ライトノベルは斜め上から(52)――『ライター&エディターシリーズ』

こんばんは、じんたねです。
あまり日があかないまま、ブログの第二弾をやります。
今回の作品はこちら。

解題――ラブコメの調理方法

1.あらすじ

主人公はいわゆるうだつの上がらない系20代男子。職業は駆け出しの作家(おそらくライトなものを書いている)。名前はあったかもしれないけれど、私としてはなくてもいいので知りません。ええ、男の主人公なんて匿名でいいんですよ。

 

で、ヒロインはその作家を担当する編集・内海冴子。小柄で黒のパンツスーツを着こなし、格闘技も強くて、かなり寒いオヤジギャクを言ってのけるクール・ツンデレ

本作のストーリー・ラインはとてもシンプルです。作家である主人公が、なんやかんや理由をつけて、編集の内海さんに出会って、オヤジギャクを聞いて、突っ込みを入れながら、イチャイチャして、終わり! 閉廷! ちくしょう!

 

・・・ジョークです。話を本題に戻しますが、お察しのとおり、非常にまとまったラブコメ作品です。

 

2.ラブコメ製造工場

ブコメを製造するにあたって、お約束というか、私は自分なりの鉄板を意識して書いています。挙げればキリがなさそうなので、ごく手短に、いくつかに絞ります。

 

まず、1つ目として女の子がたくさん登場すること。1人だけのものもなくはないのですが、「男の性」という理屈からか、飽きが来ないようにバリエーションがあります。そして、複数の女の子は当然ながら異なるキャラ性質を持っております。

ただ、意外に気づかれていないのですが、ラブコメで重要なのは、女の子に対する軽重がはっきりしていることです。ストーリーが展開されるにしたがって、もちろん女の子の軽重はシーソーゲームのように揺らぎます。Aもよかったけど、やっばりこんな過去とイベントのあるBが最高だよな、云々・・・。だからこそ、いろんなバリエーションの女の子が出てきても楽しめるわけです。

 

そして、もっと重要なのは、メインヒロインがNO1という軸を外さないことです(最後の最後に、この軸をずらすものもありますが、それはむしろ王道をアレンジしたバージョンだと解すべきです)。

 

いや、反論があるのは分かります。ラブコメは、いろんな女の子に浮気をしてみたり、おっぱいをあれしたり、おしりをもにょもにょしたり、もっといろんな感じに、いろんなぽにょんをぐにゅぐにゅしたり・・・とまあ、いろいろあるわけですから。ただ、それだけだとドロドロの昼ドラになってしまい、とても男の子が読む作品には仕上がらない。メインヒロインという軸が決まっており、ホームタウンに帰ってこられなくなるから。いつぞやの演歌や歌謡曲じゃないですが、男は浮気しても戻ってくる、というのが男の美学の伝統(つまりお約束)として、息づいているからですね。

 

次に大事なのが、女の子を魅力的に描くこと。
これが難しい。なにが難しいかというと、女の子とキャッキャウフフしたいと思っている人が読む限りにおいて、女の子らしい女の子であり、同時に、薄っぺらくならないというラインを描く必要があるからです。男の都合がいいだけだとつまらないけれど、かといって生々しいほど女だと「引く」ということですね。

 

もっともオーソドックスな方法論なのは、男性的趣味を女性に投影することです。

 

―大酒飲みの女の子
―オヤジギャクが大好きな女の子
―女の子がもうたまらんっていうすけべぇな女の子

 

伝わりますでしょうか。こういった女の子を用いることで、男性にとっての近寄りやすさと、そのキャラ付けを行うことができるんですね。

 

別の観点からも考えておきましょう。


魅力的に描く――間接的なエロスが大事だ、と言い換えることもできるかもしれません。魅力的な女の子というのは、主人公との距離のとりかたに微笑ましさがあることだと、断言できると思っています。「最初に」バレンタインデーの手作りチョコイベントや、「最初に」手をつなぐシーンは、だいたいのラブコメ作品において神回になると思っています。その女の子の魅力が、一番表現されるから。あのドギマギ感・距離感にキャラクター独自のものが込められていれば、もうたまらん、ってなるものです。あ、最初にってのが大事です。二回目以降は慣れが生まれますからね・・・ええ・・・。


3.昨晩はおたのしみでしたね

で、本作品。
私が意識しているお約束を、とても丁寧におさえています。
オヤジギャクを「ジョークです」とねじこんでくる小柄な内海編集。こんな人と二人三脚で小説書けたらどれだけ幸せだろう、と思わずにはおれません。

 

ほんといつもいつもいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃ・・・俺だって楽しみたいよ! なんでだよ! どうして内海編集がいないんだ!?

ジョークで――はありません。本音が漏れてしまいました。

 

あと、目立たないけれど、大変素晴らしい点として、文章も3行以上に渡って会話することもなく、背景や心理描写もサクサクと読み進められる分量に計算されていることです。全体としても短編や掌編におさまっている。スマホなどで空き時間に読むには、じつにうってつけ、というか、ピクシブという公開場所をよく考えてあると唸ってしまう。

 

ぜひ、くさくさした気分のときは、内海編集の微笑ましさを読んで、そのまま5000兆円くらい作者さんに課金されるのがよいと思います。

 

ジョークです。
(文責:じんたね)

ライトノベルは斜め上から(51)――『その女、最強につき』

じんたねです。

ひどくお久しぶりの更新になります。

思えば、毎日のように更新しようと試みておりましたが、その際の目標は達成できてしまったため、ブログ執筆を止めておりました。

 

これからは時間があれば、ぼちぼちと気分転換としてブロクを更新していこうかと考えております。

 

さて、本日のお題はコチラ。

 

 

解題――お前に「ジャブ」が見えても、「前方へ飛びかかるように上段二連回し蹴り」は理解できまい?

