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誰でも書ける森博嗣(1)

誰でも書ける森博嗣

こんばんは、じんたねです。

とても久しぶりのブログ更新になります。

 

本日は、タイトルの通りのことを書き連ねます。

森博嗣先生――独特のキャラクターたちが織り成す、とてもユーモラスで、王道を軽やかにかわしつつ、ヒューマニズムに満ちた、ちょっと真似できない角度から描かれた世界で起きるミステリーの書き手として、もはやベテランどころが、一時代をなす存在と言っていいでしょう。

 

恥ずかしながら、森先生の作品を読み始めたのは、ここ最近のことで、そのあまりのユニークさに面を食らいました。

 

そしていくつかの作品を読み解きながら、自分だったらどう書くのか悩みながら、分析をしていった結果、かなりの共通点や特徴を見出しました。そしてここでは、それを惜しみなく(惜しいけど)大公開しようと思います。

 

あらかじめ断っておきますが、私は森作品をすべて読破しているわけではありません。しかも読んだといっても、しっかり読み込んでいない作品もあります。

 

え、そんなんで「誰でも書ける森博嗣」が書けるの?――書けます

 

小説に書きらず、書き物というものは、人間の習慣をベースにしています。その人の使い回しや、お得意の世界観など、どれほど新しいものを取り入れようとし、自分を刷新し続けても、癖は抜けないものです。それは「その人にしか書けない」というスタイルを持っている書き手であれば、なおのこと。森先生も例外ではありません。

 

ということで、こんな大見得切って大丈夫なのかと、恐れおののきながら、さっそく誰でも書ける森博嗣講座を行いたいと思います。ちなみに不定期連載ですので、次回はおそらく3月になってからになります。

 

1.森的世界観

誰でも書ける、とすると、つい文体論やプロットの組み方に話が傾注してしまいがちですが、ホントにその人にしかかけない何かを見出そうとするならば、まずは何より、その書き手の世界の見方・考え方を押さえないといけません。そこがずれると、いくら文体が似ていても「それっぽい」ものにならないので。

 

で、森博嗣作品を見るには、二つのベクトルを下敷きにするのが手っ取り早い。「手っ取り早い」という言葉には、これが完全な分析の枠組みではなく、おおむね簡単に機能して使いやすい、という意味を込めています。

 

すなわち、

 

(1)工学的視座=理想・理念の排斥

(2)日常知・実践知によるヒューマニズム

 

この二つが交差するところに、森博嗣作品の色がにじみ出ます。ではまず(1)の工学的視座=理想・理念の排斥、という部分から触れていきましょう。森先生は、徹頭徹尾、世界を工学的に観察しています。ここでいう「工学的」というのは、文系・理系と対概念となる、次のような意味になります。

 

 文学系あるいは理系的な知と工学的な知の違いは、両者の出自の違いにはっきりと記されている。文学部も理学部も自由学芸から生まれた。その中心には神がいた(自由学芸は神学の基礎科目だった)。言い換えれば、人間と世界の関係という大きな問題があった。…… しかし工学部には神がいない。それは産業革命が生み出した学部であり、人間と世界の関係についての思弁をまったく必要としない。工学者が考えるのは、目の前の問題を効率的に解決するための道具的方策であり、そのために必要な資材や情報の調達方法である。そこには抽象的な世界観など入る余地がない。

東浩紀『文学環境論集:東浩紀コレクションL』講談社、2007、593頁)

 

 これだけでは意味がさっぱりなので、補足をしておきます。たとえば自分の小学生の子どもに粗暴なところがあるというか、すぐに手を挙げてしまうところがあるとします。

 

 このとき文系・理系的な思考だと、その子どもの粗暴さをどうにか教育によって変えようとします。手を挙げることは他人の迷惑になるだとか、それはめぐりめぐって自分のためにならないだとか。

 

とにかく、その子が自ら善悪を判断し、セルフコントロールできるための方策を考えます。ここでいう善悪、というのが、上記引用でいうところの「神」=自分たちがよってたつ価値基準、になります。

 

ですが工学的に考えると、子どもを教育しようという発想にはなりません。そんな傾向性のある子どもが、そのままでいても手を挙げなくてすむように、環境設計を施してしまおう、と考えます。

 

たとえば、手を挙げたら痺れや痛みを覚えるような装置をつけてしまう。腕をあげにくい衣服を着せるといったことです。この例が、現実味のないものに見えるとすれば、監視カメラを考えて見ればよいでしょう。ご存じのように監視カメラの設置は犯罪の防止につながると言われています。

 

これは文系・理系的に考えると、犯罪を起こさないような人間をどうやって教育するのかという発想になりますが、そも犯罪を犯すことが劇的にリスキーであり、それが起きないように街ごと作ってしまえばいい、とするのが工学的です。街中にも車除けのバンプや、ホームレスの人々が寝られないように、あえて突起物を床に置いたりといった試みがありますが、これらはすべて工学的発想の賜物でしょう。

 

ようやく流れは元に戻ります。

 

森先生は、世の中の事柄を、この工学的な視点から眺めます。

 

手を挙げる粗暴な子どもは、「粗暴」といった価値観に染まった言葉遣いでは表現されません。手を挙げて、近くの人間を殴打し、その本来的機能を損ねる可能性のある身体の動き、というとてもドライなかたちで捉えられます。そこまで価値観から距離をとらなければ、その動きを分析し、工学的に防止するように発想できないからです。

 

問題となっているのは「粗暴さ」ではなく、他人の機能を損ねる物理的「接触」なのです。だから工学的には、粗暴さを問題にするのではなく、殴打しようとしても触れられない、あるいは殴打しても大丈夫な物理的設計こそが、関心の的になります。

 

つまり森作品のひとまずの特徴として、善悪や感傷といったものを求めないことがあります。森小説でキスシーンを描くとすれば、それは「愛情」の確認であったり、ラブロマンス」の発生として美しく描かれるのではなく、ディープであれば、「唾液や刺激の交換による、互いを裏切らないようにする慣習」として描き出すでしょう。

 

