ライトノベルは斜め上から(47)――『銀糸の魔法式』
おこんばんは、じんたねです。
寝ても寝なくても、元気!
さて、本日はコチラになります!
解題――ヒロインを好きになるには
1.作品紹介
「あなたが私の保護者になればいいじゃない!」
アパートの管理を任されている秋月孝平は、ある日、銀髪碧眼の美少女・クレアと出会う。クレアは自分を【魔法使いの実習生】だと言い、半ば強引に孝平を保護者にてしまう。お嬢様育ちのクレアは、食事を用意させ、部屋を追いやり、夜間は侵入防止トラップを仕掛ける。そんな奇妙な共同生活が始まった矢先――一般人が魔法使いに襲われると言う事件を発端に、孝平は次々と魔法の絡んだ出来事に巻き込まれていく――第1回講談社ラノベチャレンジカップ≪佳作≫受賞作。
2.ヒロインを囲い込むには
本作品は、ある日突然美少女が登場して、いきなり異能魔法バトルに巻き込まれて、主人公の力が発言して、めでたく事件解決という物語になっています。私の世代にとっては王道中の王道で、読みながら、うんうんという気持ちになります。
このストーリーラインの、一番のネック、というか、じんたねも書きながら頭を悩ませてしまうのは、どうやってヒロインが主人公のもとに転がり込むのか、ということにあります。
だって、見ず知らずの他人の家、そうそうお泊まりできないでしょ?
できません。一泊二日の旅行じゃあるまいし、しばらく身を置くなんて恐ろしい真似は。なので、見知らぬ二人が出会って共に過ごすには、それなりの工夫が必要になってきます。
本作品もそうですが、その手段としては居場所を断つというものがあります。ヒロインがもともといたホームタウンが失われる(あるいは追われる)ことで帰る場所がなくなり、いやがおうにも主人公のところに押しかけなければならないというやり方です。押しかけ女房という言葉がありますけれど、あれも含蓄のある言葉です。
そしてそのホームタウンを追われた理由を、作品を駆動させる謎に設定する。そうすれば主人公と行動を共にする理由も手に入るというわけです。
3.主人公もまた欠けている
これもまた、同じ理由からです。いくらヒロインの故郷を奪って、主人公のもとに送り込んだとしても、当の主人公がそれを拒否ってしまえば、それまでになります。いくら美女であったとしても、やっぱり赤の他人は赤の他人。ほいほいと受け入れることはできません。
そこにはやはり、ヒロインを求めるべき、理由がなければいけない。
本作品、主人公はアパート暮らしで、かつて暮らしていた家族と離れていることになります。ヒロインはその家族を求めて来日し、そこで接点を持つという設定になっています。彼は、家族がいないからといって寂しがっていたり、あるいは心に傷を抱えていたりということはありません。が、そこは性格を理由にしています。
人の頼みを断れないお人好し。それが主人公を評する友人の言葉です。だからヒロインを自宅に囲って、ちょっとエッチなイベントを体験し――てるわけねえだろぉぉ!
・・・失礼しました。
性格が第一の理由というのは、説得力がありません。
「なんで騙されるん?」「そういう性格だから」というのは、理由を準備していませんと言っているようなものです。ですが
「なんで騙されるん?」「そいつが好きだった人の面影をもっていたから」だと説明になります。
本作品は、注意深く読まないと見落としてしまう、大事な一文を、物語の冒頭でぽんと出しています。
孝平が住んでいるこのアパートだって、昔は祖母が住んでいたものだ。
(中略)
昔と何一つ変わらないこの場所を――孝平は、今も愛着をもって使い続けていた。(56ページ)
つまり祖母の記憶があり、それのあるアパートから離れられない。そこに転がり込んで来た彼女が、祖母を当てにして、訪れてきた。なるほど、断れない。思い出や人への愛着は、かなりの確率でその人の行動原理を決定するからです。
自分が好きな人間が好きだと言ったから信用する。ベジータが味方になるロジックそのものです。あれだけ地球の人々を殺そうとしたり、宇宙で暴れまわってきたのに、仲間たちだって殺されたのに、ベジータを受け入れられたのは、孫悟空がいいっていったから。それに尽きます。
本作品のヒロインも、祖母との記憶を大事にしており、そのことを嬉しそう主人公に話します。そりゃ断れませんよね。
作品の内容についてはあまり触れられませんでしたが、本日はこれくらいで。
(文責:じんたね)
次回はコチラになります。
ライトノベルは斜め上から(46)--『カラクリ荘の異人たち~もしくは賽河原町奇談~』
こんばんは、じんたねです。
明日は出張だよ! やったね!