 

1.作品概要

 学園アクションエンターテインメント――始動

 日本最強の武術、鷲峰流実戦総合格闘術の十代目師範――鷲峰恋火。彼女のまえに現れたのは、超ワガママでお転婆で金持ちの武闘派お嬢様。

 主人公の鷲峰の過去が、合間合間に見え隠れしたり、ライバルとのバスケットボールに興じてみたり、弟子たちの熱闘や、学園内でのコメディチックなやりとりなどが交えられますが、基本的にはアクションに重きをおいたライトノベルと言い表すことができる作品です。

 というのも、文面の半分以上が殴った蹴ったの記述に集中しており、そのやりとりをイメージしながら読めば、手に汗にぎることは間違いないでしょう。

 

2.アクションシーンのリアリティと活劇性

さて、本作品全体を呼んで、じんたねが一番興味深いと思ったのは、アクションシーンをどのように描くことができるのか、でした。

わたくし、いろいろとラノベらしいものを書いてきたのですが、アクションを上手に書くことにかんしてはからっきしダメです。何度書いても消して、何度書いても消して。満足いくものは一行も書けた例がない。

だって、アクションを描写すると、長ったらしくなって切れ味がなくなるから。それに、技名がない描写はつまらないけれど、技名のついていないオリジナルの必殺技で活劇させようとすると、やっぱり描写に文字数をくわれて長ったらしくなるから、です。

ちょっと例文を書きましょう。

 

ジンタは左のジャブを2発繰り出した。軽いスウェーでタネコがかわした――はずだった。タネコがスウェーから着地を果たした瞬間、赤い液体が、ぽとり、と足元に落ちた。痺れるような熱が、口元から込上げてくる。

その隙を狙い、ジンタは体重ののった右ストレートを放つ。ぐちゃりと軟骨の砕ける耳障りな音とともに、タネコはその場に崩れ落ちた。

 

 

文章の質については問わないことにしてください。この上述のアクションシーンもどき、それなりにキャラが何をやっているのかを理解できますし、テンポも悪いほうではない。こんなボクシングの用語――ジャブやスウェーやストレート――が並び続けるアクションは、ボクシングを題材としたライトノベルなら読み続けることができるでしょう。

 

でも、総合格闘技のように流派や競技にこだわらないライトノベルだとすれば、さらに言えば、まるで格闘ゲームのようなアクションを描こうとすれば、ひどくつまらなくなってくる。

 

なぜか。

技名がはっきりしているものはイメージしやすいが、その分、けれん味がないから。

 

年齢のばれる思い出話をさせてください。ストリートファイター2が世間に出回り始めた頃、あの波動拳昇竜拳といった必殺技が、どれほどかっこよく面白かったことか。既存の格闘技のスタイルを模倣しつつも、少年まんがよろしく、オリジナルなかっちょええ技を見せてくれていました。オリジナルの必殺技というのは、いつでもどこでも、血をたぎらせるアクションシーンの花形だと、じんたねは思っています。

 

だけど問題が出てくる。

オリジナルの必殺技は描写が大変で、テンポが悪くなる。

 

ジンタはその場に両手をつき、逆立ちのような大勢をとる。

――何をするつもりだ……?

タネコが直突きのできる日本拳法特有の構えをとったまま警戒していると、ジンタは両足を開き、それをプロペラのように回しながら、数え切れないほどの回転蹴りを、上体めがけて繰り出してきた。

 

 分かりますよね。ジンタはスピニングバードキックしたんですよ。もう常識になってるから、これくらい「スピニングバードキック」と言えば分かりますけれど、それが常識になってない状況だと、もう描写が長い長い。書いている私も、もう飽きてきそうな勢いでした。

 

3.必殺技はどうやったら描けるか

この問題を解決する方法として、じんたねが知っている限り、4つくらい方法があります。

1つは、短文、単語を並べ、テンポよくアクションシーンを切り盛りする。体言止めが用いられることもあります。冲方丁先生のシュピーゲルシリーズを読めば、その意味するところは分かるかと思います。慣れるまでちょっと読みにくいという難点があります。

2つは、背景知識を設定すること。これはウェブ発の小説では、もはや常套手段です。つまりゲームやアニメで展開されてきた種々の必殺技をそのままトレースして、描写に活かす。「竜巻旋風脚のような」と形容すれば、どんな蹴り技なのかはすぐに伝わります。これはゲームやアニメの知識を持たない人には伝わらない、という難点があります。

3つは、登場するキャラクターの造形を深めること。「○○流合気道」であったり、日頃の所作で正座をさせたり、袴をはかせてみたり、オリジナルの必殺技を修行させてみたり。いざというシーンで必殺技を出した時に、読者が「ああ、あれだ!」と思えるように、地道に伏線を貼っておくんですね。これは準備に時間がかかるという難点があります。

4つは、比喩を使うことです。「まるで独楽のように回転する逆立ちした身体から、扇風機のように繰り出される蹴り」とすればスピニングバードキックも、いくぶんかは描写が楽になります。これは比喩なので、成功する場合と失敗する場合がはっきりしているのが難点です。

 

4.その女は、最強なのか?

長い前置きが続きました。

バージルさんの作品である『その女、最強につき』の醍醐味であるアクションシーンはどのように描写されているのか。リアリティを大事にしつつも、ハリウッドのような豪快なアクションシーンが展開されています。上述の分類だと、2や4の手法が中心になっていました。

その分――作家さんご自身も自覚されているように――描写が長くなる傾向があります。これはテンポの良さを求める読み手にとってはハードルになるかもしれません。

これは逆から言えば、丁寧に描写しようとする、アクションシーンを大切にしようとする作者さんの態度のあらわれであり、よそから借りてきた比喩を用いない店で、自分のオリジナルを打ち出そうという気概の表現でもあると、じんたねは思っています。

 

必殺技はオリジナルが読みたい。

 

某漫画ではないですが、目にも留まらぬ、反撃も倒れることも許さない連続攻撃なんて表現だけじゃなくて、それに「煉獄」という必殺技名が欲しい。一撃必殺なら「金剛」っていう名前がかっこいい。単なる体当たり転ばし技じゃなくて「ト辻」って言って欲しい。