口うるさい近所のおばちゃんがいたとすれば、それを「うるさい」だの「迷惑」だのという主観にたよった描写をするのではなく、「周囲の人間に耳を塞がれやすい音声を発して、半径数メートルに立ち入らせないことが得意なのだ」、と言った風に記述します。

 

その、私たちが前提としている価値観、あるいは善いモノ・悪いモノとして思い込んでいるものを、工学的な視点から記述しなおして、読んでいるひとに「あれっ」と感じさせる。それが森作品の、ひとまず目立った特徴と言えるでしょう。

 

そして、いったん価値観から距離をとって、それでも価値観を前提にして生きている人々をユーモラスに愛情を持って描くところに、森博嗣の筆致は立ち返ります。それが(2)日常知・実践知によるヒューマニズムにあたります。

 

工学的に徹底すれば、人間の営みは物理現象としてのみ記述され、善悪好悪が後景に退いてしまいます。けど、そういったことはしない。森作品において工学というのは、あくまでの日常的に生きている人々がささやかながら幸せに生きるための手段であって、それに貢献するものとして位置付けられています。

 

それは森作品に登場する成長しない人物への愛情や、屁理屈をこねる哲学者文学者への、これでもかというほど憎々しく描かれているところに見て取れます。神だの教育だのといっても、うまくいかないときはうまくいかない。そんな屁理屈をこねるくらいなら、具体的にトラブルが起きないような日常を実現するほうが早い。その態度の産物です。

 

森作品のキャラクターは、魅力的であることは間違いありませんが、成熟しているかといえば、とてもそうとはいえない人々ばかりです。もっと言ってしまえば、子どもっぽい。いわゆるコミュ力や社会性という意味では、異端な存在ばかりです。

工学的には、彼らを成長させたり、困難を乗り越えてドラマを作ったり、ということはあり得ません。それは文系・理系の発想だからです。

 

ならどうするか――子どものままでいられる世界で彼らを住まわせればいい。

 

キャラクターたちは、一人で過ごすことが多い人々ばかり。誰かと四六時中一緒にいることはありますが、一人になりたいときは平気で一人になって、それが許されている。要するに子ども同士がよりあつまって喧嘩をするのなら、喧嘩しないように距離をとれればいい。そういう思想に貫かれているのです。

 

それは文系・理系の発想に馴染んだ人間には、歯がゆく見えるかもしれませんが、問題を解決するのではなく、環境を設計して、そもそも問題が起きないようにする、というのも立派な対応の方法です。

 

そしてその態度は、成長できなくとも日常を生きるキャラクターへの信頼、あるいは、それを守ろうとするヒューマニズムに支えられているからだと、私は考えています。それは実は、森先生唯一の文系・理系的な側面です。

 

この工学的発想に支えられた非工学的愛情。これが同時に発揮されてこそ、森博嗣作品の、あのどこか現実離れした、それでいて距離感があって、キャラクターへの愛情に満ちた、作風が実現されるのです。

 

とりあえず、ここで筆をおきます。

他にも触れるべきことは山ほどありますが、まずは序論ということで、大きな話をしておきます。

(文責:じんたね)

ライトノベルは斜め上から(50)――『出番ですよ! カグヤさま』

ライトノベルは斜め上から

こんばんは、じんたねです。

仕事がやばい、どうしよう、寝るしかない。

 

さて、本日のお題はコチラになります。

出番ですよ!  カグヤさま (GA文庫)

出番ですよ! カグヤさま (GA文庫)

 

 

 

解題――これからのニャル子さんについて考えよう

 

 1.作品概要

 本作品は、いわゆるボーイミーツガールのプロットです。ある日突然、カグヤと名乗る美少女がお月様から降ってきて、主人公の自宅に転がり込んで、えっちなこととかとてもえっちなこととか経験しながら、学園でトラブったり、急にそらから降ってきた異星人と喧嘩したりして、最後までラブコメする作品です。

 

いわゆるロストテクノロジーを持っている存在としてカグヤは描かれており、女の子っぽい風貌と小さな身の丈の主人公と対照的になっています。どちらが強いのか、という意味で。

 

 

2.這いよる混沌

本作品の作者は逢空万太先生で、這いよれニャル子さんで有名な方です。本作品にも、これまでと同じように、ネットスラングや特撮ネタなど、いろいろな先生らしいお約束が込められていて、ヒロインの造形もニャル子さんを連想させます。

 

なぜか一方的に主人公を好きになり、夜になると寝床をともにし、必ずお風呂には真っ裸で一緒に入り、性的関係をおおっぴらに求めてやまない。M系男子の夢がちゃんと詰まっています。

 

他にも、キスシーンがあるのですが、これがまたえってぃ。ぜひとも描写は本文で確認していただきたいのですが、1頁以上にわたって描写されるファースト&ディープキスは、「ああ、辛い過去があってこんな妄想を・・・」と涙なしにはよめないほど、濃密でした。唾液の糸とか、ぬめりと浸潤するとか、どこのR18小説や!

 

 

3.前作との違い

本来であれば、作品単体で、ブログを書くべきだとは思うのですが、わたしが気になったのが、どうして他作品との違いにあったので、書かせてください。

 

私、個人的に逢空万太先生のファンでして、ニャル子さんをきっかけに、深山さん家のベルティンも愛読してきました(あれは続編でないんですかお願いしますよGA文庫様)。

 

ネタとかやや古めかしい言い回しとかに視線を奪われがちですが、私が「おや?」と思ってずっと楽しく読んでいるのが徹底したヒロインに対する距離感でした。これまでの作品において、主人公は本当にヒロイン(たち)に冷徹ですニャル子さんでは、彼女の手の平にむけて、思いっきりフォークを突き立てようとすらしていました。まあ、彼女はあれですから、さしてダメージもないのでしょうけれど。

 

その潔さというか、ある種の女性に対するルサンチマンというか、その徹底ぶりを驚きながら読んできたんですね。

 

で、本作品もまたぶっ飛んでいるヒロインであるカグヤに対して、それはもう遠慮ないツッコミを繰り広げています。その意味では、やはり逢空万太先生だなぁと思わせます。

 

しかし、本作品は随分と違う。

 

