ライトノベルは斜め上から(20)――『ノーゲーム・ノーライフ』
こんばんは、じんたねです。
最近睡眠不足です。ぐぅぐぅ。
さて、本日のお題はコチラになります!
ノーゲーム・ノーライフ 1 ゲーマー兄妹がファンタジー世界を征服するそうです<ノーゲーム・ノーライフ> (MF文庫J)
- 作者: 榎宮祐
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / メディアファクトリー
- 発売日: 2012/09/01
- メディア: Kindle版
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解題――なぜ私たちはゲームのルールに従わなければならないのか
1.作品概要
ニートでヒキコモリ、だがネット上では都市伝説とまで囁かれる天才ゲーマー兄妹・空と白。世界を「クソゲー」と呼ぶそんな二人は、ある日“神”を名乗る少年に異世界へと召喚される。そこは神により戦争が禁じられ、“全てがゲームで決まる”世界だった―そう、国境線さえも。他種族に追い詰められ、最後の都市を残すのみの『人類種』。空と白、二人のダメ人間兄妹は、異世界では『人類の救世主』となりえるのか?―“さぁ、ゲームをはじめよう”。
2.ゲームが支配する世界
本作品のコンセプトは、何といっても、反転したゲーム万能主義にあります。まるで桂木桂馬のように、現実世界という「クソゲー」を否定し、すべてがゲームで決まってしまう異世界へゲーマーの主人公たちが召喚され、そこでカタルシスを得るという流れになっています。
(言うまでもないことですが、現実ではゲームよりも現実が圧倒的に意味を持ちます。ゲームが強いよりも、現実が強いほうが、生き残れるからです。とはいえ、ここは詰めて考えると、本当はそうでもないのですが、この論点についてはあとで触れます)
しかし、ゲームが支配するとはどういうことでしょうか。あらためて考えてみると、これはなかなかに奇妙な状態です。少し、本文を引用しましょう。以下の文は、異世界の神様が決めた決まり事で、それは絶対に順守しなければならないとされているものです。
【一つ】この世界におけるあらゆる殺傷、戦争、略奪を禁ずる
【二つ】争いは全てゲームによる勝敗で解決するものとする
【三つ】ゲームには、相互が対等と判断したものを賭けて行われる
【四つ】”三”に反しない限り、ゲーム内容、掛けるもおんは一切を問わない
【五つ】ゲーム内容は、挑まれたほうが決定権を有する
【六つ】”盟約に誓って”行われた賭けは、絶対順守される
【七つ】集団における争いは、全件代理者をたてるものとする
【八つ】ゲーム中の不正発覚は、敗北とみなす
【九つ】以上をもって神の名のもと絶対不変のルールとする
【十】『みんななかよくプレイしましょう』(66-67ページ)
世の中で起きることすべて、やりたいこともすべて、ゲームによって決めることができるということです。ゲームという言葉は色々な意味を持っていますが――サッカー・チェス・ソリティア・折り紙・しりとり・ストリートファイトなども「ゲーム」と呼べます――ここでは、おおむね一対一で勝敗のつくものという前提があります。
そのゲームに万能のちからを持たせるのが、神様。全知全能の神が、そういう風に世の中を作ったから。それに逆らうことができない。【六つ】の規約にあるように、その力は人間の心情にまで及びます。作中で、ゲームに負けた女の子は、主人公に「惚れろ」と命令され、実際に惚れてしまうほどです。
3.閉鎖系としてのゲーム
このように世界観を記述すると、主人公たちの天才さを描き出すことが、課題になります。なぜなら彼・彼女は強くなければならないから。
しかし考えても見てください。あらゆる手が読め、記憶力や思考力において常人を逸している主人公たちに、どうやってライバルが登場し得るのか。もうレベル99でカンスト状態な勇者に、どこのモンスターが立ち向かえるのか。
――チェスは『二人零話有限確定情報ゲーム』である。
『運』という、偶然が差し挟む余地のないこのゲームにおいて。