まだ本作品には必殺技らしきものは見当たりませんが、主人公とライバルとの緊張関係は徐々に高まってきています。

雌雄を決する勝負には、おそらく必殺技の応酬が展開されるのではないかと思っています。そのための布石として、丁寧なアクションシーンがあるのだとすれば、今後の展開が気になります。

その決戦に向けて、蓄積されていった丁寧な描写が、活かされる。まさに3の手法がとられるのではないかと、じんたねは睨んでいます。ライバルとの切磋琢磨、そして勝利勝利ののちは、新たなる敵に向けて、力を合わせて、必殺技を繰り出していく。挫折をしながらも、その敵に勝利してのハッピーエンド。

そのとき主人公の鷲峰恋火は、最強となるのでしょう。

蛇足ですが、作中のルビの振り方が独特であったり、意外にも会話文が中心の描写であったりします。この辺も、本作品の別の魅力となっています。こちらもぜひ、読みながら発見してみてください。

(文責:じんたね)

誰でも書ける森博嗣(1)

こんばんは、じんたねです。

とても久しぶりのブログ更新になります。

 

本日は、タイトルの通りのことを書き連ねます。

森博嗣先生――独特のキャラクターたちが織り成す、とてもユーモラスで、王道を軽やかにかわしつつ、ヒューマニズムに満ちた、ちょっと真似できない角度から描かれた世界で起きるミステリーの書き手として、もはやベテランどころが、一時代をなす存在と言っていいでしょう。

 

恥ずかしながら、森先生の作品を読み始めたのは、ここ最近のことで、そのあまりのユニークさに面を食らいました。

 

そしていくつかの作品を読み解きながら、自分だったらどう書くのか悩みながら、分析をしていった結果、かなりの共通点や特徴を見出しました。そしてここでは、それを惜しみなく(惜しいけど)大公開しようと思います。

 

あらかじめ断っておきますが、私は森作品をすべて読破しているわけではありません。しかも読んだといっても、しっかり読み込んでいない作品もあります。

 

え、そんなんで「誰でも書ける森博嗣」が書けるの?――書けます

 

小説に書きらず、書き物というものは、人間の習慣をベースにしています。その人の使い回しや、お得意の世界観など、どれほど新しいものを取り入れようとし、自分を刷新し続けても、癖は抜けないものです。それは「その人にしか書けない」というスタイルを持っている書き手であれば、なおのこと。森先生も例外ではありません。

 

ということで、こんな大見得切って大丈夫なのかと、恐れおののきながら、さっそく誰でも書ける森博嗣講座を行いたいと思います。ちなみに不定期連載ですので、次回はおそらく3月になってからになります。

 

1.森的世界観

誰でも書ける、とすると、つい文体論やプロットの組み方に話が傾注してしまいがちですが、ホントにその人にしかかけない何かを見出そうとするならば、まずは何より、その書き手の世界の見方・考え方を押さえないといけません。そこがずれると、いくら文体が似ていても「それっぽい」ものにならないので。

 

で、森博嗣作品を見るには、二つのベクトルを下敷きにするのが手っ取り早い。「手っ取り早い」という言葉には、これが完全な分析の枠組みではなく、おおむね簡単に機能して使いやすい、という意味を込めています。

 

すなわち、

 

(1)工学的視座=理想・理念の排斥

(2)日常知・実践知によるヒューマニズム

 

この二つが交差するところに、森博嗣作品の色がにじみ出ます。ではまず(1)の工学的視座=理想・理念の排斥、という部分から触れていきましょう。森先生は、徹頭徹尾、世界を工学的に観察しています。ここでいう「工学的」というのは、文系・理系と対概念となる、次のような意味になります。

 

 文学系あるいは理系的な知と工学的な知の違いは、両者の出自の違いにはっきりと記されている。文学部も理学部も自由学芸から生まれた。その中心には神がいた(自由学芸は神学の基礎科目だった)。言い換えれば、人間と世界の関係という大きな問題があった。…… しかし工学部には神がいない。それは産業革命が生み出した学部であり、人間と世界の関係についての思弁をまったく必要としない。工学者が考えるのは、目の前の問題を効率的に解決するための道具的方策であり、そのために必要な資材や情報の調達方法である。そこには抽象的な世界観など入る余地がない。

東浩紀『文学環境論集:東浩紀コレクションL』講談社、2007、593頁)

 

 これだけでは意味がさっぱりなので、補足をしておきます。たとえば自分の小学生の子どもに粗暴なところがあるというか、すぐに手を挙げてしまうところがあるとします。

 

 このとき文系・理系的な思考だと、その子どもの粗暴さをどうにか教育によって変えようとします。手を挙げることは他人の迷惑になるだとか、それはめぐりめぐって自分のためにならないだとか。

 

とにかく、その子が自ら善悪を判断し、セルフコントロールできるための方策を考えます。ここでいう善悪、というのが、上記引用でいうところの「神」=自分たちがよってたつ価値基準、になります。

 

ですが工学的に考えると、子どもを教育しようという発想にはなりません。そんな傾向性のある子どもが、そのままでいても手を挙げなくてすむように、環境設計を施してしまおう、と考えます。

 

たとえば、手を挙げたら痺れや痛みを覚えるような装置をつけてしまう。腕をあげにくい衣服を着せるといったことです。この例が、現実味のないものに見えるとすれば、監視カメラを考えて見ればよいでしょう。ご存じのように監視カメラの設置は犯罪の防止につながると言われています。

 

これは文系・理系的に考えると、犯罪を起こさないような人間をどうやって教育するのかという発想になりますが、そも犯罪を犯すことが劇的にリスキーであり、それが起きないように街ごと作ってしまえばいい、とするのが工学的です。街中にも車除けのバンプや、ホームレスの人々が寝られないように、あえて突起物を床に置いたりといった試みがありますが、これらはすべて工学的発想の賜物でしょう。

