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はてなブログを始めてみた

 けど、これってどうやって活用したらいいのでしょうか。

 ここに自由に書くことができるのですよね。

 慣れるためにも、まずはちょっと昨日、眠れずにもやもや考えていたことを。

 

道徳律の成立

 「嘘を吐いてはいけない」「正直になれ」「人を殺してはいけない」「命を尊重せよ」などの道徳律が成立していることについて。どうしてこれ、成立しているんだろう。

 なおここでは、多くの人が「善い」と感じ、特定の言動や考え方を――意識的にであれ無意識的にであれ――支持するような内容を命題化したものを道徳律と呼ぶことにします。

  ここではじんたねが感じたままを書き綴ります。

 

(1)共感

 「他人が苦しそうにしていたら、アナタだって嫌ですよね。視界に入ってくる人間が苦しそうにしているより楽しそうにしているほうがいいですよね。だからそうならないように道徳率を守ったほうが幸せですよね」というスタンスから、道徳律を説明する場合、こんな考え方になると思いました。曰く、自分の行為のおかげで、お互いの心地よい感覚が共有されるのだから、それを命題化して道徳律が生まれるんだって。

 これに基づく道徳律はたしかにある。

 私個人も、相手が嫌そうな表情を浮かべているのに、その人と一緒に食事をとったり、おしゃべりをしようとは思わない。「迷惑をかけるな」という道徳律は、そこから生まれているんだろうと思う。

 だけど、これじゃ説明のつかないこともある。

 まったくの赤の他人がいて、おそらく将来的にも私の利害に関係しないような存在の人々が苦しんでいる場合。その人を手助けしようと、果たしてどこまで本気になれるか。地球の裏側で苦しむ人々よりも、自分の首にある出来物の痛みのほうが、はるかに重大ごとだ――というたとえ話があるように、共感すらし得ない他人がいることは間違いない。だから道徳律なんてない、じゃなくて、それでも見ず知らずの他人しかいない場所でも、道徳律を守ろうとする人は、個人的には多いと思っている。

 たとえばマナー意識が低いと揶揄されがちな若者ですが、私見だと、ごみを捨てなかったり、他人(私)の悪口を言わなかったり、とにかく道徳的な人も多いと思う。そんな彼ら/彼女らが、私との共感をどれだけ尊重しているのか。ちょっと不透明。

 むしろ、他人に嫌われたとしても、やるべきことがある、という道徳律だってあり得るんじゃないか。

 恋愛に悩んでいた若かりし頃(いつだよ)「愛する人に嫌われても、その人のためを思って行動できるかどうか。それがアナタの愛が本物であるかどうかを見極める基準です」なんてあったりして、ふえぇぇ!? と泣きそうな気持ちになりもしましたが・・・ええと、たしかにそういうことってある。このまま関係を続けて、相手のためにならないからって別れたこともありますし。

 だから共感「だけ」じゃないよなぁ、と。

 

(2)罰(サンクション)

 道徳律を「善い」と思わない人間に対して、特定の罰(サンクション)が加えられるから、人は道徳律に従うようになる。もちろん肉体的な罰だけではなく、精神的な罰もあり得るし、グループに所属できない自由を奪うといった「陰湿な」経路からの罰も含めて。

 これは教育の場面、あるいはギャングエイジを想定すれば、かなりの説得力のある説明になります。

 こんな話ありませんでしたか? 食べ残しはいけないから、給食の時間中に食べ終わるまで、お昼の自由時間に遊べなかったとか。あるいは、あの女の子のスカートをめくってくれば仲間に入れてやる、とか。そうやって、学校という場所での道徳律を叩き込まれたり、仲間内での価値観を身につけていったり。

 ただ、これも罰「のみ」を原理にすると、ちょっと分からない部分が出てくる。

 以前、ツイッター上で話題になっていたのですが、同性婚を認めるべきか否か、という論争がありました。個人の自由に委ねるべきだ、いや、生物学的に異性同士でなければならない、云々。