・・・さて、本日のお題はコチラです。
カラクリ荘の異人たち?もしくは賽河原町奇談? (GA文庫 し 3-1)
- 作者: 霜島ケイ,ミギー
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2007/07/12
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 35回
- この商品を含むブログ (44件) を見る
解題――見よ、これが英断しないことの矜持だ
1.作品紹介
異世界へ行く方法を尋ねられ「車か電車で行けば?」と答えた太一に、クラスメイトの采奈は「そんなのつまらないし、安易すぎ」と言った。しかし、下宿することになった空栗荘へ向かうため彼が賽河原町でバスを降りると、そこは人でなく魚人やムジナ、のっぺらぼうに、喋るカラス―etcたちが行き交う、妖怪たちの住む町だったのだ。おまけにたどり着いた空栗荘は、人間とはいえ一癖も二癖もあるような住人たちばかり…。そんな「あちらとこちら」が混じり合う場所で新生活を始めた太一に巻き起こる、不可思議な出来事の数々とは?賽河原町奇談開幕。
2.緩やかな起伏
本作品は、一言でいえば、和風奇譚でしょう。あるとき日常と非日常の境界を越えた主人公が、妖怪や化け物といった「こちら」の世界ではない「あちら」の世界の住人のいる場所に登場します。その世界の境目にあるカラクリ荘と呼ばれる場所で一人暮らしを初めて、人間のような、そうでもないような、とにかく様々な不思議なキャラクターたちとの生活を始めるというものです。
派手に切った張った。異世界でドタバタ。といった展開はなく、どちらかといえば静かなプロットになっています。1巻で回収されない伏線も山盛りで、スピードではなく、緻密さで勝負するタイプの作品だと思います。
絵柄なども水彩画のタッチが淡い雰囲気を上手に表現していて、これまた素晴らしい。ただ、ヒロインがサービスシーンを提供してくれません。浴衣を着て、お盆に一緒にあるくくらいです。なんでだよ!!! いや、それでも十分なご褒美だけど、いや、よく脱ぐ作品ばっかり読んでる俺が悪いんだ・・・。
3.鋭角な人間観
とはいえ、その緩さは、本作品にとって、ほぼ必然のものです。この緩やかさがなければ、描かれているキャラクターたちをうまくいかすことができないから。それは、驚くほど鋭い人間観に反映されています。一番象徴的なのは次の台詞でしょう。これは主人公と同じカラクリ荘に住まう、変人の部類に属している、「ミヨシ」と「十遠見」を評した言葉のやりとりです。
「でも俺、ミヨシさんや十遠見さんみたいな特別な人たちと違って、お化けや妖怪が出てきても何もできないし」
(中略)
「ミヨシ君も十遠見さんも、『特別』なんかじゃないですよ。彼らは普通の人間です。そんな言葉で彼らとの間に線を引かないでください」(201-202ページ)
本作品の構図は「あちら」と「こちら」。そしてその境界線にいる主人公たち、というものです。この分類の厳密さとその使い分けは、作中においても徹底しています。あやふやな世界観で、ここを紛らわせることが決してない。
どうしてか。
それはおそらく、本作品が、境界に住まうこと、もっといえばどちらの世界でもマジョリティ・世界ではない――「境界人」(G.ジンメル)の物語として書かれているからです。そんなどちらの世界にも居場所のない人たちの、したたかで平和で悲しく優しい姿を、描き出そうとしている。
境界人を描き出すには、その境界のエッジを――物語のさしあたって序盤では――強調する必要があるから、本作品は、ゆるいストーリー展開であるにもかかわらず、設定にブレが発生し得ません。
そして境界人であることを克服するのではなく、その淡いに佇み続けること。それがおそらく、一歩踏み込んだ、本作品のテーマでしょう。
今の2つに分かれた世界に白黒をつけて、どちらかが克服して、主人公が幸せになる。これはよくある冒険活劇ですし、今も、主流を占めているでしょう。ですがそれは、とどまることの正義を説きません。敢えて変化しない。じっとする。それに意味があることを、語ってはいません。そういう意味では、本作品、マイナーな作品ともいえます。しかし、マイナーだからといって語られる意味がないということではない。むしろ、こういった作品があり続けることが、意味がある。
白黒が簡単につかないことを、ちゃんと白黒がつかないと認めることは、実はとても難しいことです。簡単な答えや逃げ道に走るのが人間ですし、物語の落としどころとして、そういったものを持ってくることもできます(あれ、心が痛いぞ・・・)。
おそらくですが、本作品は巻数が進んでも、主人公は成長しないでしょうし、境界に居続けることの意味を、ずっと描き続けると思います。そうあって欲しい。じんたねは思います。
とてもいい雑貨店を見つけたような、そんな読後感でした。こちらの作品も全力でおススメです。世の中との距離感に折り合いをつけられない、あるいはつける必要があるのか。そんなことを一度でも考えたことのある方は、必読のライトノベルです。
(文責:じんたね)
さて、次回作はコチラになります。
ライトノベルは斜め上から(45)――『天命の書板』
こんばんは、じんたねです。
ソシャゲは時間がないと、睡眠時間を削るコトになりますね。えへへ、楽しいなぁ。ふわっふわする。
さて、本日注目するのはコチラになります!
解題――少年よ神話になれ
1.作品概要
世界に『天命の書板』の欠片と、それを身に宿す特殊な能力者が生まれておよそ三十年。巨大学園・霧の学舎へやってきた八坂韻之介は書板使いに襲われている女性を助けようとして、瀕死の重傷を負ってしまう。死の淵にあった韻之介を救ったのは、みずからを『天命の書板』の管理者にして、万物産みし大地の母神と語る謎の幼女・ティアだった。ティアの契約者となった韻之介は普通科から書板科へ編入され、キングー同士の戦いへ身を投じることになるのだったが―。書板の欠片をめぐり争う学園異能バトル開幕!
2.ライトノベルの完成形
――うおいちくしょう、面白いな!