 

ようやく流れは元に戻ります。

 

森先生は、世の中の事柄を、この工学的な視点から眺めます。

 

手を挙げる粗暴な子どもは、「粗暴」といった価値観に染まった言葉遣いでは表現されません。手を挙げて、近くの人間を殴打し、その本来的機能を損ねる可能性のある身体の動き、というとてもドライなかたちで捉えられます。そこまで価値観から距離をとらなければ、その動きを分析し、工学的に防止するように発想できないからです。

 

問題となっているのは「粗暴さ」ではなく、他人の機能を損ねる物理的「接触」なのです。だから工学的には、粗暴さを問題にするのではなく、殴打しようとしても触れられない、あるいは殴打しても大丈夫な物理的設計こそが、関心の的になります。

 

つまり森作品のひとまずの特徴として、善悪や感傷といったものを求めないことがあります。森小説でキスシーンを描くとすれば、それは「愛情」の確認であったり、ラブロマンス」の発生として美しく描かれるのではなく、ディープであれば、「唾液や刺激の交換による、互いを裏切らないようにする慣習」として描き出すでしょう。

 

口うるさい近所のおばちゃんがいたとすれば、それを「うるさい」だの「迷惑」だのという主観にたよった描写をするのではなく、「周囲の人間に耳を塞がれやすい音声を発して、半径数メートルに立ち入らせないことが得意なのだ」、と言った風に記述します。

 

その、私たちが前提としている価値観、あるいは善いモノ・悪いモノとして思い込んでいるものを、工学的な視点から記述しなおして、読んでいるひとに「あれっ」と感じさせる。それが森作品の、ひとまず目立った特徴と言えるでしょう。

 

そして、いったん価値観から距離をとって、それでも価値観を前提にして生きている人々をユーモラスに愛情を持って描くところに、森博嗣の筆致は立ち返ります。それが(2)日常知・実践知によるヒューマニズムにあたります。

 

工学的に徹底すれば、人間の営みは物理現象としてのみ記述され、善悪好悪が後景に退いてしまいます。けど、そういったことはしない。森作品において工学というのは、あくまでの日常的に生きている人々がささやかながら幸せに生きるための手段であって、それに貢献するものとして位置付けられています。

 

それは森作品に登場する成長しない人物への愛情や、屁理屈をこねる哲学者文学者への、これでもかというほど憎々しく描かれているところに見て取れます。神だの教育だのといっても、うまくいかないときはうまくいかない。そんな屁理屈をこねるくらいなら、具体的にトラブルが起きないような日常を実現するほうが早い。その態度の産物です。

 

森作品のキャラクターは、魅力的であることは間違いありませんが、成熟しているかといえば、とてもそうとはいえない人々ばかりです。もっと言ってしまえば、子どもっぽい。いわゆるコミュ力や社会性という意味では、異端な存在ばかりです。

工学的には、彼らを成長させたり、困難を乗り越えてドラマを作ったり、ということはあり得ません。それは文系・理系の発想だからです。

 

ならどうするか――子どものままでいられる世界で彼らを住まわせればいい。

 

キャラクターたちは、一人で過ごすことが多い人々ばかり。誰かと四六時中一緒にいることはありますが、一人になりたいときは平気で一人になって、それが許されている。要するに子ども同士がよりあつまって喧嘩をするのなら、喧嘩しないように距離をとれればいい。そういう思想に貫かれているのです。

 

それは文系・理系の発想に馴染んだ人間には、歯がゆく見えるかもしれませんが、問題を解決するのではなく、環境を設計して、そもそも問題が起きないようにする、というのも立派な対応の方法です。

 

そしてその態度は、成長できなくとも日常を生きるキャラクターへの信頼、あるいは、それを守ろうとするヒューマニズムに支えられているからだと、私は考えています。それは実は、森先生唯一の文系・理系的な側面です。

 

この工学的発想に支えられた非工学的愛情。これが同時に発揮されてこそ、森博嗣作品の、あのどこか現実離れした、それでいて距離感があって、キャラクターへの愛情に満ちた、作風が実現されるのです。

 

とりあえず、ここで筆をおきます。

他にも触れるべきことは山ほどありますが、まずは序論ということで、大きな話をしておきます。

(文責:じんたね)

ライトノベルは斜め上から(50)――『出番ですよ! カグヤさま』

こんばんは、じんたねです。

仕事がやばい、どうしよう、寝るしかない。

 

さて、本日のお題はコチラになります。

出番ですよ!  カグヤさま (GA文庫)

出番ですよ! カグヤさま (GA文庫)

 

 

 

解題――これからのニャル子さんについて考えよう

 

 1.作品概要

 本作品は、いわゆるボーイミーツガールのプロットです。ある日突然、カグヤと名乗る美少女がお月様から降ってきて、主人公の自宅に転がり込んで、えっちなこととかとてもえっちなこととか経験しながら、学園でトラブったり、急にそらから降ってきた異星人と喧嘩したりして、最後までラブコメする作品です。

 

いわゆるロストテクノロジーを持っている存在としてカグヤは描かれており、女の子っぽい風貌と小さな身の丈の主人公と対照的になっています。どちらが強いのか、という意味で。

 

 

2.這いよる混沌

本作品の作者は逢空万太先生で、這いよれニャル子さんで有名な方です。本作品にも、これまでと同じように、ネットスラングや特撮ネタなど、いろいろな先生らしいお約束が込められていて、ヒロインの造形もニャル子さんを連想させます。

 

なぜか一方的に主人公を好きになり、夜になると寝床をともにし、必ずお風呂には真っ裸で一緒に入り、性的関係をおおっぴらに求めてやまない。M系男子の夢がちゃんと詰まっています。

 

他にも、キスシーンがあるのですが、これがまたえってぃ。ぜひとも描写は本文で確認していただきたいのですが、1頁以上にわたって描写されるファースト&ディープキスは、「ああ、辛い過去があってこんな妄想を・・・」と涙なしにはよめないほど、濃密でした。唾液の糸とか、ぬめりと浸潤するとか、どこのR18小説や!

