ライトノベルは斜め上から(41)――『ひとつ海のパラスアテナ』

こんにちは、じんたねです。

二日酔いのせいで、ぐわんぐわんしてます。

 

さて、本日はコチラ!

ひとつ海のパラスアテナ (電撃文庫)

ひとつ海のパラスアテナ (電撃文庫)

 

 

 

解題――ライトノベルの皮をかぶった極限状況のルポルタージュ

 

 

1.作品紹介

それは、いつ終わるとも分からない。ボクの、『生きるための戦い』――。

すべての『陸』は、水底(みなぞこ)に沈んだ。透き通る蒼い海と、紺碧の空。世界の全てを二つの青が覆う時代、『アフター』。
セイラー服を着て『海の男』として生きるボクは、両親の形見・愛船パラス号で大海を渡り荷物を届ける『メッセンジャー』として暮らしていた。そんなボクに、この大海原は気兼ねなくとびきりの『不運』を与えてくる。
――『白い嵐』。
無情にも襲いかかる自然の猛威。それは、海に浮かぶ全てを破壊した。
愛船パラス号を失い、ボクが流れ着いたのは孤立無援の浮島。食糧も、水も、衣服も、何も無い。あるのは、ただただ広がる『青』。ここに、助けは来るのか、それとも――
それは、いつ終わるとも分からない。ボクの『生きるための戦い』。

 

 

2.ロストテクノロジー+セーラー服+百合

本作品、世界が海に沈んでしまった「あと」が舞台になっています。すでに大陸が失われ、海のうえで生活をし続けている。貨幣は存在しているが、地域によって異なるため、基本的には物々交換。海洋技術がなければ生きていけない。そんなサバイバルな世界観です。

 

主人公の彼女は、セーラー服をまとった、男の子(「子」は誤植ではないよ)っぽい人物。まだ少年と少女の淡いに存在していて、本来の意味での少女です。この世界では、セーラー服は、本来の意味でのセーラー服であり、男子が着るものとされています。作中では、セーラー服を着ていたがために、女に見られないという描写があり、とても感動しました。

 

 

3.ライトノベルを突き抜けて――クラインの壺

さて、本作品はライトノベルらしさを自覚的に裏切って、その内部から次へ進んでいる作品だと思いました。

 

当然ながら、「ライトノベルらしさ」というのは人それぞれでありながら、ぼんやりと一定数の人々が共有していると(されている)ものだと思うので、その中身を分析するのには、かなり骨が折れます。かくいう私だって、何がライトノベルで、ライトノベルらしいとはどういうことか分からないままなのですが、本作品、それでもライトノベル「らしさ」を、意図的に外してきていると感じました。

 

これは私がライトノベルを意識したらこうは書かないな、ということ「だけ」を根拠にしていますので、納得できないという方が、かなりおられることを承知のうえで、少しばかり駄文を並べてみようと思います。

 

まず、世界観はロストテクノロジー。言ってみれば、今の私たちの「あと」にある世界だと言っていいでしょう。二酸化炭素の排出量が増大して、南極(でしたっけ?)の氷が全部とけて、東京都は沈んじゃうんじゃないかっていうお話もありましたけれど、その延長線上で理解していいでしょう。

 

ロストテクノロジー設定の面白味の一つは、その世界で生きている人の理解や技術を「超えて」いるものがゴロゴロしていて、それが事件をきっかけに登場して、すげぇってなることだと思います。だって、ビビるじゃないですか、クレタの石板から光でてくてUFOを呼び寄せたりできたら。

 

なのですが、本作品では、そういったわくわくは排除されています。この世界で生き残るための原材料を提供している、あるいは部品の一部でしかない。そういった位置づけになっています。

 

他にも。本作品のメインとなるのは主人公と、彼女と一緒にすごす女性の2人です。その2人が、ただ海洋上を旅して、一緒にサバイバルをしていく。これって、すごくいいシチュですよね。どんなえっちなことさせようかって、私なら朝から晩まで妄想します(?)

 

だけど、この2人にはそういうことはおきません。もちろんサービスシーンはちゃんとありますし読者への配慮は抜かりなしなのですが、2人の関係は、端的に言って、近所のお姉さんと小学生、というものです。両者をつないでいる絆は、サバイバルするための頼れる他者であり、お姉さんは主人公にとって親代わりの存在です。おそらく作品のような状況になったら、こうなるだろうなっていうリアリズムに支えられています

 

あと、物語の冒頭で、主人公の旅は危機を迎えます。ずっと旅を共にしてきた存在が死に、その身体を食べることで命を繋ぎます。水分の確保のため、生きている魚の脊髄液を、そのまま飲んだり、あるいは、限界状況で人間が一週間ほどで死んでしまうのは――身体的には1ヶ月ほど維持できるはずなのに――、その絶望感に耐えられいからだという描写があったりまします。

 

ここには戯曲的要素、エンターテイメントとしての「嘘」が、ほぼありません

 

少しだけ話を脱線しますが、南極で一人で過ごしていたという人物の手記が、たしか小説として発表されていたと記憶しているのですが(タイトルも細かい部分も忘れてしまいました)、そこで気が狂わないために、一日にやるべきことを、できるだけ事細かに書き出して、そこにスケジュールを合わせるようにして、自分を保ったという話がありました。これを読んだときに、人間の本当のことをグサッとついて来る快感と恐ろしさを感じましたが、それと同じ鋭さが、本作品にはあります。

 

もっと有名なものでいえば、ロビンソン・クルーソーのお話。これはエンターテイメント作品として読まれていますが、よく読み込めば、かなりのことを言いきっています。無人島で足跡を発見するのですが、それが自分のものなのか他人のものなのか分からない。まったく他人がいない空間では、そんな単純なことにも疑いの気持ちが生まれ、それに呑みこまれ、まったく根拠のないところを進んでいかなければならない。

 

そういった首筋に刃物をぴとりと当てられるような、そんな怖さ=魅力があります。

 

主人公以外にも登場人物は、一癖もふた癖もある。誰もがサバイバルとしての哲学を持っていて、だけど可愛げがあるかといえば、必ずしもそうではない。正直、ちょっとお友達にはなれないなという人たちがいっぱいいる。これもライトノベルっぽくないと言えるような気がします。

 

ヨットで一人旅。あるいはバックパッカーとして世界一周の旅。そんな命が失われるかどうか分からない状況を生きて、それを小説にすると、きっとこうなるのではないか。もしかしたら本作品はルポルタージュの変奏曲なのではないか。そう思いました。

 

すでに2・3巻と続きが出されるようで、このルポルタージュがどこへ向かうのか。一読者として、大変興味をかき立てられました

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります。

天久鷹央の推理カルテ (新潮文庫nex)

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