ライトノベルは斜め上から(40)――『暴風ガールズファイト』

こんばんは、じんたねです。

酒もコーヒーも耐性がついてしまって、眠気覚ましの方法を募集中です。

 

さて、本日のお題はコチラ!

暴風ガールズファイト (ファミ通文庫)

暴風ガールズファイト (ファミ通文庫)

 

 

 

解題――この中に11人女の子がいる

 

 

1.作品概要

マリア様が見守る聖ヴェリタス女学院。高等部に進学した麻生広海は、親友との別れによる喪失感と何ら変わり映えのしない高校生活を前にすでに鬱屈していた。ところが!そんな広海の前に吹き荒れる五十嵐千果というちびっこい嵐!巻き込まれるがままなぜか高校ラクロス日本一を目指して立ち上がることに!…っつーかラクロスって何よ?ウチにそんな部あったっけ??汗と涙とド根性!空前絶後の美少女スポ根グラフィティ、待望の試合開始。

 

 

2.マイナースポーツというテーマ

本作品は、可愛らしい表紙からもうかがえますように、マリみての女子高よろしく、お嬢様学校で繰り広げられる女子ラクロス部の青春を描いています。

 

ラクロスといえば、女子ラクロスの、あの、華のあるユニフォームを連想しますが(少なくとも私はひらひらを連想する、ひらひらスカート)、そのルールについて深く知っているひとはあまり多くありません。私もあんまりしらない。

 

本作品は、女子ラクロス部を作るところから物語が始まり、そのなかでルールを説明して、読者に提供するような構成になっています。主人公がネットで調べた、練習するなかで基本的な用語を解説する、などといった工夫があり、読みながらラクロスへの理解を深められるようになっています。

 

 

3.サッカーだとイレブンって言うけれど

で、私は、本作品を読む前に不安がありました。ラクロスは集団競技です。チームで勝負し、チームで勝利します。だいたい、スポーツを取り上げる作品は、主人公の所属するチームに感情移入するものですが、ええと、11人います

 

一人ひとりキャラ描き分けるんだよね・・・1巻ってだいたい300ページだよね・・・収まるんか・・・?

 

そう思ったんですね、はい。単純に計算して、300を11、まあ10で割りましょう。すると30ページでキャラクターを魅力的に描かなければならない。そんなこといっても、物語には、始まり、中間、終わり、という流れがあるので、単純に紙面を割くことはできない。書ききれないんじゃないのかなぁ、なんて読んでみたら。

 

・・・やられた!

 

そう思ったんですね、はい。ははぁ、こうすればよかったのか、と驚いてしまいました。

 

最初の工夫として、主人公が全面に出てこない。基本的にはすべて主人公の一人称で話は進んでいきますが、それはほとんど、物語を見渡すレンズの役目を果たしている。各キャラクター一人ひとりに焦点をあてているため、レンズ自身は透明のまま。作品内では、表裏のある、けっこう性格的には「むむ」と抵抗を感じるような設定になっているのですが、それでも表にでる言動は、きわめて控え目

 

次に、キャラの記号を徹底的に利用する。あるじゃないですか。この外見のひとだったら中身はこんなだっていうお馴染みの記号が。本作品もそれを上手く使い分け、パッと読んで、そのキャラクターをつかめるように描かれています。

 

そして、目立つキャラと目立たないキャラを、腑分けしておく基本的には、2~4名程度の主人公たちしか会話を引っ張りません。そりゃそうですよね。11人が一辺にしゃべったら――女子ラクロス部なので当然考えられるシーンですけど――誰が誰やら分からなくなってしまう。「 」が11行あって、全部主語が違うというのは、読みにくいですから。

 

それら鍵となるキャラ数名に、口数の少ない部員を配置して、11人のキャラを立たせている。・・・そうか、こう書けばいいんだ。

 

 

4.スポーツで描かれるのはスポーツではない

本作品、ラクロスへの入門書としても読めるのですが、実は物語のクライマックス、ラクロスというスポーツの駆け引きは、あまり描かれていません。そのほとんどが、キャラクターたちの心理あるいは人間関係に特化しています。ストーリー上、そんなに早くみんなは上達しない(女子ラクロス部はできたばかり)というのもあるかもしれませんが、たぶん、そっちは大きな理由ではないでしょう。

 

スポーツ観戦を想像して欲しいのですが、私たちがスポーツを見るとき、その競技のうまさや面白さは当然のこととして、違うところを見てはいませんか?

