ライトノベルは斜め上から(1)――『コートボニー教授の永続魔石』

こんばんは、じんたねです。

本日より不定期連載企画「ライトノベルは斜め上から」と題して、自分が読んだライトノベルについて感想を書こうと思います。

 ちょっぴり変わった読み方をして、ライトノベルを2度、3度と読み直しながら楽しむのもアリではないかという目論見のもと、本企画は生まれました。

 

作品の選は、まったくのランダムで、発表の場や媒体を選びません。じんたねが普段読んでいるものが中心になります。

 

さて、記念すべき第1回「ライトノベルは斜め上から」で扱う作品は、これです。

 

桜山うす(著)・フルーツパンチ(イラスト)『コートボニー教授の永続魔石』(オーバーラップ文庫、2015年)

 

 

コートボニー教授の永続魔石 (オーバーラップ文庫)

コートボニー教授の永続魔石 (オーバーラップ文庫)

 

  

『コートボニー教授の永続魔石』解題――大量複製時代において職人は、アウラをいかにして彫琢することができるのか

 
1.作品概要

 

 ――魔法学会の革命児、現る。

 

 「よろしい。さっそく設計してみせるのだ、スービ・キュージット」

 冒険に欠かせないアイテム収納ボックス、全方位カメラ、空を飛ぶ船――これらの発明をたった1人で成し遂げる男がいたとしたら?

 彼こそスービ・キュージット。大学10年生、憲兵局の法改正を強いた回数4回、異常なネコミミ偏愛者にして、魔法学界の奇跡。

 そんな彼はある日、100年先の技術を持つコートボニー教授と出会う。

 スービは魔力の永久機関といわれる“永続魔石”を彼女と共に探すことになるのだが――。

 これは大発明家の若き日の物語。

 

 第1回オーバーラップ文庫大賞“金賞"受賞作、ついに登場!(作品紹介より)

 

2.職人気質の主人公

 作品概要にあるように、本作品は異世界ファンタジーです。主人公はスービ・キュージット。人物紹介からも察せられるように、活発な俺TUEEEEE系ではなく、自分で言っているように「インドア派」。自室に閉じこもり、ひたすら魔力のこもった石を加工する作業に明け暮れています。作品内では「魔工機職人」という位置づけ。一夜が明けたことにも気づかないほど作業に没頭し、「恋人」との関係は悪化するなど、あまり器用な性格でないことが伺えます。

 物語の中盤でも、金儲けではなく魔工機作りをしたい一心で、自分を慕ってくれている猫耳メイドとの共同生活を捨てます(なんてもったいないことをするんだよ!)。

 

3.幼女でもふもふで中身オッサンで「である」口調のオレっ子娘ヒロイン

 ふとしたことがきっかけで、彼はヒロインと出会います。彼女の名前はコートボニー。もういろんな属性を詰めに詰めているので、設定反則過ぎるだろ! とツッコミを入れずにはおれません。

 彼女は大学教授という知と権威のシンボルであるだけではなく、土魔法を駆使できる能力を持ち、スービが苦労して作り上げた魔工機を、ほんの1分程度で再現してしまうことすらできます。しかもそれは40年も昔に考案されたものであり、すでに「職人」などお払い箱になったと思っていたと言ってのけます。

 そして彼女は、魔力が尽きることのない“永続魔石”を探し求めて、主人公との冒険に乗り出します。

 

4.不思議な共存

 主人公は、寝ても覚めても魔工機作りのことしか頭にない。ややこじれた「恋人」との関係をどうにかしようとはせず、魔工機を愛してやまない。

 ヒロインは、モノづくりにかけては、主人公では太刀打ちできない能力を持ちながら、自由奔放に己の興味の赴くまま思索・行動する。

 

 ここに大量複製時代と職人の時代との、対比を感じずにはおれません。

 

 主人公は典型的な職人タイプ。モノづくりに徹底的にこだわり、自分の納得を最優先します。反対にヒロインは、いとも簡単にそれをコピーし、同じものを作ってしまう。もし“永続魔石”が手に入れば、コピーは無尽蔵にできます(逆から言えば、“永続魔石”が手に入っていないからこそ、大量コピーの技術が広まっていない)。しかも職人レベルのクオリティを伴って。そうなれば主人公の存在意義が失われてしまうはずなのに、彼は、コートボニー教授と一緒になって“永続魔石”を探すことになります。

 ヒロインさえいれば、魔工機作りに関して主人公は、歯が立ちません。不要とすら言えます。実際、作中でもヒロインに教えを乞う場面があるくらいです。

 

5.アウラ

 「モノづくりが、そんな簡単なことでいいのか」――という問いかけが、作品の隠れた主題になっている。私はそう睨んでいます。主人公には、そんなヒロインを前にしても、存在意義があるのだ。そう訴えているように見えます。

 ここで『複製技術時代の芸術』を著した、ヴァルター・ベンヤミンの考えを下敷きにしましょう。

 ベンヤミンは複製技術の発達によって、芸術作品から失われるものがあると指摘します。それはコピーにはない、オリジナルにだけ宿る「アウラだと。アウラは、英語の「オーラ」にあたります。本物にしかない迫力、あるいは生演奏の「ライブ感」とでも言えばいいのでしょうか。そういうものです。

 ただしベンヤミンが――逆説的にも――コピーとオリジナルのクオリティを峻別できなかったからこそ、アウラという「目に見えない」ものに訴えたことは追記しておきます。

 

 さてここで、ヒロインであるコートボニー教授の台詞が、意味深長です。

 

「先月、この土地に来たとき、オレ[コートボニー教授:引用者注]は……ひとつ感動したことがあったのだ」

「なんすか?」

「お前たちは『物を大切に使う』ということだ」(126ページ)

 

物を大切に使うということは、それが長持ちするように利用することを意味し、長持ちさせるためには手入れや愛情が必要であり、それはかけがえのない物にこそ向けられます。つまり、いつでもコピーができるという発想では、オリジナルを大切に扱うことはできない、と複製技術のシンボルであるコートボニー教授が言っているのです。

 

「魔工機が壊れても、魔工機が生まれても、同じ永続魔石を付けて、何度でも使い続けるのである。やがて生まれてくる子供や、孫や、その子孫たちもオレから受け継いだ永続魔石を使うのだ。そうなればきっと、素晴らしいことではないのかと思ったのだ」(128ページ)

 

そして、そんな風に物を扱える主人公が、ヒロインは羨ましい。だからこそ永続魔石を手に入れて『物を大切に使う』ということをしたい。そう言っています。

 作者の進んでいる方向は、一目瞭然でしょう。

現代の大量消費にあてはめて考えれば、コピーには資源が必要であり、その資源は有限である。コピーにはアウラがない。

 

肝心の結論ですが、それは作品を最後まで読めば分かるようになっています。すでに読まれた方はもう一度。まだ読まれていないかたは、是非、手に取ってみてはいかがでしょうか。

(文責:じんたね)

 

追記:次回は、三萩せんや(著)・伍長(イラスト)『たま高社交ダンス部へようこそ』(角川スニーカー文庫、2015)を扱う予定です。