主人公、ちゃんとヒロインに対して、本気でドギマギしているんですね。心から可愛いと思っているし、ちょっとでもバランスを崩してしまえば、そのままゴールイン、なんて緊張感があります。

 

これまで鉄の意志でもってして、ヒロインのデレを拒絶し、鋭利なツッコミを入れてきた主人公たちと、本作品の彼は、にても似つかない。それがどういう意味を持つのか、整理できてはいないのですが、もしかして先生はプライベートで満たされているんだろうか、なんてまったく無根拠な邪推をしてしまいます。

 

 

4.アニメ的描写

これもあまり指摘されないことなので、書いておこうと思います。

 

逢空万太先生の文体は、昔は固いものが多く、ライトノベルという場との馴染みにずいぶんと格闘されてきたのではないかと、これまた邪推しまくっていますが、本作品を読んでみて(過去作品を読みなおしていないので本当のところは分からないのですが)、映像から活字にしている部分が多いように思いました。

 

それは読みやすさであったり、アニメ化のしやすさであったりにつながっていて、また一段とちがった魅力になっていたと思います。たとえば、

 

「あ? 何さ、いきなり」

 しゅる。

『改めて礼を言おうと思ってな。わらわ、半ば押しかける形になってしまったわけであるし』

「迷いもなく押しかけてきたんじゃねえかよ何しょうがなかったみたいに話してんだコラ」

 ぱちん。

『本当に助かったのだ。わらわ、月の女王と言っても地球ではただの女子に過ぎんので』

「俺の知っているただの女子は双眼鏡を光線銃にトランスフォームさせないけどな……」

 ぱさ。

『わらわ、そなたらに迷惑かけないように頑張るからなぁ』

「それは公園の時から頑張ってほしかったな、ほんと」

『そこでわらわは考えたのだ』

 もぞもぞ。

「……なあ。お前、何かやってる? さっきから変な音が」

「そなたの恩に報いる為に、背中を流してやろうとなぁ!」

 がらり、と。

 風呂場の扉が全開になった。(104-105ページ)

 

 

ここの文章、風呂場のすりガラス越しに、ヒロインがもぞもぞと衣服を脱いでいるシーンを、あえてオノマトペで(そして『』で)表現している箇所なのですが、まるでそのシーンが映像となって流れてくるようだとは思わないでしょうか。

 

これは作者の力量という側面もありますが、ライトノベルの読者たちが、アニメを脳内再生しながら読むというリテラシーを身につけていて、それを利用している描写でもあります。

 

曲がりなりに、この描写を一般文芸でしようとすれば、かなりの補足が必要になってきます。ラブコメの主人公はもてもてで、性的なアプローチもされていて、お風呂一緒とかデフォルトっすから、と。すりガラスや湯けむりで隠された大事な部分は、ブルーレイだと取り除かれますから安心して買ってくださいっす、と。

 

文字から場面を描こうとすれば、もっと活字で埋めようとするはずです。たとえば、主人公の一人称で描写しようとすると、こうなるでしょうか。

 

「あ? 何さ、いきなり」

 しゅる。布ずれの音が、すりガラスの向こうから聞こえてくる。カグヤの奴は何をやっているんだ。足拭きマットでも準備してるのか。今さら暴れたことを謝ってきたって俺は認めねえぞ。てか月に帰れ。

『改めて礼を言おうと思ってな。わらわ、半ば押しかける形になってしまったわけであるし』

「迷いもなく押しかけてきたんじゃねえかよ何しょうがなかったみたいに話してんだコラ」

 ぱちん。

 ぱちん? ボタンを外した音か? そいや変なハーフコート着てたけれど、アレも一緒に洗濯機で回そうってことか。ちょっとそれは年頃の女子のと一緒に、っていうのは抵抗あるな……。

  

ほとんど、じんたねの妄想ですが、こうすればシチュエーションは明確になります。それを敢えてオノマトペに封じ込め、読者の想像力に任せる描写は、とても好きです。

 

 

こんな頬が緩んでしまうような描写がたっぷりの本作品。えっちな絵本は買えないけれどライトノベルなら帰るというかたえっちな絵本が買えなかった青春時代が懐かしいかたに、ぜひともオススメです。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります。

 

ライトノベルは斜め上から(49)――『緋色の源流』

ライトノベルは斜め上から

こんばんわ、すっかり酔っぱらいのじんたねです。

ブログのペースを落として、じっくり読むことにしました。

 

で、本日はコチラになります!

 

 

解題――悪意に彩られた道は、善意へと通じるか

 

 

1.作品紹介

とある地方でおきた、連続誘拐殺人事件が、本作品の舞台です。主人公は刑事であり、その妹が物語のメインにいます。ストーリーの筋立てを追いかけてもいいのですが、ミステリー仕立てになっているので、多くを語らないほうがいいでしょう。

 

ただR18Gというタグが付されているように、グロテスクであったり性的であったりする描写があるので、耐性のないかたが読まれる場合は、気をつけたほうがいいでしょう。

 

 

2.グロテスクな描写

本作品、本当に容赦ない描写が目立ちます。pixivという場の、かなりきわどいラインを攻めている。もしイラストになれば間違いなく検閲されるレベルのものです。

 

私が、とりわけ気分が悪かったのは(いい意味で)、犯人に脅された男性が、あらかじめ誘拐してきた女性を凌辱し殺すシーンです。本当に胃がむかむかしました(いい意味で)。物語の中盤で展開されるのですが、これを真正面から書ききるメンタリティの誠実さは、私にはないかもしれません。

 

で、なのですが。

 

この強烈な描写、ただ趣味として、そういう作風として、行われているのではないと考えています。それはグロテスクな描写を用いることによって――もちろん描写それ自体も目的であったりしますが――別のものを明るみに出すことができるから。その手段として使われてる

 

じゃあ、それは何か。

 

好意を抱く者同士が望む、その理想的未来――もうちょっと言い換えて、好きな人と一緒にいられる、ということの善さ。そう私は考えています。

 