 

たとえばスポーツ紙。誰々が何をした、何を考えている、誰と結婚した、年収はいくらだ。そういったプライベートなネタはつきません。そしてそんな知識をもってスポーツ選手のプレイを見ると、これまた一味違った見え方になります。

 

つまり、スポーツを見ると言うのは、実は、そのプレイヤーを見ている、もっといえば人を見ている。上手い人がプレイするのも楽しいけれど、面白い人がプレイするともっと面白い。

 

どんな小説も、結局は、書いている人が人間を好きかどうかを読まれている――という言葉を聞いたことがありますが、そのセオリーは本作品に当てはまりますし、まさにそれが魅力となっているでしょう。

 

人を描き出すとき、どうスポーツと関係して、笑ったり泣いたり成長したりしているのか。そこがやっぱり読みたいし、そこをやっぱり読ませたい。本作品は、そこを描いてくれています。

 

スパッツもいいけれど、女子ラクロスもいい。そう思わせてくれる作品でした。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります。

ひとつ海のパラスアテナ (電撃文庫)

ひとつ海のパラスアテナ (電撃文庫)

 

 

ライトノベルは斜め上から(39)――『大陸英雄戦記』

こんばんは、じんたねです!

日本酒おいちい! 日本酒大好き!

 

さて、本日のお題はコチラ。

大陸英雄戦記 1 (アース・スターノベル)

大陸英雄戦記 1 (アース・スターノベル)

 

 

 

解題――ツンデレとは誰をして語らしめるものか

 

 

1.作品概要

 「俺」ことユゼフ・ワレサが現代日本から転生したのは、魔法のある中近世欧州風の世界。

しかも滅亡寸前の小国の農家だった!?

チートも無く、家柄も無く、魔力も人並みな「俺」は、祖国を救うために士官学校に入学。
ハードな戦争と政治の世界で大活躍する!

Webでの連載スタートから僅か半年で2,000万PVを獲得した人気の転生戦記が、ついに書籍化!

 

 

2.英雄戦記という命名に恥じない物語

本作品、異世界もののお約束を踏襲し、現世(日本)で生きていた記憶を持つ少年が主人公となります。その記憶を引き継いでいるため、知略に長けており、それを活かして名を残そうと士官学校へ入るところから物語は始まります。

 

そして士官学校には、ツンデレヒロインに、気のいい残念イケメンの友だち、とエロゲ必須の要素を散りばめながら、作品の背後で歴史が蠢いている。そんな筆致になっています。何度も場面転換が行われ、基本的には主人公の一人称ですが、そのシーンごとで人称も違ったりします。ストーリーが進むなか、徐々に主人公は年を重ね、友たちとも離れてくらし、再開しつつも成長していく・・・あ、これ、銀河英雄伝(げふんげふん)。

 

冗談はさておき、作品内で年を重ねたり、すぐに本編に絡まない背後の人間関係を動かしたり、ヨーロッパの中世から近代あたりまでの歴史をベースにおいた世界観は、かなりの重厚さを持っています

 

書きながらプロットを生み出しているというよりも、もともと脳内にある世界観をどうやって切りとって、文字として落としていこうか。そんな態度が見え隠れする作品であり、「はよ、続き、はよ!」と思わせられます。

 

ライトノベルといえば初動がすべて、という風潮がありますが、これはなかなかに痛し痒し。大きな世界観、重たい世界観、奥行きのある深い世界観。それを1巻だけで提示することは、文字数の関係で、実質不可能だからです。小出しにしつつも、どうしても1巻では回収できない伏線をいれないと、世界を構築できないから。

 

そういう意味で、本作品。初動で読ませる工夫がちりばめられつつも、大きな世界観を作り上げようとしており、大変、面白く、そして共感できる内容になっています。

 

 