これが初読直後の感想でした。とても面白い。本当によく出来ている。こんなの俺も書きたかったんだよ、って臍を噛むような気持ちになりました。
本作品には、90年代から00年代にかけて完成していったライトノベルらしい設定というか、その理想形がかたちとして受け継がれています。
・無気力系だけれど訳ありな主人公の成長物語。
・幼馴染でツンデレでありながら、ストーリーで足を引っ張ったり助けたりして、それでも主人公との元鞘に収まるヒロイン。
・突如、空から降ってくる謎をかかえた美少女(難あり)が、主人公の日常を引っ掻き回しながら、その異能を駆使する。
・彼らの活劇を見守る大人たちとそれを妨害する大人たちの政治的背景。そして神話などに見られる世界設定をうまくトレースして、アレンジする舞台。
・ライバルとの戦いや異能を駆使して、最後にはハッピーエンド・・・だけれど2巻以降にもつなげられる展開。
私がまず連想したのは、とあるシリーズの作品であったりしますが、本作品のほうが個人的には面白かった。他作品には見られない、メソポタミアの神話をベースにしたアレンジも妙味となっていますし、細かい伏線の張り方や回収の仕方も、とてもスマートでした。書写(模写)してプロットや文字数の流れをつかむのにも、大変、有益なライトノベルです。
最近、このブログを書くようになって、いろんな作品を読んでいますが、こういう素晴らしい作品が多いので本当に腹が立ちますね。悔しい。くそ、くそう・・・!! あともっと売れろ! 2巻と3巻はよ! 一迅社さまお願いします!
3.背景としての世界観
さきほど、私は90年代から00年代の、という枕詞を用いました。現在は2015年であり、すでにライトノベル全盛の頃から、10年以上が経過しています。本作品は、そのころの雰囲気をよく体現しているのですが、その雰囲気の正体というのは、一言でいって世界観にあります。
本作品は神話の世界観をモチーフにしています。神話の定義にはいろいろありますが、ここでは昔から人々に語りづがれてきた、世の中の出来事を解釈する指針を与え続けてきたもの、くらいにしておきます。
たとえば雷。
これは科学的知識がなければ、一体、なんでどうして何のために発生しているのかわかりません。それに当たらないように怯えたりしながら過ごすばかりです。ですがここに神話という物語があって、「これは神様が怒っているからだ」という理由を与えたとします。
そうなれば恐怖心はともかくとして、それに意味を見出すことができます。意味が見出されば、それに対する出方も定まります。怒りを鎮めるためにお供え物をしようか、それともひたすら耐え忍ぶか。どっちにしてもただ雷に恐れおののき、受動的なままでいたこととは、比べ物になりません。
そうやって意味を与え続けてきたのが神話。
だとすれば、神話には何年もの使用に耐えてきた、いわば強度があります。ちょっとやそっとでは疑ったり飽きられたりしないような、物語のいわば原液のようなものが凝縮されています。ちなみに現在では、科学が私たちの神話になっているのでしょうが、その辺は省略。
さてはて、やっと話が元に戻ります。新しく物語を語りだすとき、背景として神話のような超濃ゆいものを参照すると、飛躍的に重みと説得力が生まれます。今の異世界作品も、もとをたどればRPG的なリアリズムですし、それもたどれば神話になります。
ただし、最近のライトノベル――といっても読んだ冊数には限りがあるので、あくまでもじんたねの経験則の範囲内――では、そういった重厚な世界観は忌避される傾向にあります。ポストモダン的という言葉が、その状況を簡単に説明しますが、おおむね間違いではないと思います。すなわち、軽妙であり、奥行きを感じさせない作風が主流のような気がしています。
ライトノベルやソシャゲを元ネタにしたライトノベルが生まれてくるのも、そこまでの世界観を必要としていないという判断からだというのが、私の解釈です。
誤解されないように付け加えますが、重厚であればOK、軽妙であればNG、という話ではありません。どちらもそれ自体スタイルですから、善し悪しを判定する材料にはなり得ません。
本作品は、その背景にある世界観が、これでもかとドーンと盛り込まれています。おそらく、これに理由を求めるのは、大変野暮なのですが(そして実際、野暮だと自覚しながら)、その辺のことを、主人公の性格から述べてみたいと思っています。
4.ダウナー系主人公は共感できない
本作品の主人公は、いわゆる無気力系の冴えない男子系譜に属しています。そして周囲の美女に騒がれるというところまでワンセットです。
さきほど、彼には陰があると言いましたが、その設定がきわどい。
彼は、他人に共感できない性格です。これは空気を読むのがヘタであったり、あるいは感情移入に偏りがあるといったことでは、まったくありません。どれほど親しい存在、たとえば両親との死別を経験しても、まったく悲しくない、ということになっています。この性格をある程度カギにしつつ、後半は盛り上がっていくのですが、根本的なところは変化していないので2巻への伏線ということにもなっています。
主人公は共感できない自分の性格を、心から悩んでいる。どうして自分には、他のヒトと同じように共感したり、痛みを分かち合ったりできないのだろうって。
この設定を踏まえて読むと、前半部分のサービスシーンや「女の子にもてたい」という理由全開の行動原理が、実は、自分の性格を否定し、一生懸命演技しているという、辛く「哀れ」な姿として見えてきます。