端的にグロテスクな描写を見せられても、それは気分を害してはしまいますが、それっきりです。そのえぐさを味わう/味わわせる、のが目的ですから。でも、もしそんな残酷な目に遭っているのが、本来結ばれるべきひとがいるのにその人とは結ばれない不幸な人間だったら。それに私たちは感情移入し、悲しい気持ちになります(あえて、簡単に「悲しい」とだけ言っておきます)。

 

本作品、ストーリーの鍵となる人物がそんな悲惨な経験をします。そして傷は二度と癒されることなく、放置されます。ストーリーとしてはうまく回収されていますが、当事者としては一生癒されません。

 

つまり、グロテスクな描写は、その裏返しにあるものをしめす。すなわち人間の微笑ましさ、可愛らしさ、そんな性質をもったキャラクターが幸せになって欲しいという思いが、逆説的に、浮き彫りになります。

 

どうして私たちは、この描写を読み、こうまで心を痛めてしまうのか。それはキャラクターたちに幸せになって欲しかったのにという純粋さを、作品全体が、とても大事にしており、それに心を打たれているから。

 

本作品全体を貫いているのは、そんな驚くほど純粋な世界観・人間観なのです。

 

 

3.救いとしての死、あるいは、破局としての死

登場人物のかなりの数が死を迎えています。殺人事件がトピックとなっているため、ほぼ惨殺されるという徹底ぶりです。

 

その徹底ぶりは、本当に読み手を選びます。読みながら気分が悪くなる(いい意味で)のは、レイプや残虐な殺害だけではなく、それが日常的に起きてしまっているかもしれない世界設定が前提になっているからです。一歩踏み外してしまえば、すこし横を見てみれば、そんな暴力が転がっている。ごろごろ人は死んでいくし、とくにそれに理由もない。そんなリアリティを提示しています。

 

それは許容できない人には許容できませんし、リアリティとしてどう捉えるかも、かなり個人差があるでしょう。

 

ここにも、本作品を貫く純粋さが表裏一体となって表れています。

 

理不尽に、そこら辺に転がっている暴力に巻き込まれたとき、その人間に救いはあるのか。そうまっすぐ読者に呼びかけています。そして、作者としての答えはおそらく「否」だと感じています。

 

そんな救いの主張はまやかしでしかない。暴力は暴力の連鎖を呼び、それをとめるすべなどない。巻き込まれる人間は、その渦に呑まれ、そのまま巻き込まれ続けるしかない。だとすれば、どうやって人間は不幸から救われることができるのか。

 

―死をもってして。

 

それがあり得る回答の一つだと、言っているように感じました。生きている以上は逃れられない。ならば、死をもってして、その運命に終止符を打つしかない。これ以上ない、明らかで、反論を許さないロジックです。

 

もちろんヒューマニズムに慣れ親しんだ私たちであれば、生きてこそ浮かばれる瀬もあれ、という反論を思い付きます。自殺しようとする人間を食い止める常套句に――それが有効であるかどうかはさておき――生きていたらいいことがある、そう呼びかけます。

 

ですがこれは、論理的に考えて、欺瞞に満ちている。

 

なぜか。簡単です。誰も死んだ「あと」のことを知らないからです。生きていたらいいことがあるかもしれないのは事実ですが、死んだ後のほうがいいということ、あるいは生きているよりましだということを、この世の誰も知らないのですから。だって死んだらもう「この世」にはいません。「あの世」です。だから「この世」と「あの世」を比較する、公平な立場には、誰も立つことができない。

 

その意味では、死が救いである、というロジックも欺瞞です。

 

死は端的に思考不可能な事柄ですから。死んだら救われるというのは、思考停止の産物でしかありません。

 

その話を前提に置くと、本作品の生死観が、鋭いことに気づかされます。

 

先ほど私は、死が救いになっていると言いましたが、同時に、死が無造作に転がっていて、癒しでも何でもないとも言いました。どっちもちゃんと描かれています。死を無意味に切り捨てるのでもなく、かといって癒しの手段として、崇め奉るのでもなく。

 

それでも救いとしての死に、やや傾斜しているような気はしますが、ここは解釈の分かれるところでしょう。隠されたヒューマニズムを読み取ることもできるプロットラインではあります。

 

それでも、正面から、暴力と死を描く。これはできなさそうで、やっぱりできない課題ですが、それに真正面からぶつかっているのが本作品です。

 

 

4.近親相姦

そしてもう一つ、無視できない主題がこれです。

 

本作品は、陰と陽、両極端なかたちで、近親相姦が描かれています。一方では思いとげられないまま死を迎え、結ばれない兄妹がいます。そして他方では、思いをとげ、結ばれた兄弟が登場します。一般的に考えれば、もちろん結ばれたペアの方が幸せでしょう。

 

でも、本作は違う。結ばれてしまった兄弟のほうが不幸な運命をたどり、思いとげられないままの兄妹のほうが、「幸福」な描かれ方をしている。

 

ここには、本作品にある、倫理観のようなものがある気がします。兄妹の不義は――当事者が不義であると思う限りにおいて――不義であり、いつまでも幸せにはなれない。その不義の不幸を免れる手段として、ここでもやはり死が描かれています。

 

私なんかは、読みながらこう考えてしまいます。当事者が兄妹であることを何とも思わない状態で、どうやったら二人は結ばれることができたのかって。きっと、できないのでしょう。そこに本作品を駆動する最大のジレンマがあり、悲しさを生み出す源流があります。それは血に彩られた、緋色の源流。赤い涙は、流されるしかない。

 

 

5.おわりに

かつてに比べ、誰しもが小説をかき、それを世に発表することができる時代になっています。有料のものから無料のものまで、実に多い。表現の自由という意味で、それは大変、望ましいことだと思っています。その恩恵に与る身としては、ありがたり限り。

 

本作品、すべて無料で読めます。

 

知らないことは幸せなことかもしれませんが、本作品を知らないことは、不幸なことだと、私は思っています。

(文責:じんたね)

ライトノベルは斜め上から(48)――『ひめとり!』

ライトノベルは斜め上から

こんにちは、じんたねです。

そういえば久しぶりのブログ更新になりました。これくらいのペースがいいかもしれませんね。

 

さて、本日のお題はコチラ。

ひめとり! (Hybrid Library)

ひめとり! (Hybrid Library)

 

 

 

解題――角!