3.ツンデレっていうけれど

ツンデレという言い回しはもう陳腐になっていますが、ツンデレキャラというのは、物語において鉄板。もっと一般的な言い回しを用いれば、主人公に好意を寄せる女の子がいて、それでいて素直になれない性格の持ち主。このキャラ造形は、そうすたれることがありません。嬉し恥ずかし焦らされ快楽原則をきっちり捉えていますから。

 

だいたい、好意をよせる女の子が素直だったら、もう一直線でゴールインだよね・・・それって100ページくらいで話し終わるよね、ラブコメだったらさ・・・。

 

で、で、なんですが、本作品にもツンデレ女子が登場しているのですが・・・違う、そうじゃない。本作品の本当のヒロインは、主人公(男)その人なんですよ! 分かりますか? もっかい言いますね、主人公が一番ツンデレしています! これがまたいいんだ。

 

証拠をお見せしましょう。これはツンデレ女子から壁ドンされて、いろいろ話しして、最後に「ありがとう」と言った直後のシーンです。

 

「……な、なによ! 気持ち悪いわね!」

 そう彼女は憤激すると、俺に向かって拳を向けて来……なかった。その代わり胸を軽く叩かれただけで終わった。おい、そんな中途半端なことするならいっそ殴って。(236ページ)

 

 

はい、分かりますね。ん? 分からないですって?

ええとですね、「気持ち悪いわね!」というツンデレっぷりは、このシーンの本質ではありません(何を言っているんだお前は)。注目すべきは主人公のツンデレなんです(だから何を言っているんだ、じんたね落ち着け)。

 

本作品、作品設定や魔法属性について、主人公の視点を離れている場合、おおむね堅めの文体で書かれています。もちろん分かりやすくかみ砕いてくれていて、するすると読めるものです。それとは対照的に、主人公の一人称がメインとなるシーンでは、本当に軽口ばかりの独白が多い。クスクスと笑えるものが続きます。

 

引用したシーン、主人公はヒロインから殴られないことに違和感を表明しています。それはこれまでの関係が殴る蹴るの連続という、これまた嬉し涙がでるM系男子の夢だったからです。そんな彼女が本気で殴らなかったのは、言わずもがな、主人公への好意を、わずかではありますが正直に表現して、それが態度に現れたからに他なりません。これまでのように照れ隠しが続いているのであれば、ここは壁にめり込むくらい主人公を一撃のもとに屠ったことでしょう。ひぃ、恐ろしい。

 

でも、それを素直に、主人公は受け取らない。「ありがとう」と言ったり、微笑み返したりしない。そりゃそうですよ、するはずがありません。だって主人公が一番のツンデレなんですから。暴力的な行動には出ないけれども、素直に気持ちを表現できないから。だから、「中途半端なことするならいっそ殴って」なんて感想を抱いちゃうし、それを口に出すこともない。「おい」と最初は強気に呼びかけておきながら(心の中で)、最後には「殴って」と丁寧な依頼文のカタチになっている(心の中で)。

 

 

ツンデレ男子きたぁー!!

 

と読みながら、これまでの重厚な世界観を放ったらかしにして、一人で萌えていたことを、ここに正直に告白します。

 

・・・ええと、真面目に話をしますが(?)、ツンデレ女子を魅力的に描き出すには、おそらくそれをとらえる一人称の視点もまたツンデレである必要があるのではないか。主人公に可愛げがあるからこそ、その視点に移るヒロインの言動もまた、可愛げのあるものに見え、それが一人称の文体として綴られていくのだから。

 

さっきの引用文で、たとえば「こいついきなり殴ってきやがった。軽くても痛いな」なんて冷静な一人称があっては、ヒロインのツンデレ感が激減するし、ツンデレであるかどうかも見えなくなってしまう。

 

だから逆説的にも、ヒロインのツンデレを可愛らしく描こうとすれば、その主人公をこそ可愛らしく描かなければならないという縛りが生まれるんじゃないかと、今さっき思って、こうして書き綴っています。

 

悪一先生、ごめん。こんな感想しか書けなくて。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はラクロスになります。

暴風ガールズファイト (ファミ通文庫)

暴風ガールズファイト (ファミ通文庫)

 

 

 

ライトノベルは斜め上から(38)――『L.A.T. 急襲!松北高校法律相談部①』

こんばんわ、じんたねです。

日本酒の飲み過ぎで、もう、べろんべろんです。

 

さて本日のお題はこちらです。

  

 

解題――リーガルマインド・アグレッション・テキスト(LAT)

 

 

1.作品概要

私たちはLeagal Assult Team=L.A.T.