 ここでは議論の方策として用いるので、そのいずれの「べき」にじんたねが与するのかは触れません。

 ここで出てきた「べき」、つまり「善い」をめぐる議論は、明らかに罰によって形成されていない、というのが私の言いたいことです。私の事例で恐縮ですが、幼い頃から異性同士の結婚が善い/悪い、それに従わないと罰を加えられる、といった経験はありませんでした。見てきたものといえば、核家族の一人っ子として、人並みに共同生活を送る父と母の姿だけ。

 刑事罰を事例にあげて、それが道徳律の源泉だという功利主義的な考え方を展開する議論がありますが(盗みは罰せられるから、盗みはよくないという意識を生み出し、それが抑止力となる、など)、それはすべてを説明する議論ではなさそうです。

 とある哲学者が「明らかに善い結果をもたらす場合、嘘をつくことはよくないことなのか」といったような問いを、幼少の頃に発したと言われています。そうなんです。悪い行為、あるいは善い行為の結果がどうあれ、嘘をつくことはよくないことだ、という意識を持つことがありますし、持っているんです。

 どうして罰から道徳律を導くことができるのか。もっと精緻に話を詰めなければいけないのですが、じんたねの頭ではどう詰めていいのか分からず、ギブアップ。

 

(3)功利主義

 道徳律を守ることが、個人にとってメリットが大きいから。罰(サンクション)を受ける場合、当然そう振る舞うほうが賢いし、道徳律は守るべきだと「口だけで言っている」ほうが白い目で見られなくてすむから。

 これは現代において、かなりのリアリティと説得力があるとされている立場だと思います。道徳なんてと嘯く人々は、いつも功利主義の立場から批判を展開します。「善いなんてキレイゴトを言ったところで、所詮は、誰かのメリットを維持するための方便にすぎない(だからアナタは世間的な善にそそのかされていて、私とは違う)」みたいなトーンがあります。

 倫理学でも有名ですね。カント的義務倫理学=「善いというのは定言命法によって判別される善さそのものなのだから、それはいかなる利害関心からも離れて順守されるべき道徳律だ」に対する批判として。

 聞きかじりの半端学問知識なので、これ以上突き詰めるとアラが出ちゃいますが・・・功利主義はなにより、今ある道徳律を絶対視しない点に、売りがあると思います。

 

「正直になれ」

「では、末期癌にかかり、その事実に耐えられない患者に向けて、『あなたは死にます』と言えるのか」

 

 批判はごもっとも。それに道徳を説く人の「胡散臭さ」を指摘する際に、切れ味がよい。「勤勉であれ」というのは、単独では分かるとしても、たとえばブラックな経営者が、その部下に向かって説こうとする場合、裏の理由が透けてみえます。「勤勉であれ。そして俺に奉仕しろ」と。

 おそらく人は、自分の功利を計算しつつ、時々に応じて「正直」であったりなかったりするものだ。そういうことなのだと思います。

 だけど、なんです。

 功利主義は、モデルの出発点に、その主張のアキレス腱を断ち切ってしまう恐れのある刃を、懐に潜ませてしまっている。

 

「(自分の)メリットになることがいいことだ」

「では、そのメリットとは何か」

 

 こんな事例があります。とあるアパートに一人暮らしのジン・タネ子さん(仮名)。毎週火曜日が、そのアパートの燃えるゴミの日を出す日なのだけど、前日にゴミをまとめる時間がなかったため、いつも水曜日にゴミを出していて、一週間遅れでそれを収集業者に集めてもらっていました。功利に叶っています。

 だけどある日。そのことが大家さんにバレてしまい、アパートの全住民に向けて反省文を書かされることに。その労力もさることながら「大家さんに目をつけられた面倒な人」というレッテルが、そのアパートでの暮らしを不自由にしてしまいました。ジン・タネ子さんは泣く泣く引っ越す羽目に。