 

 

1.作品概要

天涯孤独になった少年と、鬼の姫や妖怪たちのあたたかい物語。

――じいちゃんが死んだ。
俺を育ててくれた、たったひとりの大切な家族が死んでしまった――
鏡谷幸八(かがみやゆきや)は、祖父・幸蔵に育てられた。
じいちゃんとの毎日は質素で、厳しくて、でも楽しかった。
幸八が学校でいじめられて泣いて帰ってくると、じいちゃんは楽しい妖怪の話をしてくれた。
犬神、雷を扱うイタチ、そして鬼の一族……幸八はいつも、じいちゃんの話を聞くと泣き止んで、笑った。

ある日、幸八はじいちゃんから笛をもらった。
「見ろ、幸八。これはな、じいちゃんがその昔鬼を助けた恩にもらった鬼の角笛だ。
困ったときにこいつを吹いたら、鬼が飛んできて助けてくれるんだぞ」
じいちゃんが死んだとき、幸八は十五歳。
笛の話がとんでもない嘘だってことくらい、わかる。子どもをあやすための作り話だ。
それでも、幸八は。唯一の家族を失った幸八は。
一縷の望みへ縋るかのように、笛を吹くのだった。
「幸八様……ですね?」
気づけば。彼の背後に――鬼の姫が、跪いていた。 

 

 

2.落ちもの系ライトノベル

本作品は、和風落ちもの系ファンタジーといえば、正確に表現できるかもしれません。鬼の少女が降ってきて、いきなり日常生活は変化して、大ボスやっつけて、ハッピーエンドになる。サクサクっと読めるボーイミーツガールが欲しい、というかたにはおススメできる良作だと思います。媒体も電子書籍であり、アプリをDLすれば簡単に読めるようになっています。お値段もお手頃ですので、ひとまず買って損することはありません。

 

 

3.セルフ・パブリッシングの時代

作品の内容とは若干話がそれますが、一読後に思ったのが、「自分で出版できる時代なのだなぁ」というものでした。

 

技術的な意味も、もちろんあります。たった一人でも電子書籍の体裁を整えて、それを売り出すことができるからです。

 

かつて――といったらどこまで遡っていいのか分からないのですが――私が幼いころのイメージだと、紙媒体として本を出す、というのはとてもハードルの高い行為でした。出版社を通して、世に問うに値するという判断をすり合わせて、何度も構成して、各専門家の意見を踏まえて、そしてようやく本になる。

 

まあ、たぶんに懐古主義的というか、ロマンチックな見方なので、このイメージが実情を反映していたかどうかは怪しいところがありますが、それはさておいて。

 

作品の内容、という意味でも「自分で出版できる」のだと感じました。本作品がたとえば紙媒体として書店に並んでいたとしても、違和感がない。商業出版とセルフパブリッシング。こういう分け方は便宜上の意味しかありませんが、この分け方を使うとすると、その垣根は限りなくゼロに近いように思います。どちらかが上がったり下がったりしたのか。それとも地盤ごとせり上がってきたのかは分かりませんが、この二つを分けて考えることに――少なくとも本作品を読んだ印象では――意味はないと思いました。

 

これまでも、他の作者さまの多くのセルフパブリッシングの電子書籍を読んできましたが、この読後感は、いつも一緒です。もうこんな時代になったんだと、本作品を通じても、その産声とたしかな足取りを感じました。

 

 

4.だから角に触りたいんだよ、私は

こんな与太話はさておきましょう。私、本作品がとても好きです。何が好きかって、そりゃヒロインが可愛いからに決まっている。

 

ヒロインは人外のお方で、いわゆる鬼というものです。主人公の過去にけっこうえげつない感じてコミットしていたり、ストーリーを引っ掻き回したりしますが、基本的には囚われの姫です。だってラストは主人公に強奪されて結婚しますからね!

 

で、作中でデートとかしているんですが、観覧車でですね。角に触れるんですよ。彼が、彼女の。そうあのにょきっと生えている、二本のあれに。

 

「ふぇ……んんっ……やっ……はんっ」

 角は敏感な場所らしく、幸八が指を這わせるたびにミナがピクンピクンと反応する。その角を指の腹で丹念に撫でまわし、指先でつまんだり、転がしたりして、幸八はしっかりと角の感触を確かめた。角は徐々に触るごとに熱を帯びて熱くなるように思われた。

 ――ああ、うん。やっぱり本物だ。うん。(電子書籍のためページ数不明)

 

 

なぁーにが「やっぱり本物だ」だ!! きさまら、観覧車でなにじゃれあっとるんじゃぁぁ! 角が敏感なわけあるかぁぁ! 角って武器だろ!? 鹿とかよ、雄同士でガツンガツンってぶつけてるだろ!? 敏感だったら死んじゃうだろ!? だって敏感なんだよ!? 当たったら感じたらだめだよねっ!?

 

・・・・・・大変失礼しました。

 

ええと、こんな作品じゃないですよ、ほんと、ちゃんとしたボーイミーツガールなんです。ここはちょっとしたサービスシーンでだから、そのですね、じんたねがここのシーンが好きだから引用した。文句あるか。

 

俺も鬼の娘が欲しい、そう思わせるライトノベルでした。

(文責:じんたね)

ライトノベルは斜め上から(47)――『銀糸の魔法式』

ライトノベルは斜め上から

おこんばんは、じんたねです。

寝ても寝なくても、元気!

 

さて、本日はコチラになります!