単なる法律相談部ではありません。私たちの周りに存在する法的問題と正面から戦う集団よ!

 

平凡な高校生活を送るはずだった団藤法助は、ソーシャルゲームに嵌って親のクレジットカードを遣い込んでしまったばっかりに、校内でもヤバイと噂の法律相談部(LAT)に関わってしまう。

LATは法律相談部として登録されているが、その実態は法律を武器に戦う変人集団だった!

不当利得の返還、未成年者の行為取消、即時取得・・・でも多分中身は高校生の部活ラブコメです。

 

 

2.法律をテーマにした異色のライトノベル

職業モノというジャンルがありますが、本作品は、法律をテーマに扱っています。法律といえば、身近なところでいえば道路交通法に始まり、民法、刑法、などなどいろいろとあり、大学の法律学概論を受講しているような、そんな気持ちを懐かしく感じました。

 

作品の舞台は、島根県松江市ということで「どんだけローカルなんだよ!」ってツッコミを入れずにはおれませんでした。以前、出張の関係で何度か足を運んだことがあるのですけれど、本当によく雰囲気を再現している。松江あるあるネタがゴロゴロしている。本当に松江好きなんだね・・・鳥取県にチクるぞ

 

ええと、話がそれました。戻します。

 

本作品の舞台は、高校であり、そこで法律について学び実践する、いわゆるSOS団よろしく謎の部活動が、主軸になっています。彼ら彼女らは高校生という立場ではありますが、やっていることや目指していることは、ほぼ現実世界の弁護士だと言えるでしょう。

 

さて、特定のジャンルモノを扱うに際して、一番の躓きの石でありながら、一番の醍醐味でもあるのが、「どこまでその専門性を反映させるか」という古くて新しい問題です。

 

以前、『りゅうおうのおしごと!』というライトノベルについて触れたときに述べましたが、専門性が高過ぎると一般的な読者には理解されませんし、理解されるべく文字数を割いたとしても、それについてゆく気力を呼び起こしにくくなってしまいます。

 

かといって反対に、あまりにも簡単にしてしまうと、その職業ならではの面白さが減ってしまいます。ディテールを欠いた描写だけだと、読んでてもピンとこないというか、「へえ、それで?」という気分にさせてしまう危険性がある。

 

ここでバランスをとればいい、と考えるのは悪手でしょう。もっとも面白くない職業モノを書いてしまう危険性があるからです。中間をとるというのは、一見すると大人の判断で一番妥当な気もしますが、裏からいえば、どちらの立場から見てもつまらない作品になるということでもあります。一般的な読者には読みにくいわりに、専門性がなくてつまらない。

 

だからひとまずは、どちらかに針を振り切ってしまって、正反対の極をどれだけ拾うことができるかと考えるのがいいと、私自身は考えています。そこの矛盾に身を晒して、ぐぬぬと汗をかいたぶんだけ、面白い作品になるというのは、おそらくあながち間違ってはいないのではないかと。(ここはじんたねの主観なので、異論反論は大いにあるのだろうとは思っているのですが、ひとまずはそういう前提で話を進めさせてください)

 

で、本作品はどうかというと、明らかに専門性の側に針が振り切っている。かなり噛み砕いて説明してくれていますが、その筆致が専門的知識に価値をおいていることは一目瞭然です。

 

 

3.法律を支えるのは人

では、読みにくくつまらないのかといえば、まったくそんなことはない。きわめて、有益なライトノベルです。

 

専門的知識に価値を置いている。さきほどそう言いましたが、ちょっと語弊のある表現です。もっと正確に言い直すと、私たちが法律というものをどう見るべきか。法律がどのように機能しているものなのか(憲法をのぞいて)。それを弁護士の視点から、幾重にもキャラを変えて、説得的に主張しています