 大家さんやジン・タネ子さんを糾弾したり、ゴミの日を相談して決めればよかったといった話をするつもりはないんです。

 ジン・タネ子さんなりに功利を計算して、「賢く」振る舞おうとしていたのに、それに失敗してしまったということを言いたいんです。功利の計算――どうやったら自分の利益を最大にすることができるのか――というのは、思われているほど簡単ではない。

 日当たりのいいアパートを買ったのに、すぐ前にビルができてしまってガッカリ、なんて話は枚挙にいとまがありません。功利の計算は難しいんです。ごく短期的な場合なら分かりますが、中・長期的なものとなると、予測不可能です。

 自分自身の功利もまた、環境に応じて生成変化していくため、予想しにくい。独身時代にタバコを買いだめしていたら、結婚後、副流煙のことを考えるようになって、タバコがおいしくなくなった、なんてこともあるかもしれません。

 それにまだあります。

 ゴミ出し。私も定期的に行っていますが、そのたびに「これは功利に叶っているか」なんて考えません。半分以上惰性で行っています。その都度計算していたんじゃ、生活できなくなっちゃいます。

 経済学の議論で、百貨店の売上分析というものがあります。顧客はおそらく自分の欲しいものを最安値で購入するように行動しているという前提で計算すると、売り上げが落ちたらしいです。そうではなく、「とりあえず3階に行けば欲しいものがある」というように、お客さんのほとんどが何となく出かけ、習慣で買い物を済ませるとのこと。ここにも功利的計算による行動を、さほど行ってはいないことの証左があるのではなかろうかと。

 

(4)同調・習慣

 で、じんたねが大きな要因と考えているのは、同調・習慣によるものが大きい、という考え方です。

 道徳律は普段の生活において、周りの人と同じことをして、それが繰り返され、習慣となっているものを命題化したものだ、という立場です(いや、立場というほどポピュラーじゃないんでしょうけれど・・・)。

 つまりそんな何も考えていないけれど、同調・習慣が成立していて、それを乱されることがないように道徳律を発明して、言葉で他人とシェアしましょう、という。これなら功利主義の計算問題に応えられますし、共感や罰で課題になっていた、他者の目に見えなさや罰不在の道徳律についても、ある程度説明がつきます。ずっと続けてきたことを守りたい――さもなければ、習慣を乱され不安に晒されるから(ラカンの「欠如の欠如」)――というモチベーションに基づく。

 ここでも反論が1つ。

 ナチズムの問題圏です。どの本だったか忘れてしまったのですが、ユダヤ人に向けた虐殺が常態化してしまっていて誰も違和感を抱いていない状態があったそうです。あんなに大量のユダヤ人を列車で「運び」、大量の死を生み出し(油を石鹸につかったり、金歯だけを抜いて利用したりといったこともあったようです)たのに、誰も声を上げなかったって。そのことを告発した内容だったのですが、これはおそらく同調・習慣がそれを「善い」としたからではないか。それでも同調・習慣が「善い」につながっていると言えるのか。

 これについて、じんたねは反論を用意できていません。

 周囲と屹立した個人の倫理といったものを、同調・習慣に基づく議論は拾えないと思います。

 もちろん生物としての人間が、そもそも他人と協力するようにできているから(マイケル・トマセロ)、そのより根本的な同調・習慣のレベルから見れば、その問題はクリアできるとは言えそうです。

 だけど、です。

 生物としての人間が、他民族や集団を虐殺し続け、支配し続け、生き残ったほうが「盗人猛々しく」も道徳を語る、というのも否定できない側面。どうしたものか。

 

道徳律は、やっぱよく分からない 

 ここら辺りまで考えて、意識を手放したのが昨日。同調・習慣はいい線いっていると思ったんだけど・・・イマイチだったよ!

 とまあ、こんな感じで、日々思ったことを、特にライトノベルに「直接的に」書けなかったことをボロボロと置いていこうかと考えています。どうなるか分かりませんが。 

キミ、色、トウメイ 2 (ぽにきゃんBOOKSライトノベルシリーズ)

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