 

 

3.前作との違い

本来であれば、作品単体で、ブログを書くべきだとは思うのですが、わたしが気になったのが、どうして他作品との違いにあったので、書かせてください。

 

私、個人的に逢空万太先生のファンでして、ニャル子さんをきっかけに、深山さん家のベルティンも愛読してきました(あれは続編でないんですかお願いしますよGA文庫様)。

 

ネタとかやや古めかしい言い回しとかに視線を奪われがちですが、私が「おや?」と思ってずっと楽しく読んでいるのが徹底したヒロインに対する距離感でした。これまでの作品において、主人公は本当にヒロイン(たち)に冷徹ですニャル子さんでは、彼女の手の平にむけて、思いっきりフォークを突き立てようとすらしていました。まあ、彼女はあれですから、さしてダメージもないのでしょうけれど。

 

その潔さというか、ある種の女性に対するルサンチマンというか、その徹底ぶりを驚きながら読んできたんですね。

 

で、本作品もまたぶっ飛んでいるヒロインであるカグヤに対して、それはもう遠慮ないツッコミを繰り広げています。その意味では、やはり逢空万太先生だなぁと思わせます。

 

しかし、本作品は随分と違う。

 

主人公、ちゃんとヒロインに対して、本気でドギマギしているんですね。心から可愛いと思っているし、ちょっとでもバランスを崩してしまえば、そのままゴールイン、なんて緊張感があります。

 

これまで鉄の意志でもってして、ヒロインのデレを拒絶し、鋭利なツッコミを入れてきた主人公たちと、本作品の彼は、にても似つかない。それがどういう意味を持つのか、整理できてはいないのですが、もしかして先生はプライベートで満たされているんだろうか、なんてまったく無根拠な邪推をしてしまいます。

 

 

4.アニメ的描写

これもあまり指摘されないことなので、書いておこうと思います。

 

逢空万太先生の文体は、昔は固いものが多く、ライトノベルという場との馴染みにずいぶんと格闘されてきたのではないかと、これまた邪推しまくっていますが、本作品を読んでみて(過去作品を読みなおしていないので本当のところは分からないのですが)、映像から活字にしている部分が多いように思いました。

 

それは読みやすさであったり、アニメ化のしやすさであったりにつながっていて、また一段とちがった魅力になっていたと思います。たとえば、

 

「あ? 何さ、いきなり」

 しゅる。

『改めて礼を言おうと思ってな。わらわ、半ば押しかける形になってしまったわけであるし』

「迷いもなく押しかけてきたんじゃねえかよ何しょうがなかったみたいに話してんだコラ」

 ぱちん。

『本当に助かったのだ。わらわ、月の女王と言っても地球ではただの女子に過ぎんので』

「俺の知っているただの女子は双眼鏡を光線銃にトランスフォームさせないけどな……」

 ぱさ。

『わらわ、そなたらに迷惑かけないように頑張るからなぁ』

「それは公園の時から頑張ってほしかったな、ほんと」

『そこでわらわは考えたのだ』

 もぞもぞ。

「……なあ。お前、何かやってる? さっきから変な音が」

「そなたの恩に報いる為に、背中を流してやろうとなぁ!」

 がらり、と。

 風呂場の扉が全開になった。(104-105ページ)

 

 

ここの文章、風呂場のすりガラス越しに、ヒロインがもぞもぞと衣服を脱いでいるシーンを、あえてオノマトペで(そして『』で)表現している箇所なのですが、まるでそのシーンが映像となって流れてくるようだとは思わないでしょうか。

 

これは作者の力量という側面もありますが、ライトノベルの読者たちが、アニメを脳内再生しながら読むというリテラシーを身につけていて、それを利用している描写でもあります。

 

曲がりなりに、この描写を一般文芸でしようとすれば、かなりの補足が必要になってきます。ラブコメの主人公はもてもてで、性的なアプローチもされていて、お風呂一緒とかデフォルトっすから、と。すりガラスや湯けむりで隠された大事な部分は、ブルーレイだと取り除かれますから安心して買ってくださいっす、と。

 

文字から場面を描こうとすれば、もっと活字で埋めようとするはずです。たとえば、主人公の一人称で描写しようとすると、こうなるでしょうか。

 

「あ? 何さ、いきなり」

 しゅる。布ずれの音が、すりガラスの向こうから聞こえてくる。カグヤの奴は何をやっているんだ。足拭きマットでも準備してるのか。今さら暴れたことを謝ってきたって俺は認めねえぞ。てか月に帰れ。

『改めて礼を言おうと思ってな。わらわ、半ば押しかける形になってしまったわけであるし』

「迷いもなく押しかけてきたんじゃねえかよ何しょうがなかったみたいに話してんだコラ」

 ぱちん。

 ぱちん? ボタンを外した音か? そいや変なハーフコート着てたけれど、アレも一緒に洗濯機で回そうってことか。ちょっとそれは年頃の女子のと一緒に、っていうのは抵抗あるな……。

  

ほとんど、じんたねの妄想ですが、こうすればシチュエーションは明確になります。それを敢えてオノマトペに封じ込め、読者の想像力に任せる描写は、とても好きです。

 

 

こんな頬が緩んでしまうような描写がたっぷりの本作品。えっちな絵本は買えないけれどライトノベルなら帰るというかたえっちな絵本が買えなかった青春時代が懐かしいかたに、ぜひともオススメです。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります。

 

ライトノベルは斜め上から(49)――『緋色の源流』

こんばんわ、すっかり酔っぱらいのじんたねです。

ブログのペースを落として、じっくり読むことにしました。

 

で、本日はコチラになります!