 

ざっくりと言ってしまえば(ざっくり言っちゃいけないですけど)、作者の法律観――リーガルマインド――が、作品の全面に出ている。この引用文が、端的にそれを示しています。

 

「それに、法令上の問題だけじゃない。無責任に相談に興じてる間はいいが、当事者の争いに巻き込まれるってことは、他人の人生に関わるってことだ。説得だ交渉だと感嘆に言ってるが、要は人格と人格のぶつかり合いだ。お前らの判断がひょっとしたら当事者の人生をひっくり返すかもしれない。しかしお前らは責任を取れる立場にない。……そこを理解してやらないと、必ず失敗する。他人にも迷惑をかける。そういうことをよく考えておけよと、俺は言いたいわけ」(203ページ)

 

規則的に適応して、それで終わり。ということでは全然まったくない。法律は言葉であり、言葉は解釈であり、解釈は未来に開かれている。未来に開かれているからといって、おのずから法律が変化していくことはない。その扉を開いて奮闘するのは、いつの時代も、その時代に生きている人間たちの生々しい実践にある。そこで汗をかき、血を流して、涙しろ――かなりマイルドに書かれてはいますが、突き詰めれば、それが法律なのだと、その実践に身を投じるのが弁護士なのだと、主張されています。

 

 

4.ライトノベル=ライトなノベル?

言いたいことが真正面に据えられていて、私個人は、とてもおもしろく読みました。言いたいことが、かなり事前に練られていないと、書き手にとっても主題というものは見えてこない。書きながら考え、考えながら書き続ける。たんに物語を収束させること、あるいはエンターテイメントとして追求すること、それらだけを考えていては、この優れた筆致にはならないでしょう。

 

ここは好みが分かれると思います。

 

人によっては重たさとして感じられるからです。つまりライトではない。これは文体や分量を変えたところで、根本的には消えない重たさでしょう。言いたいことが込められているということは、それと意見をことにする人にとっては、必ず、抵抗感をもたらすからです。

 

言いたいことから書かれたライトノベルがある、というのはだからとても珍しい。いや、こう言うべきでした。自分の言いたいことを、かなり言語化したうえで作品に落とし込んでいる作品は珍しい、と。このこと自体に、大きな価値があると思っています。

 

そして身近でありながら遠い、法律をテーマにしてくれている。読みながらリーガルマインドを理解するには、とてもいい。とてもいい(大事なことなので2回書きました)。

 

 

5.おわりに

本作品、現在では2巻まで出版されております。個人的には、言いたいこと先行型のライトノベルがもっとあったっていいと思っています。きっと書き続けることで、作者の意識も先鋭化し、さらに面白いものが生み出せるようになる。そんな期待を抱きながら、じんわりとした読後感を味わいました。

 

・・・鹿園寺先生、もっと書き続けてもいいのよ?

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラ!

大陸英雄戦記 1 (アース・スターノベル)

大陸英雄戦記 1 (アース・スターノベル)

 

 

ライトノベルは斜め上から(37)――『恋恋蓮歩の演習』

こんばんは、じんたねです。

本日も森博嗣は斜め上からをお送りします(?)

 

本日のお題はコチラ!

恋恋蓮歩の演習 (講談社文庫)

恋恋蓮歩の演習 (講談社文庫)

 

 

 

 

解題――会話文は語ってはならない

 

 

1.作品概要

航海中の豪華客船 完全密室から人間消失

 

世界一周中の豪華客船ヒミコ号に持ち込まれた天才画家・関根朔太(せきねさくた)の自画像を巡る陰謀。仕事のためその客船に乗り込んだ保呂草(ほろくさ)と紫子(むらさきこ)、無賃乗船した紅子と練無(ねりな)は、完全密室たる航海中の船内で男性客の奇妙な消失事件に遭遇する。交錯する謎、ロマンティックな罠、スリリングに深まるVシリーズ長編第6作!

