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ライトノベルは斜め上から(17)――『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』

ライトノベルは斜め上から

こんばんは、じんたねです。

本日はコチラの作品になります。

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか (GA文庫)

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか (GA文庫)

 

 

解題――ヘスティアの紐に縛られた性倒錯

 

 

1.作品紹介

大森藤ノ×ヤスダスズヒトのコンビが贈る

GA文庫大賞初の《大賞》受賞作、ここに開幕!!

 

迷宮都市オラリオ──『ダンジョン』と通称される壮大な地下迷宮を保有する巨大都市。

未知という名の興奮、輝かしい栄誉、そして可愛い女の子とのロマンス。

人の夢と欲望全てが息を潜めるこの場所で、少年は一人の小さな「神様」に出会った。

「よし、ベル君、付いてくるんだ! 【ファミリア】入団の儀式をやるぞ! 」

「はいっ! 僕は強くなります! 」

どの【ファミリア】にも門前払いだった冒険者志望の少年と、

構成員ゼロの神様が果たした運命の出会い。

 

これは、少年が歩み、女神が記す、

── 【眷族の物語(ファミリア・ミィス)】──

 

 

2.主人公ベルは出会いを求めない

本作品の主人公は、ベル・クラネル。いわゆる冴えない系男子であり、異世界の駆け出しの冒険者をしています。そしてヒロイン役として登場するのが、かの「紐」で有名な、ヘスティア。この世界においては神様であり、主人公のベルと契約を結んでいるという設定です。

 

そんな作品の冒頭は、次の言葉で始まります。

 

ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか?

(中略)

ダンジョンに出会いを、訂正、ハーレムを求めるのは間違っているだろうか?(4ページ)

 

 

作品において、たしかにベルは周囲の女性たちから、正当な理由なくチヤホヤされます。見た目の可愛らしさというのはポイントとして挙げられるでしょうが、それ以外にモテる理由はありません。

 

さて、ここまで説明すると、さぞかしチーレムな設定で、男性読者の欲望に答えてくれる作風なのだろうと思わせますが、実のところまったくそうではない。いや、違う方法論においては欲望に忠実ではあるけれど、あの冒頭の文章に示唆される展開はまったくありません。

 

だってベル君、草食系男子なのです。女性を見つけてがっつくこともないし、とある女剣士に淡い恋心を抱くような、ナイーブなメンタリティの持ち主です。何気にいろんな女性からモテたりしますが、そのアプローチに気付くこともなければ、「ロリ巨乳」の僕っ子・ヘスティアとの同居中、けっこう露骨に迫られても、まったく無頓着。それどころか、女性が多いという理由だけで、とある酒場に入ることをためらったりするほど、チキンな性格をしてすらいます。

 

アニメや一般的な印象とは異なり、本作品の主軸は、ハーレム設定にはない。むしろそのプロットはビルドゥングス・ロマーン、すなわち青少年の成長物語をなぞっています。その意味において、少年の成長物語という、きわめて王道で古典的な作品としても読めるものになっています。

 

 

3.塗りこめられた欲望

ハーレム設定に主軸がないからといって、ハーレム要素がないがしろにされているということでは、まったくもってありません。むしろ、その逆です。本作品には、徹底したハーレムに対する欲望が塗りこめられています。その密度は、すぐにパンツを見せたり、おっぱいを揉ませたりするヒロインとは、比較にならないほど。もはや業(ごう)に近い純度の塊が、そこにはあります。

 

男性が興奮する女性として、立場が下の存在であったり(たとえば同僚よりも部下)、能力的に優位を感じたり、などがあると言われています。たしかにそういった女性を配置する娯楽作品は、数多いように思います。

 

この仮定を受け入れるとして、本作品は、見事にその逆になっています。すなわち、ベル君が下の存在であり、能力的にも劣っていたり、ということです。

 

ヘスティアは人間程度の能力しかないとはいえ、神様ですし、人間のいる世界を離れれば神様としての力を振るうことができます。いわばヘスティアのヒモ状態なんですね、ベル君。そして能力的にもベル君は非常に低い。駆け出しのペーペーということもありますが、生来の臆病な性格もあって、全然強くない。

 

この男女の逆転は、実は、こういう風に解釈できる。つまり男性が興奮する女性像というのは、そのままではぶつけにくい。どこかに疚しさや引け目を伴ってしまうから。

 

だからどうにかして、そういったマイナスの感情をチャラにして、女性を支配したいという欲望を実現できないか。そう考えて男性性と女性性をひっくり返したかたちが、まさにこの作品のスタイルになってるのです。

 

もちろん。ここで述べていることは、よく指摘されることです。俗にいう性倒錯ですね。これは一見すると変わった現象のように見えますけれど、実に、ありふれています。たとえばセーラー服。セーラー服はセーラー、すなわち水兵、すなわち男性の衣服だったんですね。それをわざわざ女性に着させることで、JKとして興奮の対象となる

 

やや無理な解釈をすれば、女子高生に日本刀や、女子高生にメカ、というお約束もまた、無骨な男性イメージのものを女性に背負わせ、「これは男性だから大丈夫」だというエクスキューズを獲得していることになります。昔、獣の肉食禁止だったお坊さんが、鳥なら食べられるので「兎」を鳥類だと言い張るために「羽」と数えるようになった、という話もイメージ的には似ているかもしれません。

 

ベル君は、こうして無力なままであり続け、かつ女性の下に位置することによって、その欲望を読者に提供していると考えられます。

 

 