銀糸の魔法式1 魔法使いの実習生 (講談社ラノベ文庫)

銀糸の魔法式1 魔法使いの実習生 (講談社ラノベ文庫)

 

  

 

解題――ヒロインを好きになるには

 

 

1.作品紹介

「あなたが私の保護者になればいいじゃない!」
アパートの管理を任されている秋月孝平は、ある日、銀髪碧眼の美少女・クレアと出会う。クレアは自分を【魔法使いの実習生】だと言い、半ば強引に孝平を保護者にてしまう。お嬢様育ちのクレアは、食事を用意させ、部屋を追いやり、夜間は侵入防止トラップを仕掛ける。そんな奇妙な共同生活が始まった矢先――一般人が魔法使いに襲われると言う事件を発端に、孝平は次々と魔法の絡んだ出来事に巻き込まれていく――第1回講談社ラノベチャレンジカップ≪佳作≫受賞作。

 

 

2.ヒロインを囲い込むには

本作品は、ある日突然美少女が登場して、いきなり異能魔法バトルに巻き込まれて、主人公の力が発言して、めでたく事件解決という物語になっています。私の世代にとっては王道中の王道で、読みながら、うんうんという気持ちになります。

 

このストーリーラインの、一番のネック、というか、じんたねも書きながら頭を悩ませてしまうのは、どうやってヒロインが主人公のもとに転がり込むのか、ということにあります。

 

だって、見ず知らずの他人の家、そうそうお泊まりできないでしょ?

 

できません。一泊二日の旅行じゃあるまいし、しばらく身を置くなんて恐ろしい真似は。なので、見知らぬ二人が出会って共に過ごすには、それなりの工夫が必要になってきます。

 

本作品もそうですが、その手段としては居場所を断つというものがあります。ヒロインがもともといたホームタウンが失われる(あるいは追われる)ことで帰る場所がなくなり、いやがおうにも主人公のところに押しかけなければならないというやり方です。押しかけ女房という言葉がありますけれど、あれも含蓄のある言葉です。

 

そしてそのホームタウンを追われた理由を、作品を駆動させる謎に設定する。そうすれば主人公と行動を共にする理由も手に入るというわけです。

 

 

3.主人公もまた欠けている

これもまた、同じ理由からです。いくらヒロインの故郷を奪って、主人公のもとに送り込んだとしても、当の主人公がそれを拒否ってしまえば、それまでになります。いくら美女であったとしても、やっぱり赤の他人は赤の他人。ほいほいと受け入れることはできません。

 

そこにはやはり、ヒロインを求めるべき、理由がなければいけない。

 

本作品、主人公はアパート暮らしで、かつて暮らしていた家族と離れていることになります。ヒロインはその家族を求めて来日し、そこで接点を持つという設定になっています。彼は、家族がいないからといって寂しがっていたり、あるいは心に傷を抱えていたりということはありません。が、そこは性格を理由にしています。

 

人の頼みを断れないお人好し。それが主人公を評する友人の言葉です。だからヒロインを自宅に囲って、ちょっとエッチなイベントを体験し――てるわけねえだろぉぉ!

 

・・・失礼しました。

 

性格が第一の理由というのは、説得力がありません。

「なんで騙されるん?」「そういう性格だから」というのは、理由を準備していませんと言っているようなものです。ですが

「なんで騙されるん?」「そいつが好きだった人の面影をもっていたから」だと説明になります。

 

本作品は、注意深く読まないと見落としてしまう、大事な一文を、物語の冒頭でぽんと出しています。

 

 

孝平が住んでいるこのアパートだって、昔は祖母が住んでいたものだ。

 (中略)

 昔と何一つ変わらないこの場所を――孝平は、今も愛着をもって使い続けていた。(56ページ)

 

 

つまり祖母の記憶があり、それのあるアパートから離れられない。そこに転がり込んで来た彼女が、祖母を当てにして、訪れてきた。なるほど、断れない。思い出や人への愛着は、かなりの確率でその人の行動原理を決定するからです。

 

自分が好きな人間が好きだと言ったから信用する。ベジータが味方になるロジックそのものです。あれだけ地球の人々を殺そうとしたり、宇宙で暴れまわってきたのに、仲間たちだって殺されたのに、ベジータを受け入れられたのは、孫悟空がいいっていったから。それに尽きます。

 

本作品のヒロインも、祖母との記憶を大事にしており、そのことを嬉しそう主人公に話します。そりゃ断れませんよね。

 

作品の内容についてはあまり触れられませんでしたが、本日はこれくらいで。

(文責:じんたね)

 

次回はコチラになります。

ひめとり! (Hybrid Library)

ひめとり! (Hybrid Library)

 

 

 

ライトノベルは斜め上から(46)--『カラクリ荘の異人たち~もしくは賽河原町奇談~』

ライトノベルは斜め上から

こんばんは、じんたねです。

明日は出張だよ! やったね!

 

・・・さて、本日のお題はコチラです。

カラクリ荘の異人たち?もしくは賽河原町奇談? (GA文庫 し 3-1)

カラクリ荘の異人たち?もしくは賽河原町奇談? (GA文庫 し 3-1)

 

 

 

解題――見よ、これが英断しないことの矜持だ

 

 

1.作品紹介

異世界へ行く方法を尋ねられ「車か電車で行けば?」と答えた太一に、クラスメイトの采奈は「そんなのつまらないし、安易すぎ」と言った。しかし、下宿することになった空栗荘へ向かうため彼が賽河原町でバスを降りると、そこは人でなく魚人やムジナ、のっぺらぼうに、喋るカラス―etcたちが行き交う、妖怪たちの住む町だったのだ。おまけにたどり着いた空栗荘は、人間とはいえ一癖も二癖もあるような住人たちばかり…。そんな「あちらとこちら」が混じり合う場所で新生活を始めた太一に巻き起こる、不可思議な出来事の数々とは?賽河原町奇談開幕。

 

 

2.緩やかな起伏

本作品は、一言でいえば、和風奇譚でしょう。あるとき日常と非日常の境界を越えた主人公が、妖怪や化け物といった「こちら」の世界ではない「あちら」の世界の住人のいる場所に登場します。その世界の境目にあるカラクリ荘と呼ばれる場所で一人暮らしを初めて、人間のような、そうでもないような、とにかく様々な不思議なキャラクターたちとの生活を始めるというものです。

 

派手に切った張った。異世界でドタバタ。といった展開はなく、どちらかといえば静かなプロットになっています。1巻で回収されない伏線も山盛りで、スピードではなく、緻密さで勝負するタイプの作品だと思います。

 

絵柄なども水彩画のタッチが淡い雰囲気を上手に表現していて、これまた素晴らしい。ただ、ヒロインがサービスシーンを提供してくれません。浴衣を着て、お盆に一緒にあるくくらいです。なんでだよ!!! いや、それでも十分なご褒美だけど、いや、よく脱ぐ作品ばっかり読んでる俺が悪いんだ・・・。