 

 

2.ごく普通のプロットで、ごく普通ではない結論

本作品、ミステリー小説として分類することができると思います。というのも、ミステリーに詳しくない私がよんで、「ああ、あるある」な設定のオンパレードになっているからです。

 

曰わく付きの主人公、怪しいヒロイン(といってもどのキャラも怪しいですが)、主人公を目の敵にする刑事と冴えない部下、あまり当事者として関与しない説明係となる大学生たち、ブラフとして推理をミスリードするキャラクター、盗まれるための美術品を持ち歩いているお金持ち、その舞台となる豪華客船と密室トリックなどなど。金田一少年の事件簿名探偵コナンで育ってきた人間としては、ああ、なるほどなあ、というかたちになっています。

 

そしてこれは推測ですが、ミステリーにありがちな密室設定をおきながら、わざと謎解き部分を話の核に据えることなく、その魅力的な人間模様にストーリーの結末を持ってきています。おそらくミステリーの謎解き要素を知的パズルとして楽しもうとする読者にとっては(もちろん、本作品の謎ときも、大変軽やかで素晴らしいのですが)、やや肩すかしを食らったような、どこか騙されたような感覚になるのだと思われます。

 

さきほど「これは推測ですが」と前置きをしました。私はミステリー作品をあまり読まない人間です。複数の登場人物が出てきたり、建物の構造にかんする描写が多いと、途端に辛くなります。そういった限界があって、ミステリーのお約束がピンとこない部分があります。きっと王道をきわどい角度でずらしているというのは肌で感じるのですが、どこをどうずらしているのかは、私には判じかねるところがありました。

 

私にはひたすらキャラクターの可愛らしさ――というと正確ではありませんね。作者が可愛らしく描いているキャラクターへの愛着が私にも伝わってきて「豪華客船とかいいから、こいつら早く無駄話しないかな」なんて思いながらずっと読み進めていました。それくらいキャラクターが可愛い、というより、作者が可愛いと思う可愛らしさが追求されていました。

 

ひたすら紫子が可愛いねん。

なんでおっさんについて行くん。ちゃうやろ、大学生に恋しようよ。練無君はあれな、自重しような。

 

 

3.キャラクターの無駄話:キャラが立っていれば、もう勝利したようなものだ

本作品、私にとってはとにかくキャラクター同士の無駄話が面白かった。とりわけ、多くのキャラクターが恋愛を軸にした行動パターンを持っているので、それもまた、とても好みでした。

 

無駄話の演出は、実は、とても難しかったりします

 

多くの小説作品では、おおむね結論があってそれに向かってキャラクターたちは動きますし、ストーリーラインに関係のない会話に、どれだけの分量を割くか(ミスリード等を含めて)というのは、書く側としてはとても神経を使うからです。長すぎると退屈ですし、短すぎると無駄話にならない。ストーリーに関わりすぎると無駄話にならないし、ストーリーに無関係だと読む気が起きない。

 

本作品は「 」が多く使われています。これもまた書く側としても難しいものがあります。たとえばですが、

 

「それ」

「ん」

 

 

というやりとりがあるとします。これ、「 」だけだと意味がさっぱり分かりません。ですが、下のように補足を加えると全然違います。

 

「それ」

 Aは机に転がっている飲みかけの缶ビールを顎で指す。普段ならもう頬が真っ赤になっているのに、今もまだ健康的な肌色。つまりAは飲み足りないのだ。

「ん」

 そのことを察して、Bは缶ビールを手渡した。

 

 

これで状況が分かるようになります。「 」だけの読みやすさで組み立てようとすれば、状況の情報がかなり不足してしまいますし、それを補う工夫が必要になることが分かります

 

「それ、うちの飲みかけの缶ビールとってや」

「ん」

 

 

と書けば、会話文だけでもかなり補足説明ができますが、しかし現実的には、「うちの飲みかけの缶ビール」とまで説明的な発言はしませんつまり「 」で連なる小説を面白く読ませるには、その辺の虚実を織り交ぜる技術が必要になってきます

 

他にも、キャラクターたちの数を制限したり場面移動を減らすという方法があります。「 」だけで描きやすいシーンの代表格は通話です。キャラクターが自然と一対一になり、「 」が続けば、発言者はABABと繰り返しであると予測が聞きます。それに通話中は場面があまり動きません。発言内容こそがインフォメーションになるので、読み手もスムーズに理解できるからです。