理論上、必勝法は明確に存在するが、それはあくまで理論の話。
(中略)
つまり十の百二十乗の盤面を読めればいいだけの話と断言し。
事実世界最高のチェスプログラム相手に二十連勝した。(27ページ)
勝てませんよね。そう、勝てないんです。チェスのルールに従っているかぎりは。
別の話をしておきましょう。とあるシーンで、異世界の言語を学ぶのですが、そこでの主人公の言葉は、こうあります。
「別に驚くことじゃないだろ。こうして喋れる程度には[日本語も異世界の言語も:じんたね注]文法も単語も全く同じなんだ。だったら文字さえ覚えれば終わりだろ」(130ページ)
日本語に似ているのだがら、辞書に乗っている言葉をすべて暗記すれば、それで言葉のルールがわかる、というのは現実を反映してはいません。現実の言語は、日々日日、その使用ルールを含めて、減ったり増えたり変化したりしているからです。辞書は目安でしかなく、つねにすでに使い物にならない箇所があるのが、辞書の宿命だから。いわば言語は開放系なんですね。
だから作者の設定がどうたらこうたら――という話をしたいんじゃないんです。
主人公の天才的な頭脳をアピールする台詞として、さらっと語られていますが、私にはそうは読めない。いや、作者のゲーム観が気になってしまう。
冒頭の説明とあわせると、本作品におけるゲームとは、閉鎖系を基本にしています。つまり、ルールによって取れる手段が、すべてあらかじめ決定されており、その中から選択肢を選ぶ。そしてほぼ無限ともいえる手数のなかから最善のものを見つけ、勝利を勝ち取る。これが本作品におけるゲームの意味でしょう。
もっと言い換えれば、ルールはプレイ中、変化しない。これが大前提です。ここも現実/ゲームという図式の好対照でしょう。現実というゲームは、ルールが無数にあり、それらのどれかに従っていればよいというものでもないし、そもそもルールがあるのかどうかすら分からないのですから。
閉鎖系のゲームにおいて、すべてを把握できる主人公。プレイ中にしかもルールが変化しないのであれば、彼らは負けません。
これはライトノベルを書くうえで、かなり厳しい設定です。なぜならライバルや敵を出せない。どうやっても主人公が勝利するゲームを、どうして面白いと感じることができるでしょうか。それは法則であってルールではない。
だから、当然、そうはなりません。
本作品、偶発的で奇妙なねじれ――あるいは必然的な正しい調和――を迎えます。
4.開放系のルール:メタルール
1巻のクライマックスですが、主人公たちは敵をチェスでやっつけます。敵はいわゆる異能を使い、主人公たちを苦しめます。駒が例外的にルールによらず動いたり、あるいは動かなければならないという盤上ゲームの暗黙的ルールに従わなかったり。もちろん、最終的にはその異能を逆手にとって、主人公たちは勝利します。
ここでねじれました。どういうことか。
チェスのルールが変わったんです。チェスが閉鎖系ではなく開放性に変化したんですね、プレイ中に。そうしなければ敵は、主人公と対等に勝負することすらできないのですから。ルールを変えてくるのは、もはや必然と言っていい。
チェスというゲームのマウントポジションをとる、新しいチェスのルールを設定して、勝負したんです。私が小学生のころ、男の子同士が、こんなごっこ遊びをしていました。
「俺の剣、お前の絶対バリアー壊すー」
「はい、『お前の絶対バリアー壊すー、俺の剣』、絶対防ぐー」
「『『お前の絶対バリアー壊すー、俺の剣』、絶対防ぐー』バリアー、俺の剣は壊すー」
「『『『お前の絶対バリアー壊すー、俺の剣』、絶対防ぐー』バリアー、俺の剣は壊すー』の、絶対バリアーするー」
当時はバカだなぁ男子って思っていましたけれど、これ、ゲームをめぐる人間のありようを、よく表していたんですね、今にして思えば。つまりゲーム内で勝てない場合、ゲームの外にたって、言い換えればメタゲームのルールを設定しなおして、元々のゲームを無効にしてしまおうとするんです。ジャンケンに勝てないとき、「あと出しジャンケン」というメタルールを持ち込んで、それに勝とうとするメンタリティと一緒。
ここまできて、違和感を感じませんか?