 

 

3.鋭角な人間観

とはいえ、その緩さは、本作品にとって、ほぼ必然のものです。この緩やかさがなければ、描かれているキャラクターたちをうまくいかすことができないから。それは、驚くほど鋭い人間観に反映されています。一番象徴的なのは次の台詞でしょう。これは主人公と同じカラクリ荘に住まう、変人の部類に属している、「ミヨシ」と「十遠見」を評した言葉のやりとりです。

 

「でも俺、ミヨシさんや十遠見さんみたいな特別な人たちと違って、お化けや妖怪が出てきても何もできないし」

(中略)

「ミヨシ君も十遠見さんも、『特別』なんかじゃないですよ。彼らは普通の人間です。そんな言葉で彼らとの間に線を引かないでください」(201-202ページ)

 

 

本作品の構図は「あちら」と「こちら」。そしてその境界線にいる主人公たち、というものです。この分類の厳密さとその使い分けは、作中においても徹底しています。あやふやな世界観で、ここを紛らわせることが決してない

 

どうしてか。

 

それはおそらく、本作品が、境界に住まうこと、もっといえばどちらの世界でもマジョリティ・世界ではない――「境界人」(G.ジンメル)の物語として書かれているからです。そんなどちらの世界にも居場所のない人たちの、したたかで平和で悲しく優しい姿を、描き出そうとしている。

 

境界人を描き出すには、その境界のエッジを――物語のさしあたって序盤では――強調する必要があるから、本作品は、ゆるいストーリー展開であるにもかかわらず、設定にブレが発生し得ません。

 

そして境界人であることを克服するのではなく、その淡いに佇み続けること。それがおそらく、一歩踏み込んだ、本作品のテーマでしょう。

 

今の2つに分かれた世界に白黒をつけて、どちらかが克服して、主人公が幸せになる。これはよくある冒険活劇ですし、今も、主流を占めているでしょう。ですがそれは、とどまることの正義を説きません。敢えて変化しない。じっとする。それに意味があることを、語ってはいません。そういう意味では、本作品、マイナーな作品ともいえます。しかし、マイナーだからといって語られる意味がないということではない。むしろ、こういった作品があり続けることが、意味がある

 

白黒が簡単につかないことを、ちゃんと白黒がつかないと認めることは、実はとても難しいことです。簡単な答えや逃げ道に走るのが人間ですし、物語の落としどころとして、そういったものを持ってくることもできます(あれ、心が痛いぞ・・・)。

 

おそらくですが、本作品は巻数が進んでも、主人公は成長しないでしょうし、境界に居続けることの意味を、ずっと描き続けると思います。そうあって欲しい。じんたねは思います。

 

とてもいい雑貨店を見つけたような、そんな読後感でした。こちらの作品も全力でおススメです。世の中との距離感に折り合いをつけられない、あるいはつける必要があるのか。そんなことを一度でも考えたことのある方は、必読のライトノベルです。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります。

銀糸の魔法式1 魔法使いの実習生 (講談社ラノベ文庫)

銀糸の魔法式1 魔法使いの実習生 (講談社ラノベ文庫)

 

 

 

ライトノベルは斜め上から(45)――『天命の書板』

ライトノベルは斜め上から

こんばんは、じんたねです。

ソシャゲは時間がないと、睡眠時間を削るコトになりますね。えへへ、楽しいなぁ。ふわっふわする。

 

さて、本日注目するのはコチラになります!

天命の書板 不死の契約者 (一迅社文庫)

天命の書板 不死の契約者 (一迅社文庫)

 

 

 

解題――少年よ神話になれ

 

 

1.作品概要

世界に『天命の書板』の欠片と、それを身に宿す特殊な能力者が生まれておよそ三十年。巨大学園・霧の学舎へやってきた八坂韻之介は書板使いに襲われている女性を助けようとして、瀕死の重傷を負ってしまう。死の淵にあった韻之介を救ったのは、みずからを『天命の書板』の管理者にして、万物産みし大地の母神と語る謎の幼女・ティアだった。ティアの契約者となった韻之介は普通科から書板科へ編入され、キングー同士の戦いへ身を投じることになるのだったが―。書板の欠片をめぐり争う学園異能バトル開幕!

 

 

2.ライトノベルの完成形

――うおいちくしょう、面白いな!

 

これが初読直後の感想でした。とても面白い。本当によく出来ている。こんなの俺も書きたかったんだよ、って臍を噛むような気持ちになりました。

 

本作品には、90年代から00年代にかけて完成していったライトノベルらしい設定というか、その理想形がかたちとして受け継がれています。

 

・無気力系だけれど訳ありな主人公の成長物語。

・幼馴染でツンデレでありながら、ストーリーで足を引っ張ったり助けたりして、それでも主人公との元鞘に収まるヒロイン。

・突如、空から降ってくる謎をかかえた美少女(難あり)が、主人公の日常を引っ掻き回しながら、その異能を駆使する。

・彼らの活劇を見守る大人たちとそれを妨害する大人たちの政治的背景。そして神話などに見られる世界設定をうまくトレースして、アレンジする舞台。

・ライバルとの戦いや異能を駆使して、最後にはハッピーエンド・・・だけれど2巻以降にもつなげられる展開。

 

私がまず連想したのは、とあるシリーズの作品であったりしますが、本作品のほうが個人的には面白かった。他作品には見られない、メソポタミアの神話をベースにしたアレンジも妙味となっていますし、細かい伏線の張り方や回収の仕方も、とてもスマートでした。書写(模写)してプロットや文字数の流れをつかむのにも、大変、有益なライトノベルです。

 

最近、このブログを書くようになって、いろんな作品を読んでいますが、こういう素晴らしい作品が多いので本当に腹が立ちますね。悔しい。くそ、くそう・・・!! あともっと売れろ! 2巻と3巻はよ! 一迅社さまお願いします!