 

私はあまり使いませんが、「 」動作「 」という文体も、その工夫の現れだと思っています。たとえば、

 

「どうぞ、では、足もとにお気をつけて、ご乗船下さいませ」係員は腕を伸ばしてスロープの方を示す。途中から階段になっていた。「はい、そちら様は?」(198頁)

 

会話文で動作をサンドイッチすることで、軽妙な読みやすさを維持しながら、場面の動きを表現できていることが分かると思います。

 

本作品、統計的をとればおそらく、一対一で食事など動きのない場面での会話が多い。そこでキャラクターたちの機微を描き出している。そういった工夫があって、しかもミステリーとして成立し、ひねりまで聞いている。「むむぅ!」と読みながら唸るしかありませんでした。

 

 

4.会話しない会話

それともう一つ。挙げればきりが無いので、そろそろ控えますが、会話文の会話らしさを出す方法として、会話しないというやり方があります。「会話しない会話」って言ってるけど、べつにじんたねの頭は正常に異常ですよ!

 

「 」を続けると、そのつながりを意識して、つい前の「 」と、後ろの「 」との間に、つながりを持たせようとします。一番多いパターンは、前者の「 」で質問をして、後者の「 」で答えるというもの「どうやってきたの?」「バスで」みたいなのです。

 

ですが、これは、現実的でもないし、ひねりもあまりない。まるで事務手続きのような会話になってしまって、キャラクターの機微が見えにくくなるキャラクターの誰もが、話したい話題をもち、避けたい話題や無視したい話題を持っている。だから「 」と「 」との間には、おのずと力関係のつなひきが生まれます。相手の疑問を切り捨て、自分のペースに巻き込む方法論もまた、キャラクターの個性によって変わってきます。

 

A「愛しています」

B「酔っているな?」

A「いけませんか?」

B「切るぞ」(325頁。ABはじんたねによる補足)

 

 

書きながら、なんとも耳たぶが真っ赤になるような電話での会話シーンですが、ここに2人の関係や性格が表れています。

 

まず「愛しています」という発言があるのですが、その発言に正面から答えていません。なぜそんな発言をするのか――酔っているからだ、という理性的な応答があります。ここに照れを読み取るのは女子の性でしょうが、それはさておき。「酔っているな?」という質問に、今度は真正面から「いけませんか」と答えているのに、それには「切るぞ」と酔っ払いの相手をする気はないという態度が表れています。

 

会話というのは、おおむね、ベタよりもメタのほうが優位にたちます。揚げ足取りをなぜしたがるかといえば、そのほうが、自分がえらいと錯覚することができるからです。

 

ここの会話文でも、Aがベタに情報のやりとりしようとしているのに、Bはそれに真正面から答えない。Bのほうが優位にある――おそらくそれはAが惚れているから、ということが読み取れます。そしてAは酔っ払ったときに「愛しています」というような人物である。おそらくは素面のときは、緊張感のある性格か、やせ我慢をしがちであり、酔ったときに態度が大きくなるという予断を、読者に与えることができます。

 

たった4行です。ほとんど「はい」「いいえ」レベルの分量です。でも、それでも2人の関係がよく伝わってくる、会話であることが分かると思います。もしあの会話を、問いと答え、というワンセットで組み立ててしまうと、

 

「愛しています」

「ありがとう」

 

 

終わり。という味気ない会話になります。相手の質問には答えない。これは現実でも当然ある会話であり、小説のようなフィクションにこそ濃厚に反映させなければならないやりとりなのです。

 

5.ダジャレを言うのは誰じゃ

最後に。本作品の無駄話演出として、ダジャレが多く出てきます。

 

これは何も作者がダジャレ大好きだから・・・かもしれませんけれど、たぶん、理由は違います。ダジャレ、つまり言葉遊びというのは、かなり時代が変わっても通用する部分が大きいから、時流に乗っているギャグだと、すぐに読めなくなってしまうから、いわば普遍性のある無駄話としてダジャレを採用しているのだと思います。

 

「お前、草生やすなよwwww」

「って、生やしてるのはそっちだろ!」

 