 

 

解題――悪意に彩られた道は、善意へと通じるか

 

 

1.作品紹介

とある地方でおきた、連続誘拐殺人事件が、本作品の舞台です。主人公は刑事であり、その妹が物語のメインにいます。ストーリーの筋立てを追いかけてもいいのですが、ミステリー仕立てになっているので、多くを語らないほうがいいでしょう。

 

ただR18Gというタグが付されているように、グロテスクであったり性的であったりする描写があるので、耐性のないかたが読まれる場合は、気をつけたほうがいいでしょう。

 

 

2.グロテスクな描写

本作品、本当に容赦ない描写が目立ちます。pixivという場の、かなりきわどいラインを攻めている。もしイラストになれば間違いなく検閲されるレベルのものです。

 

私が、とりわけ気分が悪かったのは(いい意味で)、犯人に脅された男性が、あらかじめ誘拐してきた女性を凌辱し殺すシーンです。本当に胃がむかむかしました(いい意味で)。物語の中盤で展開されるのですが、これを真正面から書ききるメンタリティの誠実さは、私にはないかもしれません。

 

で、なのですが。

 

この強烈な描写、ただ趣味として、そういう作風として、行われているのではないと考えています。それはグロテスクな描写を用いることによって――もちろん描写それ自体も目的であったりしますが――別のものを明るみに出すことができるから。その手段として使われてる

 

じゃあ、それは何か。

 

好意を抱く者同士が望む、その理想的未来――もうちょっと言い換えて、好きな人と一緒にいられる、ということの善さ。そう私は考えています。

 

端的にグロテスクな描写を見せられても、それは気分を害してはしまいますが、それっきりです。そのえぐさを味わう/味わわせる、のが目的ですから。でも、もしそんな残酷な目に遭っているのが、本来結ばれるべきひとがいるのにその人とは結ばれない不幸な人間だったら。それに私たちは感情移入し、悲しい気持ちになります(あえて、簡単に「悲しい」とだけ言っておきます)。

 

本作品、ストーリーの鍵となる人物がそんな悲惨な経験をします。そして傷は二度と癒されることなく、放置されます。ストーリーとしてはうまく回収されていますが、当事者としては一生癒されません。

 

つまり、グロテスクな描写は、その裏返しにあるものをしめす。すなわち人間の微笑ましさ、可愛らしさ、そんな性質をもったキャラクターが幸せになって欲しいという思いが、逆説的に、浮き彫りになります。

 

どうして私たちは、この描写を読み、こうまで心を痛めてしまうのか。それはキャラクターたちに幸せになって欲しかったのにという純粋さを、作品全体が、とても大事にしており、それに心を打たれているから。

 

本作品全体を貫いているのは、そんな驚くほど純粋な世界観・人間観なのです。

 

 

3.救いとしての死、あるいは、破局としての死

登場人物のかなりの数が死を迎えています。殺人事件がトピックとなっているため、ほぼ惨殺されるという徹底ぶりです。

 

その徹底ぶりは、本当に読み手を選びます。読みながら気分が悪くなる(いい意味で)のは、レイプや残虐な殺害だけではなく、それが日常的に起きてしまっているかもしれない世界設定が前提になっているからです。一歩踏み外してしまえば、すこし横を見てみれば、そんな暴力が転がっている。ごろごろ人は死んでいくし、とくにそれに理由もない。そんなリアリティを提示しています。

 

それは許容できない人には許容できませんし、リアリティとしてどう捉えるかも、かなり個人差があるでしょう。

 

ここにも、本作品を貫く純粋さが表裏一体となって表れています。

 

理不尽に、そこら辺に転がっている暴力に巻き込まれたとき、その人間に救いはあるのか。そうまっすぐ読者に呼びかけています。そして、作者としての答えはおそらく「否」だと感じています。

 

そんな救いの主張はまやかしでしかない。暴力は暴力の連鎖を呼び、それをとめるすべなどない。巻き込まれる人間は、その渦に呑まれ、そのまま巻き込まれ続けるしかない。だとすれば、どうやって人間は不幸から救われることができるのか。

 

―死をもってして。

 

それがあり得る回答の一つだと、言っているように感じました。生きている以上は逃れられない。ならば、死をもってして、その運命に終止符を打つしかない。これ以上ない、明らかで、反論を許さないロジックです。

 

もちろんヒューマニズムに慣れ親しんだ私たちであれば、生きてこそ浮かばれる瀬もあれ、という反論を思い付きます。自殺しようとする人間を食い止める常套句に――それが有効であるかどうかはさておき――生きていたらいいことがある、そう呼びかけます。

 

ですがこれは、論理的に考えて、欺瞞に満ちている。

 

なぜか。簡単です。誰も死んだ「あと」のことを知らないからです。生きていたらいいことがあるかもしれないのは事実ですが、死んだ後のほうがいいということ、あるいは生きているよりましだということを、この世の誰も知らないのですから。だって死んだらもう「この世」にはいません。「あの世」です。だから「この世」と「あの世」を比較する、公平な立場には、誰も立つことができない。

 

その意味では、死が救いである、というロジックも欺瞞です。

 

死は端的に思考不可能な事柄ですから。死んだら救われるというのは、思考停止の産物でしかありません。

 

その話を前提に置くと、本作品の生死観が、鋭いことに気づかされます。

 

先ほど私は、死が救いになっていると言いましたが、同時に、死が無造作に転がっていて、癒しでも何でもないとも言いました。どっちもちゃんと描かれています。死を無意味に切り捨てるのでもなく、かといって癒しの手段として、崇め奉るのでもなく。

 

それでも救いとしての死に、やや傾斜しているような気はしますが、ここは解釈の分かれるところでしょう。隠されたヒューマニズムを読み取ることもできるプロットラインではあります。

 

それでも、正面から、暴力と死を描く。これはできなさそうで、やっぱりできない課題ですが、それに真正面からぶつかっているのが本作品です。

 

 

4.近親相姦

そしてもう一つ、無視できない主題がこれです。

 