ここからは、かなりじんたねの妄想が入っているので、未読のかたはごめんなさい。既読のかたはせせら笑ってください。主人公の彼は、おそらくいつも他人を見ています。他人がどう振舞い、どう考えているのか。その挙動を気にして、そこに溶け込もうと必死でしょう。だって自分は普通でないと自覚していて、そのことを漏らさないのですから。鷹揚でルーズで空気を読んでいるのも、すべて計算の範囲内のはず。実際、作中でも頭の回転がはやい。
つまり彼は、いつも世間を見ていて、それをラーニングしようと必死なんだと思います。
ここで神話の話が、いきなりつながります。
神話というのは、世界に意味を与えるものだと言いました。この世界、実は、他人も含まれています。他人がどういった行動パターンのときに、どう感じていると解釈するのが妥当なのか。これの素地を用意するのも、じつは神話のお仕事だったんですね。
小説を読むようになって、人間の機微が見えてきた。この体験をしたひとは多いんじゃないでしょうか。それもそのはずです。遠い昔から、人間がやってきたことを、神話じゃなくて小説でやっているのですから。
さてさて、ここで再び主人公のお話。彼は、その意味で、誰よりも強く神話を求めています。自分の他者理解や共感をまぎれもなく強固にしてくれるものとして。それをトレースし内面化することで、きっと「普通」の人間になれるはずだから。
そう考えてみると、本作品に登場する、メソポタミアの神々が主人公を取り巻くという構図は、なんともシニカルであり、何とも意味深長です。だって、まさに彼が欲してやまないものを、すでに神様(=神話のキャラクター)が体現化しているのですし。それどころか誰よりも人間的な性格として神様が登場したりします(ティア可愛いよティア可愛いよ)。
そして物語のプロットもまた、そこから必然的に定まってきます。すなわち、主人公が神話を取り戻すこと。神話の神々から意味付与する技術を授けられ、そして日常に戻ること。
まあ、あんまりにも抽象的な話なので、だいたいのライトノベルにあてはまっちゃいますが、2巻以降は、きっとそんな主人公の成長物語がみられると思っています。
・・・だから続きはよ!!!!
(文責:じんたね)
次回作はこちらを予定しています。
カラクリ荘の異人たち?もしくは賽河原町奇談? (GA文庫 し 3-1)
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ライトノベルは斜め上から(44)――『はてな☆イリュージョン』
こんばんは、じんたねです。
目・肩・腰が痛いです。
この度の作品はコチラ! 挿絵がえろいよ!
解題――円満な家族像に見ゆるは、遠景の小宇宙
1.作品概要
中学一年生になったばかりの不知火真は、両親の知り合いの、世界的に有名な奇術師・星里衛に弟子入りするため上京する。子供の時に、星里衛・メイヴ夫妻のショーを見てから、真はずっと奇術師に憧れてきた。夫妻の娘・果菜(あだ名:はてな)とは幼なじみ。東京では、美貌の女怪盗が起こす事件が世間を騒がせていたが、はてなもいるし、不安はなかった。幽霊屋敷と呼ばれる星里家で、執事のジーヴスとメイドのエマに迎えられ、はてなとの再会を果たした真。はてなも大歓迎だったが、真と話がかみ合わず、ついには―!?ラノベ界最大のイリュージョン、開幕!!
2.To LOVEる的
本作品は、ライトノベルというべきか、エロゲというべきか、ラブコメというべきか、矢吹健太郎的というべきか、それらの作品の系譜が丁寧に押さえられていて、まぎれもなくプロの仕事であることが、一目でわかります。
性に貪欲でないが無関心でもない主人公に、超がつくほどの美少女幼馴染。一つ屋根の下にくらしながら、日々のイベントをこなし、誤解や理解を重ねながら、じょじょに近しい関係になっていき、ついに・・・という鉄板中の鉄板の展開を踏まえています。
文章もとても丁寧で、どのキャラクターが何をしたのかが必ず分かるように書かれてある。誤解されない言葉使いです。当たり前のようですが、誤解なく読ませる文章というのは、難しかったりします。それを難なくしてしまっているのも、本作品の魅力の一つでしょう。
3.円満な家族像
さて、本作品で注目したいのは、そういったお約束の要素をすべて無視した部分です。その辺であれば、私よりも適切に指摘できるかたがいると思いますから。
家族像。これが興味深いものでした。
ええと、エロゲといえば、ラブコメあるあるといえば、なのですが。主人公の父親と母親は影が薄いのがお約束です。海外に出張中だったり、よく分からない理由で自宅を空けていたりします。そうさせることで、だだっぴろい私空間を主人公は手に入れることができ、そしてそこに女の子を囲い込むことができるから。楽しいイベントに大人が介入しないですみます。当然です、これが正義で間違いありません。
本作品も主人公に関しては、たしかに影が薄い。ヒロインの家族についても物語の重要な設定を担ってはいますが、全面に出ているわけではありません。その意味で、とりたてて奇異なことはない。
ない、んですけれど。
どちらの家族も、とても夫婦仲がよいんです。お互いにお互いを思い合っているし、その関係が崩れるような気配すらない。それだけではありません。お父さんとお母さんは、自分たちの息子と娘を、心から愛している。その愛情にブレはなく、これまた海よりも深く、山よりも高い。