 

 

3.背景としての世界観

さきほど、私は90年代から00年代の、という枕詞を用いました。現在は2015年であり、すでにライトノベル全盛の頃から、10年以上が経過しています。本作品は、そのころの雰囲気をよく体現しているのですが、その雰囲気の正体というのは、一言でいって世界観にあります。

 

本作品は神話の世界観をモチーフにしています。神話の定義にはいろいろありますが、ここでは昔から人々に語りづがれてきた、世の中の出来事を解釈する指針を与え続けてきたもの、くらいにしておきます。

 

たとえば雷。

 

これは科学的知識がなければ、一体、なんでどうして何のために発生しているのかわかりません。それに当たらないように怯えたりしながら過ごすばかりです。ですがここに神話という物語があって、「これは神様が怒っているからだ」という理由を与えたとします

 

そうなれば恐怖心はともかくとして、それに意味を見出すことができます意味が見出されば、それに対する出方も定まります。怒りを鎮めるためにお供え物をしようか、それともひたすら耐え忍ぶか。どっちにしてもただ雷に恐れおののき、受動的なままでいたこととは、比べ物になりません。

 

そうやって意味を与え続けてきたのが神話。

 

だとすれば、神話には何年もの使用に耐えてきた、いわば強度があります。ちょっとやそっとでは疑ったり飽きられたりしないような、物語のいわば原液のようなものが凝縮されています。ちなみに現在では、科学が私たちの神話になっているのでしょうが、その辺は省略。

 

さてはて、やっと話が元に戻ります。新しく物語を語りだすとき、背景として神話のような超濃ゆいものを参照すると、飛躍的に重みと説得力が生まれます。今の異世界作品も、もとをたどればRPG的なリアリズムですし、それもたどれば神話になります。

 

ただし、最近のライトノベル――といっても読んだ冊数には限りがあるので、あくまでもじんたねの経験則の範囲内――では、そういった重厚な世界観は忌避される傾向にありますポストモダンという言葉が、その状況を簡単に説明しますが、おおむね間違いではないと思います。すなわち、軽妙であり、奥行きを感じさせない作風が主流のような気がしています。

 

ライトノベルやソシャゲを元ネタにしたライトノベルが生まれてくるのも、そこまでの世界観を必要としていないという判断からだというのが、私の解釈です。

 

誤解されないように付け加えますが、重厚であればOK、軽妙であればNG、という話ではありません。どちらもそれ自体スタイルですから、善し悪しを判定する材料にはなり得ません。

 

本作品は、その背景にある世界観が、これでもかとドーンと盛り込まれています。おそらく、これに理由を求めるのは、大変野暮なのですが(そして実際、野暮だと自覚しながら)、その辺のことを、主人公の性格から述べてみたいと思っています。

 

 

4.ダウナー系主人公は共感できない

本作品の主人公は、いわゆる無気力系の冴えない男子系譜に属しています。そして周囲の美女に騒がれるというところまでワンセットです。

 

さきほど、彼には陰があると言いましたが、その設定がきわどい

 

彼は、他人に共感できない性格です。これは空気を読むのがヘタであったり、あるいは感情移入に偏りがあるといったことでは、まったくありません。どれほど親しい存在、たとえば両親との死別を経験しても、まったく悲しくない、ということになっています。この性格をある程度カギにしつつ、後半は盛り上がっていくのですが、根本的なところは変化していないので2巻への伏線ということにもなっています。

 

主人公は共感できない自分の性格を、心から悩んでいる。どうして自分には、他のヒトと同じように共感したり、痛みを分かち合ったりできないのだろうって。

 

この設定を踏まえて読むと、前半部分のサービスシーンや「女の子にもてたい」という理由全開の行動原理が、実は、自分の性格を否定し、一生懸命演技しているという、辛く「哀れ」な姿として見えてきます。

 

ここからは、かなりじんたねの妄想が入っているので、未読のかたはごめんなさい。既読のかたはせせら笑ってください。主人公の彼は、おそらくいつも他人を見ています。他人がどう振舞い、どう考えているのか。その挙動を気にして、そこに溶け込もうと必死でしょう。だって自分は普通でないと自覚していて、そのことを漏らさないのですから。鷹揚でルーズで空気を読んでいるのも、すべて計算の範囲内のはず。実際、作中でも頭の回転がはやい。

 

つまり彼は、いつも世間を見ていて、それをラーニングしようと必死なんだと思います。

 

ここで神話の話が、いきなりつながります。

 

神話というのは、世界に意味を与えるものだと言いました。この世界、実は、他人も含まれています。他人がどういった行動パターンのときに、どう感じていると解釈するのが妥当なのか。これの素地を用意するのも、じつは神話のお仕事だったんですね。

 

小説を読むようになって、人間の機微が見えてきた。この体験をしたひとは多いんじゃないでしょうか。それもそのはずです。遠い昔から、人間がやってきたことを、神話じゃなくて小説でやっているのですから。

 

さてさて、ここで再び主人公のお話。彼は、その意味で、誰よりも強く神話を求めています。自分の他者理解や共感をまぎれもなく強固にしてくれるものとして。それをトレースし内面化することで、きっと「普通」の人間になれるはずだから。

 

そう考えてみると、本作品に登場する、メソポタミアの神々が主人公を取り巻くという構図は、なんともシニカルであり、何とも意味深長です。だって、まさに彼が欲してやまないものを、すでに神様(=神話のキャラクター)が体現化しているのですし。それどころか誰よりも人間的な性格として神様が登場したりします(ティア可愛いよティア可愛いよ)。

 

そして物語のプロットもまた、そこから必然的に定まってきます。すなわち、主人公が神話を取り戻すこと。神話の神々から意味付与する技術を授けられ、そして日常に戻ること。

 

まあ、あんまりにも抽象的な話なので、だいたいのライトノベルにあてはまっちゃいますが、2巻以降は、きっとそんな主人公の成長物語がみられると思っています。

 

・・・だから続きはよ!!!!

(文責:じんたね)

 

次回作はこちらを予定しています。

カラクリ荘の異人たち?もしくは賽河原町奇談? (GA文庫 し 3-1)

カラクリ荘の異人たち?もしくは賽河原町奇談? (GA文庫 し 3-1)