ライトノベルは斜め上から(35)――『ねこシス』

こんばんは、じんたねです。

最近は酒断ちを続けていますが、辛い……指先が震えてくる。

 

さて、本日のお題はコチラ!

ねこシス (電撃文庫)

ねこシス (電撃文庫)

 

 

 

 

解題――ライトノベル「を」書くのか、ライトノベル「で」書くのか

 

 

1.作品概要

人間に憧れる猫又姉妹の三女・美緒は、14歳にして、ようやく人間の姿に化けられるようになった。そのまま人間として生きていくかどうかは、まずは人間世界を体験してから決めろ―長姉にそう命じられた美緒は、人間を理解するために、七日七晩、人間の姿で過ごすことになる。慣れない二足歩行をはじめとして、人間の言葉、人間のお風呂、人間の友達、人間の恋愛―何もかもが初体験の美緒は戸惑うばかりで…!?『人間嫌い』の長女・かぐら。『人間の文化に傾倒』する次女・千夜子。『人間が大好き』な四女・鈴。そして『人間になったばかり』の三女・美緒。柄も性格もてんでバラバラな四姉妹が繰り広げる、ネコ耳ホームコメディ。

 

 

2.ほのぼの和風ファンタジー

作品概要をご覧になれば分かるように、本作品は、猫又たちが主人公。どれもが美少女であり、ほんのりと笑いあり涙ありの、まさにホームコメディとして1冊完結しています

 

シリアスすぎる展開もなければ、どぎついラブコメもない。異能バトルがあるわけでもなければ、異世界設定が顔を出しているわけでもない。最初から最後まで、ゆっくりとした温かい気持ちになれるストーリーで満ちています

 

人間に化けることのできるようになった美緒ちゃんは、そりゃあもう可愛い。俗にいう猫耳としっぽというキャラクター記号をしているのですが、そこかしこのドジな様子が、ほっこりさせること間違いなし。

 

ケモ耳属性がお好きな方はもちろんのこと、そうでないひとも、あるいはネコ好きのひともイヌ好きのひとも、その可愛らしさに参ってしまう。かんざきひろさんのイラストがまた、素晴らしい・・・!

 

 

3.サブカルチャーへの愛

さて、本作品。そんなほのぼの路線をひた走っているのですが、プロットに対して不釣合いな分量で記述されているシーンやセリフが散見されます。ちょっと引用してみましょう。

 

 雑然とした部屋だ。フローリングには各種フィギュアやプラモが散乱し、壁や襖のあちこちに映画やアニメのポスターが貼られている。/ベッドはなく、代わりに巨大なクローゼットと本棚がかなりのスペースを占領していた。/幅広のパソコンデスクには、PCの他、最新ゲーム機が繋がった24インチ液晶テレビが乗っている。/PCのディスプレイでは18禁乙女ゲームスクリーンセーバーが作動中。(136ページ)

 

・・・・・・高坂桐乃じゃん。

 

と思ったひとは、たぶん、その通りなのだと思います。こんなに妹に似ているはずがない設定が、ちらほらと見え隠れしています。

 

俺妹と設定被りだどうだ、という下品な話をしているのではなくてですね、このサブカルチャーにキャラが接しているシーンや、こういった描写は、とても活き活きとしているんです。

 

作者の文体は――思いのほかというのは失礼なのかもしれませんが――堅いものです。ひらがなの漢字への変換率は高く、「見逃す」が「看過」へと置き換えられるような二字熟語も多く、3人キャラクターが登場すれば、必ず、3人ともに発言と行動を与えて、位置関係を示すような、律儀な書き方がされています。

 

そういった文体を採用すれば、勢い、分量が増えがちになります。説明が丁寧になればなるほど、ストーリーの進む速度は遅くもなります。当たり前ですよね、丁寧にたくさん書くのですから。

 

なので本作品は、丁寧に書くスタイルを自覚しつつ、禁欲的に分量を抑えようとしているように、私には見えました。かさばらないよう、それでいて丁寧に分かるように。綱渡りをするような緊張感がある。

 

なんですが、なんです。

 

サブカルチャーに話が及ぶと、もう筆が走るわ走るわ。こちらも活字を追いかけながら「いいぞもっとやって! 素敵!」と声援を送りたくなるくらい。

 

「ああ、作者は、本当にライトノベルが好きなんだなぁ」と、その愛をひしひしと感じられます。

 

 

4.ライトノベル「を」書いている

さてさて。本ブログの解題にもなっている話題に入ります。

 

作者はライトノベルを愛している。私はそう感じます。だから、作者が書こうとしているものは、まぎれもなくライトノベルらしいライトノベル。「じんたね、お前の言動は、最近おかしいぞ」というツッコミはちょっと待ってください。おかしいのは元からですし、言いたいところは、もうちょっと先にあるんです・・・。

 

ライトノベルを書く理由も目的も千差万別。そのモチベーションも辞める理由もまた千差万別。ここで一般論を主張するつもりはないと、まずは前置きさせてください。

 

で、ライトノベルを書くとき、二つの分け方があるように思います。まず最初はライトノベル「を」書きたい。好きな作品があった、感銘を受けたライトノベルがある。だから私も、そんなライトノベルを書きたい。典型的なモチベーションの1つだろうと思います。本作品、そういったライトノベル「を」書きたいんだという情熱がこもっていました。

 

そしてもう一つですが、ライトノベル「で」書きたいというもの。これはまず書きたいこと言いたいことがあって、それを表現する手段としてライトノベルを選ぶというものです。多くの人に読まれる。あるいは若い人に手にとってもらえる。そういうモチベーションです。極端に言ってしまえば、言いたいことを言えれば、ライトノベルでなくてもいいという立場です。

 

何度も、但し書きをしないといけないのですが、両者は必ずしも明確に区分されるわけではないですし、この2つの極をとるとも限りません。ライトノベルの面白さを表現したいと思えば、それは「を」でもありますし「で」でもあり得ます。どちらか一方だけ、というのはあまり現実的ではないでしょう。話を整理するための『見立て』だと思って読んでください。

 

ライトノベル「を」書きたい場合、その書き手にとっての評価は、その再現性にあります。自分が感動したようなライトノベルに――それが思い出補正の産物であろうとなかろうと――どれだけ近づいたのか。

 

反対に、ライトノベル「で」書きたい場合、それは言いたいことにどれだけ近づいたのか、になります。言いたいことを正確に、表現豊かに、誤解なく、伝わるように書けたのかどうか。

 

 

5.「で」と「を」

本作品、文体は堅めであると述べました。それはどちらかといえば「で」で書くほうに向いていることが多い。丁寧で言葉を埋める書き方は、誤解が生じにくく、言いたいことを伝えられるから。

 

そして本作品のベクトルは「を」に向いている。特定の主義主張哲学、というよりは、サブカルチャーを、その楽しさを再現しようとしている。

 

本作品の最大の面白味だと、私が考えているのは、ライトノベル「を」書きたいという情熱が、ライトノベル「で」書きたいという文体に収まっていて(実は収まっていないところもあって)、両者のギャップが「にゃーん! 好き!」って興奮させるからだと思います。

 

この「にゃーん!」って感覚、ここ30分、パソコンの前で、どうにか言い換えようと頑張ってみたのですが、上手い言葉が見つからない。とにかく「にゃーん!」ってなります。猫耳いいよね、まじで。

 

個人的には俺妹よりも、本作品のほうが好きだったりします。

もう「にゃーん!」だから読んで!

(文責:じんたね)

 

次回はコチラを予定しております。