どちらの父親・母親もユーモアを介し、当然のことながら美形で、大人の判断もできる。このうえなく、法外なレベルで、理想的な両親像として描かれています。その息子や娘である、主人公やヒロインも、とても伸び伸びとした性格をしている。単独でいれば、きっと事件は起こさないだろう。そう感じさせます。
「なんでこんなに完璧なの?」
そう思ったんですね、私。もちろんフィクションですから、それはまあ「そういう設定だからじゃない?」というのがベストアンサー。そこに疑問はありません。ただ、エロゲやらラブコメやらの鉄板を踏まえるなら、両親の話はあんまりしない。もしするのなら、目立たないように伏線に利用する、そんなところだと思っています。
ですが本作品では、そういったストーリーの役割以上に、家族の「円満さ」が設定され尽しています。非の打ち所がない。
4.秀麗眉目の小宇宙
どうしてなんだろうかと考え続けて、2日ほど経過してしまいました。今のところ、これじゃないかというのが以下のお話。
矢吹健太郎的、と上述しましたが、本作品の世界には、汚点がまったく存在しません。キャラクターたちはみな秀麗眉目であり、性格もよく、悪人も悪人ではない。世界は調和が保たれていて、物語の山場はありますが、事件らしい事件はおきない。
「ああ、ここは理想郷なのだ」
そう思いました。理想郷には理想しか存在しません。ユートピア、すなわちアン・プレイス=どこにもない場所、ですから。だから欠損や汚点(とされるもの)があっては、理想ではなく現実になってしまう。本作品、読者に対して、完全な娯楽フィクションを提示して、そこで楽しんでもらおうとする、潔癖なまでのエンターテイメント性が宿っている。だから、感情移入を妨げてしまうような、負の側面をもったキャラクターがいない。
それはさらにキャラクターたちの家族にも及ぶほど。そういう理由で、家族すら完璧に描かれているのではないか。美しい世界に美しい住人が住まう。それは一枚の絵画を眺めているような体験であり、現世から隔世へとジャンプする快感をもたらす。それを体現してるのが、まさに本作品であると思われます。
本作品は、ライトノベルの到達点の一つである。そう断言できるでしょう。読者もそうですが書き手にも、本作品の一読をおススメします。
(文責:じんたね)
次回は、こちらになります。
ライトノベルは斜め上から(43)――『LAST KISS』
こんばんは、じんたねです。
今日は遅れての更新になります。
本日注目する作品はコチラ! めっちゃ読みながら涙でそうでこらえてた。
解題――近親相姦は克服してはならない
1.作品概要
“私が死んだら、お兄ちゃんはきっと泣くと思います―”重い病気を持つ中学二年の井崎由香。夏休みに一時退院した彼女は、これまでほとんど接触のなかった兄の智弘とともにひと夏を過ごす。生まれて初めて兄に買ってもらった帽子、二人で出かけた六甲山上の植物園、兄の幼馴染のかんネェに連れていってもらった須磨の海。何気ない日々の中で、少しずつ兄への気持ちは形を変えていく。やがて訪れる悲しい結末は変えられないと知りながら…。
2.ついえるまでの猶予期間
本作品は、とてもシンプルな構成であり、必要最小限のキャラクターしか登場しません。高校生である主人公が、夏休みに入ったある日、中学生の妹が退院するということで病院に向かうところからシーンは始まります。
それから甘えん坊の妹に振り回されながら、幼馴染も交えながら、海にいったり山にいったりして、最後には病院に戻る。時系列でいえば、それだけのストーリーです。
ここからはネタバレになりますので、もし気になるかたがいれば、回れ右をしてください。発売日から時間も経っているので、ネタバレを気にせずに、これからは書き進めます。
この中学生の妹は、実は、兄と血のつながりがありません。妹は、あこがれに近い感情を抱きながら、兄を異性として見ています。甘えん坊に思えた言動は、異性として自分を見て欲しい、独占したい/されたいという態度の表れであると、ストーリーが佳境になるにつれて分かるようになっています。(ただ、そのまま読めば、「アレ」と思う箇所が多く、すぐに気づくかと)
幼馴染と妹は――お互いに友情を抱きつつも――主人公をめぐって水面下では奪い合いをしたりと、なかなかさわやかな争いが起きています。
妹は骨髄の難病にかかっており、余命いくばくもない状況。物語の終盤で亡くなってしまいます。そのとき兄に、次のように要求します。キスして欲しいと。これがタイトルの回収になっています。
妹は退院した頃から日記をつけており、それを最後の最後で、自分が亡くなったあとに、主人公に読ませます。物語全体から寂寥感があふれており、紛れもなく、この時代から生まれた名作であることが分かります。・・・ほんと悲しい。
3.兄弟が結ばれてはならない時代
さて本作品が、胸を締め付けられるような気持ちにさせるのは、兄妹が結ばれてはならないという暗黙の了解を、キャラクターの全員が抱いているからでしょう。
妹のキスして欲しいという要求に、最初、主人公は拒否反応を示します。自分たちは兄と妹なのだから。そんな異性同士の関係になってはいけないと。たとえ血が繋がっていなくても。それは妹自身も分かっていながら、それでも想いをぶつけています。