本作品は、陰と陽、両極端なかたちで、近親相姦が描かれています。一方では思いとげられないまま死を迎え、結ばれない兄妹がいます。そして他方では、思いをとげ、結ばれた兄弟が登場します。一般的に考えれば、もちろん結ばれたペアの方が幸せでしょう。

 

でも、本作は違う。結ばれてしまった兄弟のほうが不幸な運命をたどり、思いとげられないままの兄妹のほうが、「幸福」な描かれ方をしている。

 

ここには、本作品にある、倫理観のようなものがある気がします。兄妹の不義は――当事者が不義であると思う限りにおいて――不義であり、いつまでも幸せにはなれない。その不義の不幸を免れる手段として、ここでもやはり死が描かれています。

 

私なんかは、読みながらこう考えてしまいます。当事者が兄妹であることを何とも思わない状態で、どうやったら二人は結ばれることができたのかって。きっと、できないのでしょう。そこに本作品を駆動する最大のジレンマがあり、悲しさを生み出す源流があります。それは血に彩られた、緋色の源流。赤い涙は、流されるしかない。

 

 

5.おわりに

かつてに比べ、誰しもが小説をかき、それを世に発表することができる時代になっています。有料のものから無料のものまで、実に多い。表現の自由という意味で、それは大変、望ましいことだと思っています。その恩恵に与る身としては、ありがたり限り。

 

本作品、すべて無料で読めます。

 

知らないことは幸せなことかもしれませんが、本作品を知らないことは、不幸なことだと、私は思っています。

(文責:じんたね)

ライトノベルは斜め上から(48)――『ひめとり!』

こんにちは、じんたねです。

そういえば久しぶりのブログ更新になりました。これくらいのペースがいいかもしれませんね。

 

さて、本日のお題はコチラ。

ひめとり! (Hybrid Library)

ひめとり! (Hybrid Library)

 

 

 

解題――角!

 

 

1.作品概要

天涯孤独になった少年と、鬼の姫や妖怪たちのあたたかい物語。

――じいちゃんが死んだ。
俺を育ててくれた、たったひとりの大切な家族が死んでしまった――
鏡谷幸八(かがみやゆきや)は、祖父・幸蔵に育てられた。
じいちゃんとの毎日は質素で、厳しくて、でも楽しかった。
幸八が学校でいじめられて泣いて帰ってくると、じいちゃんは楽しい妖怪の話をしてくれた。
犬神、雷を扱うイタチ、そして鬼の一族……幸八はいつも、じいちゃんの話を聞くと泣き止んで、笑った。

ある日、幸八はじいちゃんから笛をもらった。
「見ろ、幸八。これはな、じいちゃんがその昔鬼を助けた恩にもらった鬼の角笛だ。
困ったときにこいつを吹いたら、鬼が飛んできて助けてくれるんだぞ」
じいちゃんが死んだとき、幸八は十五歳。
笛の話がとんでもない嘘だってことくらい、わかる。子どもをあやすための作り話だ。
それでも、幸八は。唯一の家族を失った幸八は。
一縷の望みへ縋るかのように、笛を吹くのだった。
「幸八様……ですね?」
気づけば。彼の背後に――鬼の姫が、跪いていた。 

 

 

2.落ちもの系ライトノベル

本作品は、和風落ちもの系ファンタジーといえば、正確に表現できるかもしれません。鬼の少女が降ってきて、いきなり日常生活は変化して、大ボスやっつけて、ハッピーエンドになる。サクサクっと読めるボーイミーツガールが欲しい、というかたにはおススメできる良作だと思います。媒体も電子書籍であり、アプリをDLすれば簡単に読めるようになっています。お値段もお手頃ですので、ひとまず買って損することはありません。

 

 

3.セルフ・パブリッシングの時代

作品の内容とは若干話がそれますが、一読後に思ったのが、「自分で出版できる時代なのだなぁ」というものでした。

 

技術的な意味も、もちろんあります。たった一人でも電子書籍の体裁を整えて、それを売り出すことができるからです。

 

かつて――といったらどこまで遡っていいのか分からないのですが――私が幼いころのイメージだと、紙媒体として本を出す、というのはとてもハードルの高い行為でした。出版社を通して、世に問うに値するという判断をすり合わせて、何度も構成して、各専門家の意見を踏まえて、そしてようやく本になる。

 

まあ、たぶんに懐古主義的というか、ロマンチックな見方なので、このイメージが実情を反映していたかどうかは怪しいところがありますが、それはさておいて。

 

作品の内容、という意味でも「自分で出版できる」のだと感じました。本作品がたとえば紙媒体として書店に並んでいたとしても、違和感がない。商業出版とセルフパブリッシング。こういう分け方は便宜上の意味しかありませんが、この分け方を使うとすると、その垣根は限りなくゼロに近いように思います。どちらかが上がったり下がったりしたのか。それとも地盤ごとせり上がってきたのかは分かりませんが、この二つを分けて考えることに――少なくとも本作品を読んだ印象では――意味はないと思いました。

 

これまでも、他の作者さまの多くのセルフパブリッシングの電子書籍を読んできましたが、この読後感は、いつも一緒です。もうこんな時代になったんだと、本作品を通じても、その産声とたしかな足取りを感じました。

 

 

4.だから角に触りたいんだよ、私は

こんな与太話はさておきましょう。私、本作品がとても好きです。何が好きかって、そりゃヒロインが可愛いからに決まっている。

 

ヒロインは人外のお方で、いわゆる鬼というものです。主人公の過去にけっこうえげつない感じてコミットしていたり、ストーリーを引っ掻き回したりしますが、基本的には囚われの姫です。だってラストは主人公に強奪されて結婚しますからね!

