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誰でも書ける森博嗣(1)

誰でも書ける森博嗣

こんばんは、じんたねです。

とても久しぶりのブログ更新になります。

 

本日は、タイトルの通りのことを書き連ねます。

森博嗣先生――独特のキャラクターたちが織り成す、とてもユーモラスで、王道を軽やかにかわしつつ、ヒューマニズムに満ちた、ちょっと真似できない角度から描かれた世界で起きるミステリーの書き手として、もはやベテランどころが、一時代をなす存在と言っていいでしょう。

 

恥ずかしながら、森先生の作品を読み始めたのは、ここ最近のことで、そのあまりのユニークさに面を食らいました。

 

そしていくつかの作品を読み解きながら、自分だったらどう書くのか悩みながら、分析をしていった結果、かなりの共通点や特徴を見出しました。そしてここでは、それを惜しみなく(惜しいけど)大公開しようと思います。

 

あらかじめ断っておきますが、私は森作品をすべて読破しているわけではありません。しかも読んだといっても、しっかり読み込んでいない作品もあります。

 

え、そんなんで「誰でも書ける森博嗣」が書けるの?――書けます

 

小説に書きらず、書き物というものは、人間の習慣をベースにしています。その人の使い回しや、お得意の世界観など、どれほど新しいものを取り入れようとし、自分を刷新し続けても、癖は抜けないものです。それは「その人にしか書けない」というスタイルを持っている書き手であれば、なおのこと。森先生も例外ではありません。

 

ということで、こんな大見得切って大丈夫なのかと、恐れおののきながら、さっそく誰でも書ける森博嗣講座を行いたいと思います。ちなみに不定期連載ですので、次回はおそらく3月になってからになります。

 

1.森的世界観

誰でも書ける、とすると、つい文体論やプロットの組み方に話が傾注してしまいがちですが、ホントにその人にしかかけない何かを見出そうとするならば、まずは何より、その書き手の世界の見方・考え方を押さえないといけません。そこがずれると、いくら文体が似ていても「それっぽい」ものにならないので。

 

で、森博嗣作品を見るには、二つのベクトルを下敷きにするのが手っ取り早い。「手っ取り早い」という言葉には、これが完全な分析の枠組みではなく、おおむね簡単に機能して使いやすい、という意味を込めています。

 

すなわち、

 

(1)工学的視座=理想・理念の排斥

(2)日常知・実践知によるヒューマニズム

 

この二つが交差するところに、森博嗣作品の色がにじみ出ます。ではまず(1)の工学的視座=理想・理念の排斥、という部分から触れていきましょう。森先生は、徹頭徹尾、世界を工学的に観察しています。ここでいう「工学的」というのは、文系・理系と対概念となる、次のような意味になります。

 

 文学系あるいは理系的な知と工学的な知の違いは、両者の出自の違いにはっきりと記されている。文学部も理学部も自由学芸から生まれた。その中心には神がいた(自由学芸は神学の基礎科目だった)。言い換えれば、人間と世界の関係という大きな問題があった。…… しかし工学部には神がいない。それは産業革命が生み出した学部であり、人間と世界の関係についての思弁をまったく必要としない。工学者が考えるのは、目の前の問題を効率的に解決するための道具的方策であり、そのために必要な資材や情報の調達方法である。そこには抽象的な世界観など入る余地がない。

東浩紀『文学環境論集:東浩紀コレクションL』講談社、2007、593頁)

 

 これだけでは意味がさっぱりなので、補足をしておきます。たとえば自分の小学生の子どもに粗暴なところがあるというか、すぐに手を挙げてしまうところがあるとします。

 

 このとき文系・理系的な思考だと、その子どもの粗暴さをどうにか教育によって変えようとします。手を挙げることは他人の迷惑になるだとか、それはめぐりめぐって自分のためにならないだとか。

 

とにかく、その子が自ら善悪を判断し、セルフコントロールできるための方策を考えます。ここでいう善悪、というのが、上記引用でいうところの「神」=自分たちがよってたつ価値基準、になります。

 

ですが工学的に考えると、子どもを教育しようという発想にはなりません。そんな傾向性のある子どもが、そのままでいても手を挙げなくてすむように、環境設計を施してしまおう、と考えます。

 

たとえば、手を挙げたら痺れや痛みを覚えるような装置をつけてしまう。腕をあげにくい衣服を着せるといったことです。この例が、現実味のないものに見えるとすれば、監視カメラを考えて見ればよいでしょう。ご存じのように監視カメラの設置は犯罪の防止につながると言われています。

 