幼馴染の女の子は、余命いくばくもないのだからキスくらいしてあげればいいと言ってはいますが、それはあくまでも、もうじき亡くなってしまうという前提があります。もし不治の病に侵されていなければ、恋のライバルであるという「以前に」、兄と妹という間柄の不義として、難色を示したことでしょう。
物語の最後の最後。もうその日しか生きられないという場面。妹の思いに気づいた兄である主人公と、こんな会話をします。
「……由香、お兄ちゃんのこと好きだよ……」
「ありがと……、でも俺……」
「……うん。お兄ちゃんはかんネェが好きなんだよね……」
……俺、由香の気持ち、なんで受け止めてやれんのやろ……。(286ページ)
ここで妹は、兄が幼馴染を好きだから、自分を受け入れてくれないと言っています。ですが、それは言葉の表面でしかありません。兄が、「かんネェ」(=幼馴染)のことを好きだろうとそうでなかろうと、妹が妹だから妹としてしか好きになれない、妹ではない他人の異性である幼馴染なら好きになれる――その壁のことを、妹は指摘しています。
ゼロ年代に、リアルの妹と結ばれる系譜のライトノベルが大量に生まれ、支持を集めました。それらの作品は、本作品のように、兄妹としての不義に対する、心の葛藤を描いてはいません――というのは言い過ぎですが、その葛藤が主題としては扱われていませんでした。他の恋のライバルとの鞘当てであったり、親や世間の視線であったりは考慮されていたとしても、当人たちがお互いに好きであることに違和感を抱いていたり、自分を責めたり、ということは描かれていません。
ここには、かなり時代性が反映されていると言えるでしょう。それは翻って、今の私たちがどう考えているのかを照らし出してもくれています。
4.救えたかもしれない妹の命
これもラストシーンの話になります。兄妹の父親は、骨髄移植をするためにドナーを探し歩いていたため、妹の臨終に対面できないという、とても切ないシーンがあります。妹が亡くなった丁度その日に、父親が病院にかけつけるのですが間に合いません。ここは読みながら、悲しい気持ちになりました。
そして主人公は悲しみのあまり涙にくれます。幼馴染にも慰められながら、妹に託された手紙を読んで、再び涙します。
ここ、私はひっかかりを覚えました。
妹が亡くなった原因は、その日に無理をして、急激に体力が低下したからではないかという主人公の独白があります。その要因のひとつは、主人公と妹が二人っきりで屋外に移動したからです。そこでラストキスが交わされるのですが、どうして主人公は自分を責めなかったのか。
もし外出したいという要望を蹴って、病室で二人っきりになっていれば。キスもしただろうし、体力の低下も防げ、父親の朗報に間に合ったかもしれないのに。
そういった呵責が主人公には見られませんでした。もし私が主人公と同じ立場であったら、そのことに耐えられないでしょう。幼馴染に慰めてもらおうなんて、厚かましい気持ちになれません。だって、自分が妹を殺してしまったのかもしれないのだから。
もともと、主人公の独りよがりな考え方や、妹の気持ちに気付いてあげられない鈍感さに、私が共感よりも苛立たしさを感じながら読んでいたことも、理由にあるかもしれません。
ここの引っかかりは、ですが、ある理由を踏まえれば、解消されます。
主人公と妹は、兄妹なんです。この先、妹が生き残っていったとしても、この世界の価値観にしたがえば、二人は結ばれません。それは果たして幸せなことなのか。どうやって血のつながっていない2人が、お互いの関係に決着をつけられるのか。あまり喜ばしい展開はないでしょう。
兄妹は結ばれない――この前提があってこそ、妹の死は必然になります。そのことを主人公も幼馴染も分かっていた。そういうことなのではないでしょうか。それが作品を駆動するドライブとして、軽い一人称の文体に、物悲しくも切ないテイストを加えています。
悲しい気持ちに包まれながらも、甘酸っぱい青春の香りがする本作品。ぜひとも20代後半になってから読んでみることをおススメします。・・・ほんま、切なかった。
(文責:じんたね)
さて、次回作ですが、コチラ!
ライトノベルは斜め上から(42)――『天久鷹央の推理カルテ』
こんばんは、じんたねです。
最近は、ライトノベル以外をガンガン読んでブログに書いている気がしますが。まあ、いいじゃないか。
さて、本日のお題はコチラ。
解題――知性の演出
1.作品紹介
統括診断部。天医会総合病院に設立されたこの特別部門には、各科で「診断困難」と判断された患者が集められる。河童に会った、と語る少年。人魂を見た、と怯える看護師。突然赤ちゃんを身籠った、と叫ぶ女子高生。だが、そんな摩訶不思議な“事件"には思いもよらぬ“病"が隠されていた…?頭脳明晰、博覧強記の天才女医・天久鷹央が解き明かす新感覚メディカル・ミステリー。
2.ホームズとワトソン
本作品は、いわゆる犯罪があり、その謎を解くという、ミステリー作品になっています。舞台は病院であり、主要なキャラクターはずべて医療関係者になっています。
主人公はワトソン役の普通の男性であり、そしてメインヒロイン(?)はホームズ役の女医さんです。
女医です。ここは大事なところなので二回言いました。
謎解きには、専門的な医学知識が惜しげもなく使われていて、おそらくですが医療関係の仕事をしたことのある方が書かれたのではないかと思われます。専門的知識を自慢せずに、あたかも自然に謎解きに利用する手つきが、ブラックジャックの手塚治虫を連想させます。