4.成長の禁止、あるいは女性性

ベル君の担っている役割を理解できれば、彼が必然的に成長することが許されない存在であることも同時に見えてきます。

 

もちろん、作中でベル君は主人公らしく劇的な成長をとげます。そのために、他の冒険者から馬鹿にされ、その悔しさをばねにするというシーンもあるくらいです。「じゃあ成長することが許されないなんて嘘じゃん」と思われるかもしれませんが、そうじゃないんです。

 

まず、悔しさをばねにするシーンから触れましょう。ベル君は馬鹿にされ、傷つき、モンスターのでるダンジョンに入って、自暴自棄のまま戦闘を繰り返します。そうして命からがら、ヘスティアのもとに帰ってくる。

 

きっとヘスティアとの和解は難しいまま、どんどん孤独やこじらせを進めて、ベル君は成長しつつ孤独になっていくんだろうなぁ、なんて思っていたらそうじゃなかった。彼はあっさり、ヘスティアの心配する言葉に応え、もう無理しないと約束します。しかもその後はコツコツと経験値を蓄積していく。

 

これは、読みようによってはヘスティアによって急成長を止められたとも解釈できませんか。放っておけば、彼は荒みつつも、誰よりも強くなれたはずなのに。女性性、あるいは母性と言っても間違いではないかもしれない心地よい受容によって、彼は丸くなるのだから。

 

別の角度からも話をします。ベル君のレベルアップは、契約を結んだヘスティアの手によらなければできない設定になっています。経験値という可視化されたデータがあるのであれば、ヘスティアを経由せずともベル君は、ダンジョンで戦闘を繰り返せば強くなれます。だけどそうはならない。常に、ヘスティアの認可がなければ、彼は強くなれないんです。

 

まだあります。ヘスティアはベル君専用の武器を与えますが、それもまた戦うことは私の許可によって可能になるという関係を示唆していると言えるでしょう。

 

もうお分かりだと思います。ベル君は、ヘスティアの加護という名の支配下に置かれているのです。だからこそ、彼女が認めなければ成長できないし、それをつっぱねるような尖がった性格もない。裏を返せば、ヘスティアという母親さえいれば、彼は成長しなくてもいい。ずっと甘えることができる。

 

主人公の内面描写が多く、それが独特の魅力になっている本作品ですが、男女の倒錯という点において、驚くほど彼は悩みません。それもまたベルという役割が担う、役割だといえます。

 

繰り返しますが、これは何も、ベル君が作中で成長しないと言っているのではありません。先に指摘した、女性への欲望を隠すための性倒錯関係、それを覆すような成長があり得ない、と言っています。

 

思えば、ヘスティアは自分のことを「僕」と形容します。これもまた男女の倒錯という意味で見れば、ひどく意味深長でしょう。「僕」という一人称は、男性が使うものなのですから。

 

5.抑圧の開放

本作品は、本当にすごい。私はこんなの書けないかもしれないと思いました。それくらい男女の性倒錯というモチーフが徹底していたからです。

 

これはあくまで個人的感想ですが、小説を書くということはインプットした情報を処理してアウトプットする、ということでは「全然」ありませんそんなことをしてもコピー&ペーストの域を抜け出ないからです。コピー&ペーストを読ませたいと思うことは私にはできません。

 

じゃあどうするのか。書くということは無意識の抑圧の開放であり、同時に、解放されたはずの無意識を再び抑圧するというプロセスで、七転八倒することだと思っています。

 

書くという行為自体、極めて抑圧的です。素晴らしい風景をみた。そのことを文字にする。ここには強烈な断念があるはずです。その素晴らしい風景それ自体は、文字でも何でもない。文字にした途端、すぐに嘘になってしまう。だから、強烈な無意識や原体験それ自体を言葉にすることは、すでにしてそれを抑圧し裏切っている。

 

で、書き続けていると、その抑圧も板についてきます。慣れた言い回しや癖で、抑圧のスタイルが固定化してくるんですね、私の場合。そうなってくると、もはやそれは使い古された原体験でしかなく、縮小再生産になってしまう。

 

だから、これまでとは違った方法で、自分の無意識を解放し、別の抑圧方法を身につけていくことが必要になってくる。新しいものを書き続けるということは、おおむね、その繰り返しだと考えています。

 

前置きが長くなりました。本作品です。こちらは性倒錯の徹底したやり方が、無意識へ通じるフタをぺかっと開けている。本当であれば理性のブレーキが働いてしまい、そこまで深く潜ることが困難なはずなのに。それをサラッと活字にして見せてしまう

 

・・・すごい。

 

これが最初の読後感でした。ここまであけすけには、中々できないからです。どう思われるだろう、自分の内面は恥ずかしい。そんな防衛機制が働いてしまうから。なのに、そんな自意識もなんのその。作者さんは、深いところから無意識を引っ張り出し、作品へと昇華してしまう。

 

 

6.ダンジョン「に」出会いを求めるのは間違っている

最後に。本作品のタイトルの秀逸さについて。冒頭ではダンジョンに出会いを求めるのは間違っているのか、いや、間違っていない、という展開がありました。

 

これまでの話を踏まえると、このタイトルは別様に見えてきます。

 

そう、ダンジョン「に」出会いを求めなくたって、もうすでに出会っている。出会いどころか倒錯的な関係すら築いてしまっている。だから今さら出会いを求める必要なんてない。そう解釈できてしまいます。

 

アニメ化で注目されて本当によかった。もっと読まれて、その業を味わってほしい。心からそう思える快作です。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作は(ライトノベルじゃないかもしれないけれど)コチラになります。

 

ナ・バ・テア

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