これは文系・理系的に考えると、犯罪を起こさないような人間をどうやって教育するのかという発想になりますが、そも犯罪を犯すことが劇的にリスキーであり、それが起きないように街ごと作ってしまえばいい、とするのが工学的です。街中にも車除けのバンプや、ホームレスの人々が寝られないように、あえて突起物を床に置いたりといった試みがありますが、これらはすべて工学的発想の賜物でしょう。

 

ようやく流れは元に戻ります。

 

森先生は、世の中の事柄を、この工学的な視点から眺めます。

 

手を挙げる粗暴な子どもは、「粗暴」といった価値観に染まった言葉遣いでは表現されません。手を挙げて、近くの人間を殴打し、その本来的機能を損ねる可能性のある身体の動き、というとてもドライなかたちで捉えられます。そこまで価値観から距離をとらなければ、その動きを分析し、工学的に防止するように発想できないからです。

 

問題となっているのは「粗暴さ」ではなく、他人の機能を損ねる物理的「接触」なのです。だから工学的には、粗暴さを問題にするのではなく、殴打しようとしても触れられない、あるいは殴打しても大丈夫な物理的設計こそが、関心の的になります。

 

つまり森作品のひとまずの特徴として、善悪や感傷といったものを求めないことがあります。森小説でキスシーンを描くとすれば、それは「愛情」の確認であったり、ラブロマンス」の発生として美しく描かれるのではなく、ディープであれば、「唾液や刺激の交換による、互いを裏切らないようにする慣習」として描き出すでしょう。

 

口うるさい近所のおばちゃんがいたとすれば、それを「うるさい」だの「迷惑」だのという主観にたよった描写をするのではなく、「周囲の人間に耳を塞がれやすい音声を発して、半径数メートルに立ち入らせないことが得意なのだ」、と言った風に記述します。

 

その、私たちが前提としている価値観、あるいは善いモノ・悪いモノとして思い込んでいるものを、工学的な視点から記述しなおして、読んでいるひとに「あれっ」と感じさせる。それが森作品の、ひとまず目立った特徴と言えるでしょう。

 

そして、いったん価値観から距離をとって、それでも価値観を前提にして生きている人々をユーモラスに愛情を持って描くところに、森博嗣の筆致は立ち返ります。それが(2)日常知・実践知によるヒューマニズムにあたります。

 

工学的に徹底すれば、人間の営みは物理現象としてのみ記述され、善悪好悪が後景に退いてしまいます。けど、そういったことはしない。森作品において工学というのは、あくまでの日常的に生きている人々がささやかながら幸せに生きるための手段であって、それに貢献するものとして位置付けられています。

 

それは森作品に登場する成長しない人物への愛情や、屁理屈をこねる哲学者文学者への、これでもかというほど憎々しく描かれているところに見て取れます。神だの教育だのといっても、うまくいかないときはうまくいかない。そんな屁理屈をこねるくらいなら、具体的にトラブルが起きないような日常を実現するほうが早い。その態度の産物です。

 

森作品のキャラクターは、魅力的であることは間違いありませんが、成熟しているかといえば、とてもそうとはいえない人々ばかりです。もっと言ってしまえば、子どもっぽい。いわゆるコミュ力や社会性という意味では、異端な存在ばかりです。

工学的には、彼らを成長させたり、困難を乗り越えてドラマを作ったり、ということはあり得ません。それは文系・理系の発想だからです。

 

ならどうするか――子どものままでいられる世界で彼らを住まわせればいい。

 

キャラクターたちは、一人で過ごすことが多い人々ばかり。誰かと四六時中一緒にいることはありますが、一人になりたいときは平気で一人になって、それが許されている。要するに子ども同士がよりあつまって喧嘩をするのなら、喧嘩しないように距離をとれればいい。そういう思想に貫かれているのです。

 

それは文系・理系の発想に馴染んだ人間には、歯がゆく見えるかもしれませんが、問題を解決するのではなく、環境を設計して、そもそも問題が起きないようにする、というのも立派な対応の方法です。

 

そしてその態度は、成長できなくとも日常を生きるキャラクターへの信頼、あるいは、それを守ろうとするヒューマニズムに支えられているからだと、私は考えています。それは実は、森先生唯一の文系・理系的な側面です。

 

この工学的発想に支えられた非工学的愛情。これが同時に発揮されてこそ、森博嗣作品の、あのどこか現実離れした、それでいて距離感があって、キャラクターへの愛情に満ちた、作風が実現されるのです。

 

とりあえず、ここで筆をおきます。

他にも触れるべきことは山ほどありますが、まずは序論ということで、大きな話をしておきます。

(文責:じんたね)