さばさばとした文体に、知的パズルを提供してくれる流れ、適度に説明される謎。どれをとっても気軽に読める高質なエンターテイメント作品だと思いました。
3.知性の演出
さて、本作品でわたしが興味を抱いたのは、天才探偵役のキャラクターの知性を、どうやって演出しているのか、ということです。
頭のいいキャラクターを描くのは難しいと言います。理由は簡単で、書き手以上に頭のいいキャラクターは原理的に描けないからです。
頭がいいとされている実在の人物や、どこかのフィクションのキャラクターの言動をそのままトレースする以外、書き手の知性を超えるキャラクターは描けない。
なのでホームズばりの人物を描くには、それなりに「お化粧」してアピールする技術が求められます。本作品にある、知性の演出には、次の3つが使われていました。
(1)知識量
これは女医さんが、大変な読書家であるという設定で補われています。読むジャンルも専門書に限らず、小説やマンガに至るまで。自宅として機能している部屋には、うず高く本が積もっています。
自分の知っていることや話したいことに話題が変わると、ひたすらずっとしゃべり続けるという設定もまた、その延長線上にあります。
(2)データベース
それだけの知識量があっても、的確に引き出せないと意味がない。ということで、それらの知識はデータベースとして蓄積され(記憶され)、いつでもどこでも、事件解決のために的確に引き出すことができることになっています。
(3)論理的=空気読めない
知識をたくさん蓄え、それを引き出せるとしても、うまく使えないと役に立たない。だから彼女は、とても論理的で客観的に考えられる人物として描かれている。
彼女は事件に出会うと、それにかかわる人物の心情や価値観、そういったものを顧慮しません。事件解決に必要な情報にのみ関心を払い、それ以外には目もくれない。俗にいう「空気の読めない」キャラです。本人も周囲もそう自覚しています。
4.「知性=人間味」ではない、というお約束
とはいえなのですが、頭がいいということを、(1)から(3)に限定すると、ひどく狭いことになります。
もしそれが知性だというのであれば、人工知能のデータベースが一番頭がいいことになりますし、電卓とセットになれば、計算速度だって早い。論理も間違えない。人間の知性を言い切るには、やや単純です。(もちろん、そういった側面を否定するわけではありません)
知性には、他にも文脈を編み直すという能力があります。
分かりやすいのでニュートンにしましょう。彼は万有引力の法則を発見したと言われています。リンゴの木からリンゴが落っこちるのを見て。これまでたくさんの人が、物が落下する様子を、何度となく見てきたのに、それまで誰も、それを法則として結びつけることをしなかった。
だけどニュートンはそれを科学という文脈において再解釈して、重大な発見につなげました。
つまり、とある世界にとっては常識でも、別の世界にとっては非常識なことがある。その違いを知り橋渡しをすることもまた、知性の一つだと言えます。
そういった観点から見れば、ホームズである女医さんは、頭が悪い。論理という規約の世界でしか知性を行使できないというのは、現実ではほぼ無能を意味しているからです。日常会話は、論理的には穴だらけ矛盾だらけであり、情報の正確な授受という図式で見れば、何のやりとりもできていない。会話すらできなくなります。
だから本作品は――素晴らしいんです。ここがキャラクターの魅力につながっているから。
ワトソンとホームズが事件を解決し、めでたく日常に戻るラストシーン。主人公は疲れ切っていて自宅に帰ろうとしますが、女医さんは一緒に飲もうと誘う場面です。そこで次の台詞です。
「そうか。ところで、ここに置いていくお前の愛車、落書きとかされないといいな」(123ページ)
分かりますね。私と飲まないなら、お前の愛車に落書きしてやる、と脅しています。とても可愛くて大好きな場面なのですが、
「おや?」
そう思いませんでしたか? 思ってくれないと話が進められないのですけど、まあ思ったことにしてください。さきほど、この女医さんは空気を読めないと言いました。人間の機微に疎く、論理や科学しか眼中にないと。
ここの台詞、とてもそんな人間が言えるようなものではありません。
もしそんな人物だったら、きっと論理的にこういうでしょう。「お前が帰れば、車は落書きされる。帰らなければ、車は落書きされない」と。とても可愛らしくも厭味ったらしいせりふ回しは使えないはずなんですね。
でも使っている。これは彼女が、実は人間味にあふれている、ということを裏書きしています。
自分でも空気が読めないという発言を、寂しそうにこぼすのは、自分がどこかダメな人間であることを自覚しているという、人間味のある性格を表している。つまり、知的で高飛車な性格と、それとは好対照の人情味のある人物。それがメインヒロインであり、可愛くていい、という描かれかたにつながっているのです。
知性の演出。それはとても難しくもあり、面白くもある。
本作品を楽しみながら、いろいろと考えました。
(文責:じんたね)
さて、次回作はコチラ。
追記:ちなみに、その鉄板設定をあえて裏切ったりしているのが、森博嗣だったりしますが、まあそれは別の機会にでもお話しましょう。
ライトノベルは斜め上から(41)――『ひとつ海のパラスアテナ』
こんにちは、じんたねです。
二日酔いのせいで、ぐわんぐわんしてます。
さて、本日はコチラ!
