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ライトノベルは斜め上から(49)――『緋色の源流』

ライトノベルは斜め上から

こんばんわ、すっかり酔っぱらいのじんたねです。

ブログのペースを落として、じっくり読むことにしました。

 

で、本日はコチラになります!

 

 

解題――悪意に彩られた道は、善意へと通じるか

 

 

1.作品紹介

とある地方でおきた、連続誘拐殺人事件が、本作品の舞台です。主人公は刑事であり、その妹が物語のメインにいます。ストーリーの筋立てを追いかけてもいいのですが、ミステリー仕立てになっているので、多くを語らないほうがいいでしょう。

 

ただR18Gというタグが付されているように、グロテスクであったり性的であったりする描写があるので、耐性のないかたが読まれる場合は、気をつけたほうがいいでしょう。

 

 

2.グロテスクな描写

本作品、本当に容赦ない描写が目立ちます。pixivという場の、かなりきわどいラインを攻めている。もしイラストになれば間違いなく検閲されるレベルのものです。

 

私が、とりわけ気分が悪かったのは(いい意味で)、犯人に脅された男性が、あらかじめ誘拐してきた女性を凌辱し殺すシーンです。本当に胃がむかむかしました(いい意味で)。物語の中盤で展開されるのですが、これを真正面から書ききるメンタリティの誠実さは、私にはないかもしれません。

 

で、なのですが。

 

この強烈な描写、ただ趣味として、そういう作風として、行われているのではないと考えています。それはグロテスクな描写を用いることによって――もちろん描写それ自体も目的であったりしますが――別のものを明るみに出すことができるから。その手段として使われてる

 

じゃあ、それは何か。

 

好意を抱く者同士が望む、その理想的未来――もうちょっと言い換えて、好きな人と一緒にいられる、ということの善さ。そう私は考えています。

 

端的にグロテスクな描写を見せられても、それは気分を害してはしまいますが、それっきりです。そのえぐさを味わう/味わわせる、のが目的ですから。でも、もしそんな残酷な目に遭っているのが、本来結ばれるべきひとがいるのにその人とは結ばれない不幸な人間だったら。それに私たちは感情移入し、悲しい気持ちになります(あえて、簡単に「悲しい」とだけ言っておきます)。

 

本作品、ストーリーの鍵となる人物がそんな悲惨な経験をします。そして傷は二度と癒されることなく、放置されます。ストーリーとしてはうまく回収されていますが、当事者としては一生癒されません。

 

つまり、グロテスクな描写は、その裏返しにあるものをしめす。すなわち人間の微笑ましさ、可愛らしさ、そんな性質をもったキャラクターが幸せになって欲しいという思いが、逆説的に、浮き彫りになります。

 

どうして私たちは、この描写を読み、こうまで心を痛めてしまうのか。それはキャラクターたちに幸せになって欲しかったのにという純粋さを、作品全体が、とても大事にしており、それに心を打たれているから。

 

本作品全体を貫いているのは、そんな驚くほど純粋な世界観・人間観なのです。

 

 

3.救いとしての死、あるいは、破局としての死

登場人物のかなりの数が死を迎えています。殺人事件がトピックとなっているため、ほぼ惨殺されるという徹底ぶりです。

 

その徹底ぶりは、本当に読み手を選びます。読みながら気分が悪くなる(いい意味で)のは、レイプや残虐な殺害だけではなく、それが日常的に起きてしまっているかもしれない世界設定が前提になっているからです。一歩踏み外してしまえば、すこし横を見てみれば、そんな暴力が転がっている。ごろごろ人は死んでいくし、とくにそれに理由もない。そんなリアリティを提示しています。

 

それは許容できない人には許容できませんし、リアリティとしてどう捉えるかも、かなり個人差があるでしょう。

 

ここにも、本作品を貫く純粋さが表裏一体となって表れています。

 