メタルールの設定って、ルール違反と何が違うのって。そうなんです、そこがクリティカルポイント。原理的にそれは区別できないんです。不利になる側が「ゲーム違反」を主張し、有利になる方が「メタルール」の有効性を主張する。まったく公平な立場にたつとすれば、メタルールとルール違反は、見分けがつかない。
極端な話、オセロで負けそうになって、面も裏も白いコマを置いたって、それがありかどうかは、区別できないはずなんです。少なくとも、本作品のラストで展開されるバトルは、どっちも白いコマに等しい手段が用いられていました。
【八つ】ゲーム中の不正発覚は、敗北とみなす――この規定にもかかわらず、いや、この規定があるからこそ、メタルールの設定というバトルが、スリリングであるのです。
5.神様すら抗えない
話は、ゲームのプレイヤーにとどまりません。このメタルール設定のバトル、当の10個の決まり事にすら及ぶことが示唆されています。神様はなかなかに味のあるキャラなのですが、主人公に、こんな台詞を言わせています。
「……なるほど。唯一神の座さえ、ゲームで決まるってことか」(260ページ)
これはおかしい。すべてをゲームで決定できる世界を創造したのは、他ならない神様本人。その当人(人でいいのかな・・・)がその座から引きずり降ろされてしまっては、ゲームに従う謂れなど消え失せてしまうはず。「【九つ】以上をもって神の名のもと絶対不変のルールとする」はず。なのに、ここでは大胆にも、それすらもゲームによって決まるというメタルールが設定されているのです。
何度もいいますが、これは作者の世界観がうんたらかんたら、という話ではない。むしろその逆で、作者のゲームに対する洞察が、しっかりと私たちの本質をえぐっているからこそ、このような記述が可能なのです。
ここまでくれば、説明は簡単です。
ゲームのルールを絶対のものとする神様ですら、メタルール設定バトルに巻き込まれ、その絶対の効力を担保できない・・・はずなのに、ゲームのルールには従わなければならないプレイが行われている。きっと物語終盤では、メタルールに継ぐメタルールの設定が繰り広げられ、まるで目眩のするような書き換えのスピードが、心地良い疾走感をもたらしていることでしょう(まだ1巻しか読んでない・・・)。
どうしてゲームのルールに従わなければならないのか――とにかくそうだから。
根拠や神の威力なんて、そもそもないんです。ゲームがあり、ルールがある。だから私たちは従ったり、あえてルール違反スレスレのことをしたり、都合が悪ければメタルールを決めたりする。それが私たちの現実であり、日常なんです。ルールが決まっているからゲームをするのではない。とにかくゲームで遊んでしまうことから、ルールが可視化されてくるにすぎない。私たちのルールを支えているのは、それを楽しむという、実践の一致にほかならないんです。「みんななかよくプレイしましょう」という10番目の言葉は、かくも意味深長です。
どうですか。ねじれているでしょう。
現実という「クソゲー」を否定してまで異世界に飛び込んだのに、そこに待っていたのは、私たちの現実そのもの。ゲームをなかよくプレイするという実践があるからこそ、ルールが意味を持つのだから。これ以上の現実はありえない。
きっと物語は、主人公が現実に帰るという帰結になる。だってそれがゲームなのだから。
6.最後に
本作品のタイトル『ノーゲーム・ノーライフ』。おそらく一般的には、ゲーマーだからゲームがないと生きていけない、そんな人生なんか「クソゲー」だという風に解釈できますし、おそらくそれが正しい解釈になるでしょう。
でもここまで読んできた(そしてついてきた)方なら、その別の意味に気付くはず。
みんななかよくプレイしましょう、という現実の暗黙がなければ、私たちはゲームをできない。本当は、ゲームのルールだけでは何も決定できない。メタルールとルール違反を区別し、その都度トラブったりしながら、何とかゲームを楽しもうとする現実の態度があってこそ、ゲームは成立する。つまり「ノーライフ・ノーゲーム」が、本作品の、隠れたテーマなのです。
ゲームと現実との、ダイナミックで疾走感のある往還運動。本作品を読んで、その興奮を感じて欲しいと思います。
(文責:じんたね)
次回作はコチラです!