解題――ライトノベルの皮をかぶった極限状況のルポルタージュ
1.作品紹介
それは、いつ終わるとも分からない。ボクの、『生きるための戦い』――。
すべての『陸』は、水底(みなぞこ)に沈んだ。透き通る蒼い海と、紺碧の空。世界の全てを二つの青が覆う時代、『アフター』。
セイラー服を着て『海の男』として生きるボクは、両親の形見・愛船パラス号で大海を渡り荷物を届ける『メッセンジャー』として暮らしていた。そんなボクに、この大海原は気兼ねなくとびきりの『不運』を与えてくる。
――『白い嵐』。
無情にも襲いかかる自然の猛威。それは、海に浮かぶ全てを破壊した。
愛船パラス号を失い、ボクが流れ着いたのは孤立無援の浮島。食糧も、水も、衣服も、何も無い。あるのは、ただただ広がる『青』。ここに、助けは来るのか、それとも――
それは、いつ終わるとも分からない。ボクの『生きるための戦い』。
2.ロストテクノロジー+セーラー服+百合
本作品、世界が海に沈んでしまった「あと」が舞台になっています。すでに大陸が失われ、海のうえで生活をし続けている。貨幣は存在しているが、地域によって異なるため、基本的には物々交換。海洋技術がなければ生きていけない。そんなサバイバルな世界観です。
主人公の彼女は、セーラー服をまとった、男の子(「子」は誤植ではないよ)っぽい人物。まだ少年と少女の淡いに存在していて、本来の意味での少女です。この世界では、セーラー服は、本来の意味でのセーラー服であり、男子が着るものとされています。作中では、セーラー服を着ていたがために、女に見られないという描写があり、とても感動しました。
3.ライトノベルを突き抜けて――クラインの壺
さて、本作品はライトノベルらしさを自覚的に裏切って、その内部から次へ進んでいる作品だと思いました。
当然ながら、「ライトノベルらしさ」というのは人それぞれでありながら、ぼんやりと一定数の人々が共有していると(されている)ものだと思うので、その中身を分析するのには、かなり骨が折れます。かくいう私だって、何がライトノベルで、ライトノベルらしいとはどういうことか分からないままなのですが、本作品、それでもライトノベル「らしさ」を、意図的に外してきていると感じました。
これは私がライトノベルを意識したらこうは書かないな、ということ「だけ」を根拠にしていますので、納得できないという方が、かなりおられることを承知のうえで、少しばかり駄文を並べてみようと思います。
まず、世界観はロストテクノロジー。言ってみれば、今の私たちの「あと」にある世界だと言っていいでしょう。二酸化炭素の排出量が増大して、南極(でしたっけ?)の氷が全部とけて、東京都は沈んじゃうんじゃないかっていうお話もありましたけれど、その延長線上で理解していいでしょう。
ロストテクノロジー設定の面白味の一つは、その世界で生きている人の理解や技術を「超えて」いるものがゴロゴロしていて、それが事件をきっかけに登場して、すげぇってなることだと思います。だって、ビビるじゃないですか、クレタの石板から光でてくてUFOを呼び寄せたりできたら。
なのですが、本作品では、そういったわくわくは排除されています。この世界で生き残るための原材料を提供している、あるいは部品の一部でしかない。そういった位置づけになっています。
他にも。本作品のメインとなるのは主人公と、彼女と一緒にすごす女性の2人です。その2人が、ただ海洋上を旅して、一緒にサバイバルをしていく。これって、すごくいいシチュですよね。どんなえっちなことさせようかって、私なら朝から晩まで妄想します(?)
だけど、この2人にはそういうことはおきません。もちろんサービスシーンはちゃんとありますし読者への配慮は抜かりなしなのですが、2人の関係は、端的に言って、近所のお姉さんと小学生、というものです。両者をつないでいる絆は、サバイバルするための頼れる他者であり、お姉さんは主人公にとって親代わりの存在です。おそらく作品のような状況になったら、こうなるだろうなっていうリアリズムに支えられています。
あと、物語の冒頭で、主人公の旅は危機を迎えます。ずっと旅を共にしてきた存在が死に、その身体を食べることで命を繋ぎます。水分の確保のため、生きている魚の脊髄液を、そのまま飲んだり、あるいは、限界状況で人間が一週間ほどで死んでしまうのは――身体的には1ヶ月ほど維持できるはずなのに――、その絶望感に耐えられいからだという描写があったりまします。
ここには戯曲的要素、エンターテイメントとしての「嘘」が、ほぼありません。
少しだけ話を脱線しますが、南極で一人で過ごしていたという人物の手記が、たしか小説として発表されていたと記憶しているのですが(タイトルも細かい部分も忘れてしまいました)、そこで気が狂わないために、一日にやるべきことを、できるだけ事細かに書き出して、そこにスケジュールを合わせるようにして、自分を保ったという話がありました。これを読んだときに、人間の本当のことをグサッとついて来る快感と恐ろしさを感じましたが、それと同じ鋭さが、本作品にはあります。
もっと有名なものでいえば、ロビンソン・クルーソーのお話。これはエンターテイメント作品として読まれていますが、よく読み込めば、かなりのことを言いきっています。無人島で足跡を発見するのですが、それが自分のものなのか他人のものなのか分からない。まったく他人がいない空間では、そんな単純なことにも疑いの気持ちが生まれ、それに呑みこまれ、まったく根拠のないところを進んでいかなければならない。
そういった首筋に刃物をぴとりと当てられるような、そんな怖さ=魅力があります。
主人公以外にも登場人物は、一癖もふた癖もある。誰もがサバイバルとしての哲学を持っていて、だけど可愛げがあるかといえば、必ずしもそうではない。正直、ちょっとお友達にはなれないなという人たちがいっぱいいる。これもライトノベルっぽくないと言えるような気がします。
ヨットで一人旅。あるいはバックパッカーとして世界一周の旅。そんな命が失われるかどうか分からない状況を生きて、それを小説にすると、きっとこうなるのではないか。もしかしたら本作品はルポルタージュの変奏曲なのではないか。そう思いました。
すでに2・3巻と続きが出されるようで、このルポルタージュがどこへ向かうのか。一読者として、大変興味をかき立てられました。
(文責:じんたね)
さて、次回作はコチラになります。