理不尽に、そこら辺に転がっている暴力に巻き込まれたとき、その人間に救いはあるのか。そうまっすぐ読者に呼びかけています。そして、作者としての答えはおそらく「否」だと感じています。

 

そんな救いの主張はまやかしでしかない。暴力は暴力の連鎖を呼び、それをとめるすべなどない。巻き込まれる人間は、その渦に呑まれ、そのまま巻き込まれ続けるしかない。だとすれば、どうやって人間は不幸から救われることができるのか。

 

―死をもってして。

 

それがあり得る回答の一つだと、言っているように感じました。生きている以上は逃れられない。ならば、死をもってして、その運命に終止符を打つしかない。これ以上ない、明らかで、反論を許さないロジックです。

 

もちろんヒューマニズムに慣れ親しんだ私たちであれば、生きてこそ浮かばれる瀬もあれ、という反論を思い付きます。自殺しようとする人間を食い止める常套句に――それが有効であるかどうかはさておき――生きていたらいいことがある、そう呼びかけます。

 

ですがこれは、論理的に考えて、欺瞞に満ちている。

 

なぜか。簡単です。誰も死んだ「あと」のことを知らないからです。生きていたらいいことがあるかもしれないのは事実ですが、死んだ後のほうがいいということ、あるいは生きているよりましだということを、この世の誰も知らないのですから。だって死んだらもう「この世」にはいません。「あの世」です。だから「この世」と「あの世」を比較する、公平な立場には、誰も立つことができない。

 

その意味では、死が救いである、というロジックも欺瞞です。

 

死は端的に思考不可能な事柄ですから。死んだら救われるというのは、思考停止の産物でしかありません。

 

その話を前提に置くと、本作品の生死観が、鋭いことに気づかされます。

 

先ほど私は、死が救いになっていると言いましたが、同時に、死が無造作に転がっていて、癒しでも何でもないとも言いました。どっちもちゃんと描かれています。死を無意味に切り捨てるのでもなく、かといって癒しの手段として、崇め奉るのでもなく。

 

それでも救いとしての死に、やや傾斜しているような気はしますが、ここは解釈の分かれるところでしょう。隠されたヒューマニズムを読み取ることもできるプロットラインではあります。

 

それでも、正面から、暴力と死を描く。これはできなさそうで、やっぱりできない課題ですが、それに真正面からぶつかっているのが本作品です。

 

 

4.近親相姦

そしてもう一つ、無視できない主題がこれです。

 

本作品は、陰と陽、両極端なかたちで、近親相姦が描かれています。一方では思いとげられないまま死を迎え、結ばれない兄妹がいます。そして他方では、思いをとげ、結ばれた兄弟が登場します。一般的に考えれば、もちろん結ばれたペアの方が幸せでしょう。

 

でも、本作は違う。結ばれてしまった兄弟のほうが不幸な運命をたどり、思いとげられないままの兄妹のほうが、「幸福」な描かれ方をしている。

 

ここには、本作品にある、倫理観のようなものがある気がします。兄妹の不義は――当事者が不義であると思う限りにおいて――不義であり、いつまでも幸せにはなれない。その不義の不幸を免れる手段として、ここでもやはり死が描かれています。

 

私なんかは、読みながらこう考えてしまいます。当事者が兄妹であることを何とも思わない状態で、どうやったら二人は結ばれることができたのかって。きっと、できないのでしょう。そこに本作品を駆動する最大のジレンマがあり、悲しさを生み出す源流があります。それは血に彩られた、緋色の源流。赤い涙は、流されるしかない。

 

 

5.おわりに

かつてに比べ、誰しもが小説をかき、それを世に発表することができる時代になっています。有料のものから無料のものまで、実に多い。表現の自由という意味で、それは大変、望ましいことだと思っています。その恩恵に与る身としては、ありがたり限り。

 

本作品、すべて無料で読めます。

 

知らないことは幸せなことかもしれませんが、本作品を知らないことは、不幸なことだと、私は思っています。

(文責:じんたね)