公はパイロットです。高みにのぼることによって、現世の煩わしい世界から足を洗おうとしている。あるいは見下すことで距離をとろうとしている

 

ここ、すでに弁証法的な矛盾が働いていることに、気づかなければいけません。

 

本当に、現世を超えた存在であったり、「理想」を生きている人間であったりすれば、そもそも最初から現世、言い換えれば「現実」にウンザリしたり嫌気がさしたりするはずがないんです。嫌悪というものは、同族のあいだで起こるものだから

 

主人公は、高みにのぼることで距離をとっているかのようにみえますが、本当は誰よりも、誰からも距離をとろうとしている時点で、下賤な存在なのです。言い換えれば「現実」を生きている

 

主人公は、定期的に戦闘機への愛着を示し、それが叶わない場合は、きわめて低俗な言動にでます。それは戦闘機に限らず、憧れの存在である「ティーチャ」の振る舞いや、それをとりまく人間関係が、「現実」的になろうとすればするほど。心乱れ、軽率な行動をとってしまいます。

 

なぜなら、それは主人公もまた「現実」にいるから。「現実」にいるからこそ、「理想」に恋い焦がれ、それを妨害するものを徹底的に排除しようとする

 

エンジンは確かに一瞬息をつく。そのとき、スロットルを少し下げてやらなければならない。それくらいの愛情は、どんなパイロットにだってある。冷淡なメカニックの連中にはわからないらしい。(144ページ)

 

この台詞は、新しい戦闘機に乗ったとき、癖のあるエンジンの扱いについて、独白している箇所ですが、多層的な解釈が可能です。戦闘機を愛してやまない主人公が、それを愛せるのは、戦闘機が「理想」を体現しているからに他なりません。空へと自分を逃避させ、「現実」のわずらわしさから解放してくれる存在。

だけど、エンジンの扱いというのは「現実」です。単純な操作ですませようとする「メカニックの連中」を愛が足りないと軽視しています。

 

「あれ? 何を言っているんだ?」――私はそう思いました。

 

メカニックたちが単純な操作ですませようとするのは、戦闘機がちゃんと機能するため。言い換えれば、それを操作するパイロットに負担をかけないためです。作中のメカニックは、かなり人間味にあふれた性格として、描かれています。

 

「現実」を簡単にすませて、そこから「理想」へと逃避しようとしているのは、他ならぬ主人公のほうではないかそんな主人公が、エンジンという「現実」をないがしろにできないメカニックに向けて、なかば冗談交じりに独白する。

 

「理想」を強く求めるために足元がおろそかになっている。あるいは「現実」に向き合うことを避けているからこそ、それに向き合っている人間に向けて、冗談の1つも言いたくなってしまう。そんな態度を、ここではきっちりと描写しているのです。

 

 

5.大人になるためのレッスン

そして主人公は、上述のように、「1.」から「2.」へとストーリーの山場を経験します。

 

1.主人公の「暗い」性格が、周囲に馴染めないままでいつつも、それがかっこよいと描写される。

 

この状態から、

 

2.だが、主人公がそのままの性格でいることで問題が生じ、本当に居場所を喪失してしまう。

 

への移行です。

 

すなわち、尊敬していた「ティーチャ」の人間的な側面を知るのです。それは空を飛んでいたカリスマが、地面に降り立つこと、すなわち「理想」から「現実」へ落ちてしまうことを意味します。作品では、「ティーチャ」が、ただの普通の男であることを、主人公は知るのです。主人公「僕」の心は千々に乱れ、読み手の気持ちも、それと同時に揺られる。その結果、「ティーチャ」と肉体関係を結んでしまいます。

 

作品の前半で示されていたのですが、実は「僕」は、生物学的に女性なのです。「現実」よりも「理想」を求める「僕」にとって、女性としてみられ、扱われ、ときに気遣われることは、ひどく煩わしいことであり、「僕」という一人称がそれへの反動であることを読み取っても、間違いではないでしょう。

 

そうして「理想」を失い、自分を見失い、「理想」が自分の思い込みによってつくられていたことを、「僕」は突きつけられます。その結果どうなるか。主人公は自分が「理想」に生きる超越的な存在などではなく、それを否定しようとするほど俗っぽい「普通」の人間であることを気づかされるのです。

 

もう駄目だ。

飛んでいられない。

降りなければ。

やっぱり、僕は、ただの人間なんだ。(286ページ)

 

この台詞は、まさに、そのことを示しているでしょう。

 

 

6.「現実」=懐胎という謎

そして物語の終盤になると、主人公は「ティーチャ」の子どもを宿していることに気づきます。そして「僕」は、堕胎の手続きをとるために彼と連絡をとるのですが、そこで「ティーチャ」が、その生命を引き受け、自分で育てようとしていることが示唆されます。

 

「もし、生きていたら、その子を、人工的に育てるのですね? そして、人間になるのですね?」

「もちろんだ」

「普通の人間になるのですね?」

「当たり前だ」

「本当ですね? 本当に普通の人間になるんですね?」

「君だって、普通の人間だろう?(308-309ページ)

 

すでに自分が普通の人間であり、もはや「理想」には生きられないとを知った「僕」は、普通の人間になるように迫ります。「ティーチャ」は言います。「君だって、普通の人間だ」と。これもまた弁証法的でしょう。