 

で、作中でデートとかしているんですが、観覧車でですね。角に触れるんですよ。彼が、彼女の。そうあのにょきっと生えている、二本のあれに。

 

「ふぇ……んんっ……やっ……はんっ」

 角は敏感な場所らしく、幸八が指を這わせるたびにミナがピクンピクンと反応する。その角を指の腹で丹念に撫でまわし、指先でつまんだり、転がしたりして、幸八はしっかりと角の感触を確かめた。角は徐々に触るごとに熱を帯びて熱くなるように思われた。

 ――ああ、うん。やっぱり本物だ。うん。(電子書籍のためページ数不明)

 

 

なぁーにが「やっぱり本物だ」だ!! きさまら、観覧車でなにじゃれあっとるんじゃぁぁ! 角が敏感なわけあるかぁぁ! 角って武器だろ!? 鹿とかよ、雄同士でガツンガツンってぶつけてるだろ!? 敏感だったら死んじゃうだろ!? だって敏感なんだよ!? 当たったら感じたらだめだよねっ!?

 

・・・・・・大変失礼しました。

 

ええと、こんな作品じゃないですよ、ほんと、ちゃんとしたボーイミーツガールなんです。ここはちょっとしたサービスシーンでだから、そのですね、じんたねがここのシーンが好きだから引用した。文句あるか。

 

俺も鬼の娘が欲しい、そう思わせるライトノベルでした。

(文責:じんたね)

ライトノベルは斜め上から(47)――『銀糸の魔法式』

おこんばんは、じんたねです。

寝ても寝なくても、元気!

 

さて、本日はコチラになります!

銀糸の魔法式1 魔法使いの実習生 (講談社ラノベ文庫)

銀糸の魔法式1 魔法使いの実習生 (講談社ラノベ文庫)

 

  

 

解題――ヒロインを好きになるには

 

 

1.作品紹介

「あなたが私の保護者になればいいじゃない!」
アパートの管理を任されている秋月孝平は、ある日、銀髪碧眼の美少女・クレアと出会う。クレアは自分を【魔法使いの実習生】だと言い、半ば強引に孝平を保護者にてしまう。お嬢様育ちのクレアは、食事を用意させ、部屋を追いやり、夜間は侵入防止トラップを仕掛ける。そんな奇妙な共同生活が始まった矢先――一般人が魔法使いに襲われると言う事件を発端に、孝平は次々と魔法の絡んだ出来事に巻き込まれていく――第1回講談社ラノベチャレンジカップ≪佳作≫受賞作。

 

 

2.ヒロインを囲い込むには

本作品は、ある日突然美少女が登場して、いきなり異能魔法バトルに巻き込まれて、主人公の力が発言して、めでたく事件解決という物語になっています。私の世代にとっては王道中の王道で、読みながら、うんうんという気持ちになります。

 

このストーリーラインの、一番のネック、というか、じんたねも書きながら頭を悩ませてしまうのは、どうやってヒロインが主人公のもとに転がり込むのか、ということにあります。

 

だって、見ず知らずの他人の家、そうそうお泊まりできないでしょ?

 

できません。一泊二日の旅行じゃあるまいし、しばらく身を置くなんて恐ろしい真似は。なので、見知らぬ二人が出会って共に過ごすには、それなりの工夫が必要になってきます。

 

本作品もそうですが、その手段としては居場所を断つというものがあります。ヒロインがもともといたホームタウンが失われる(あるいは追われる)ことで帰る場所がなくなり、いやがおうにも主人公のところに押しかけなければならないというやり方です。押しかけ女房という言葉がありますけれど、あれも含蓄のある言葉です。

 

そしてそのホームタウンを追われた理由を、作品を駆動させる謎に設定する。そうすれば主人公と行動を共にする理由も手に入るというわけです。

 

 

3.主人公もまた欠けている

これもまた、同じ理由からです。いくらヒロインの故郷を奪って、主人公のもとに送り込んだとしても、当の主人公がそれを拒否ってしまえば、それまでになります。いくら美女であったとしても、やっぱり赤の他人は赤の他人。ほいほいと受け入れることはできません。

 

そこにはやはり、ヒロインを求めるべき、理由がなければいけない。

 

本作品、主人公はアパート暮らしで、かつて暮らしていた家族と離れていることになります。ヒロインはその家族を求めて来日し、そこで接点を持つという設定になっています。彼は、家族がいないからといって寂しがっていたり、あるいは心に傷を抱えていたりということはありません。が、そこは性格を理由にしています。

 

人の頼みを断れないお人好し。それが主人公を評する友人の言葉です。だからヒロインを自宅に囲って、ちょっとエッチなイベントを体験し――てるわけねえだろぉぉ!

 

・・・失礼しました。

 

性格が第一の理由というのは、説得力がありません。

「なんで騙されるん?」「そういう性格だから」というのは、理由を準備していませんと言っているようなものです。ですが

「なんで騙されるん?」「そいつが好きだった人の面影をもっていたから」だと説明になります。

 

本作品は、注意深く読まないと見落としてしまう、大事な一文を、物語の冒頭でぽんと出しています。

 

 

孝平が住んでいるこのアパートだって、昔は祖母が住んでいたものだ。

 (中略)

 昔と何一つ変わらないこの場所を――孝平は、今も愛着をもって使い続けていた。(56ページ)

 

 

つまり祖母の記憶があり、それのあるアパートから離れられない。そこに転がり込んで来た彼女が、祖母を当てにして、訪れてきた。なるほど、断れない。思い出や人への愛着は、かなりの確率でその人の行動原理を決定するからです。

 

自分が好きな人間が好きだと言ったから信用する。ベジータが味方になるロジックそのものです。あれだけ地球の人々を殺そうとしたり、宇宙で暴れまわってきたのに、仲間たちだって殺されたのに、ベジータを受け入れられたのは、孫悟空がいいっていったから。それに尽きます。

 

本作品のヒロインも、祖母との記憶を大事にしており、そのことを嬉しそう主人公に話します。そりゃ断れませんよね。

 

作品の内容についてはあまり触れられませんでしたが、本日はこれくらいで。

(文責:じんたね)

 

次回はコチラになります。

ひめとり! (Hybrid Library)

ひめとり! (Hybrid Library)