 

主人公は自分のことを普通だと、もう思い知らされています。「理想」ではなく「現実」に生きている。けれど、それでもかつては「理想」に近いところにいた、高みから「現実」を見下ろしていた、だけど落っこちたという考え方に立ち、そんな思いをさせないように「人工的に育てる」ことで「普通の人間になる」ように願います。

 

そこに「ティーチャ」は「現実」を突きつけます。そのように「現実」忌避し、「理想」を目指そうとする主人公こそ、その考え方や生き方が、まさに普通なのだと。主人公は欠片も「理想」の世界に生きていない。

 

ここで主人公が「僕」だったことが、そして妊娠したことが、とても重要な意味を持っていることに気づかされます。

 

これまで、いろいろな文学作品において、妊娠は何度も扱われてきました。生命賛美、不吉な運命の暗示、いろいろな意味が込められてきましたが、そこには共通の理解が流れています。

 

すなわち、意味不明で容赦ない「現実」であるということ。

 

考えてもみてください。人が人を作り出して、育てる。このあまりにも当たり前でそれなしではヒトの再生産は考えられないほど、重要な意味を持つ。けれども、人が人のなかから生まれ、それが新しい人になり、別の人間になる。これは意味の分からないことです。

 

私たちは他人の考えることが分かりません。ごく素朴な意味でも、他人が痛がっていたり、悩んでいたりする「それ」を、まったく同じように感じることはできません。それがないことが、むしろ他人であるということの定義ですらあるでしょう。

 

だけど懐胎は違う。私という1人の人間だったものが、どういうわけが2人の人間になって、分かれる。分かっていた自分に、まったく理解できない他人が、孕まれる。これは本当に不思議なことです。そして大事なことは、懐胎はとても「現実」的なことなのです。

 

「理想」と「現実」

この対比を用いながら、ずっと話をしてきました。

 

「現実」は、摩擦や泥臭さ、嘘や意図が入り乱れ、まったく混沌とした状態を意味します。言い換えれば、人間あるいは人間関係の混沌そのものです。それが面倒だから、主人公は「理想」を求め、パイロットになっていました。それが面倒であるという、きわめて泥臭い「普通」動機に基づいて。

 

懐胎は、「現実」のもっとも混沌としたことを表現するシンボルであり、比喩です人間が人間を作り、そこに人間関係が生まれる。まったくわけが分かりません。筋が通って高みに立つというようなことは、子育てにおいては難しいでしょう。子育ては、その混沌を丸抱えすることだから

 

つまり、懐胎の到来によって、主人公はもっとも「現実」的な状態へと、上空から突き落とされるのです。

 

 

7.それでも「僕」は空を飛ぶ

物語の最後。主人公は「ティーチャ」との関係を閉じ、パイロットとしての生活を再開します。

 

僕はそれから大笑いした。

思いっきり笑った。

空だから。

なにもないから。(344ページ)

 

 

このラストは、本当に味わい深い本作品は「特定の読者を虜にしてしまう魅力」があると、私は述べました。すなわち、孤独に苦しみ、その己の孤独を特権化しようとする読者を、です。

 

「ティーチャ」のカリスマが失落し、主人公はもう「理想」の状態には、い続けられません。普通の人間なのですから。ここだけを見れば、上記の読者を裏切っている君たちは俗っぽく、自分が普通の人間であると認められないだけだ、と

 

ですが、そうはなっていない。「現実」を受け入れたはずの主人公は、それでもまだ、パイロットをし続けるからです。面倒な「現実」に追いやられ、「理想」へと逃亡した「僕」には、やはりそれでも「理想」に恋い焦がれ続けながら、生きるという「現実」しかないのです。

 

これは、小説の冒頭に、ある意味戻ったことを意味しますが、ただ元鞘におさまったわけではない。主人公は「理想」を求めつつも、懐胎という「現実」の試練を経験し、それでもなお「理想」を信じることができる。単に「理想」の敗北者の物語ではなく、「現実」を踏まえて、より柔軟に、たくましくなり、また「理想」を願うから。

 

最後に大笑いした主人公は、幸せだったのだと思います。「現実」を否定し「理想」を求めたが、その夢に破れて「現実」に墜落しながらも、もう一度「理想」目指してフライトを果たしたのだから。

 

ここに作者の、孤独に生きる者への、優しい眼差しがあるでしょう「現実を知って大人になれ」と言いながらも、同時に「子どものまま夢を見ろ」と、弁証法的なメッセージを発しているのです。

 

この孤独の癒し方=向き合い方は、大人の階段をのぼって、また、そこをくだりなさいという、作者独自の声が反映されているのではないかと解釈しています。他人は他人、自分は自分、不干渉であることが正義だと、主人公に語らせておきながら、「現実」という他人と干渉しろと言っている。

 

こうまとめられるでしょう。

世間の常識から距離をとって孤独に飲まれるのではなく、かといって、それに馴染み溶け込んだ大人になって孤独をごまかすのでもなく、世間に紛れて、大人になって、回り道をして、再び孤独な子どもになりなさい。

 

 

本作品は、そんな声が聞こえてくる、ヒネリの効いた小説でした。

(文責:じんたね)

 

さて、次回の作品はコチラになります。