 

なんて無駄話を入れるのは、私は恐ろしい。2ちゃん文化をしらなければ、面白いと思ってはくれないから。とりわけインターネット等の情報の廃れるスピードは尋常ではないほど速い。「いつやるの」「今でしょ!」なんて書いてしまうと、もう、ね・・・。

 

そういった流行廃りを避けつつ、無駄話を面白くするには、時代の制約を回避するように工夫しなければならない。そんなときに強い武器となるのが言葉遊び。当面、日本語というフォーマットは変更されないからです。そして日本語がある程度読めれば、そのギャグの意味していることが理解できますから。

 

そんな工夫もちらほらと見え隠れします。本作品の場合は、英語のことが多いですが。

 

なんだか、森博嗣でもライトノベルでも作品論でもなかったブログですが、まあ、いいじゃないか。面白い作品ですので、ぜひ、これを機会に。あと、本作品のタイトルである「演習」の意味。ぜひ手にとって考えてみてください。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラです!

 

 

ライトノベルは斜め上から(36)――『ちょっと今から仕事やめてくる』

こんばんは、じんたねです。

やりたいことが多すぎて、どこから手をつけていいのやら、という日々です。

 

さて本日のお題はコチラ!

 

 

解題――現代的寓話

 

 

1.作品概要

この優しい物語をすべての働く人たちに

 

ブラック企業にこき使われて心身共に衰弱した隆は、無意識に線路に飛び込もうとしたところを「ヤマモト」と名乗る男に助けられた。

同級生を自称する彼に心を開き、何かと助けてもらう隆だが、本物の同級生は海外滞在中ということがわかる。

なぜ赤の他人をここまで気にかけてくれるのか? 気になった隆は、彼の名前で個人情報をネット検索するが、出てきたのは、三年前に激務で鬱になり自殺した男のニュースだった――

働く人ならみんな共感! スカっとできて最後は泣ける"すべての働く人たちに贈る、人生応援ストーリー"

 

 

2.サザエさんシンドローム

本作品は、そのタイトルから予想さえるように、いわゆるブラック企業で働く主人公が、偶然の出会いをきっかけにして人生を振り返り、仕事を辞めて新しい生き方を選ぶ、というものです。

 

作中にでてくる気分のめいったしまった状況の描写や、サザエさんシンドローム――日曜日にサザエさんを見ると、もう月曜日が始まってしまうとネガティヴな気持ちになるという現象――など、そういった鍵となる事柄や言葉がちりばめられています。

 

帯にあるように、「最後は泣けます」というコンセプトで書かれた作品であると言えるでしょう。

 

 

3.現代の寓話

さて、本作品の特徴と私が考えているものは、その寓話性です。寓話性、言い換えればフィクションらしさということなのですが、ここは補足説明が必要になります。

 

本作品、作品の舞台としてブラック企業であったり、鬱傾向の主人公であったりが登場するのですが、必ずしもリアルというわけではありません。ディテールにおいて「あれ、それでよかったの?」と、人物同士の摩擦が少なかったり、やや感情的にすぎる先輩や上司であったり、会社を辞める手続きがさっぱりしていたり、といったことがあります。ですが、こういった面に注目して「リアリティがない」と評するのは、作品の真価を曇らせてしまうと思っています。

 

なぜか。

これは寓話だから、です。

 

寓話、フィクションの機能の1つとして、現実を誇張したりあるいは省略したりすることによって、伝えたいこと・表現したいことを、より具体的に可視化させるというものがあります。

 

ガリバー旅行記ってありますよね。あれって、当時の社会を風刺している作品なんですよね。旅行記に見せかけて、同時代の人々を、あえて旅行でのイベントという寓話に仮託することによって描き出す。イソップ物語なんかは、そういう風刺や箴言の作品として解釈され続けてきたので、こちらのほうがイメージしやすいかもしれません。

 

ブラック企業の現状も、それに心病む人間も、リアルを追求しようとすれば、途方もない作業が待っています。ブラック企業も心を病んでしまうことも、いずれも千差万別であり、ある人にとってのリアルは、別の人にとっては生ぬるく見えたり、嘘っぽく見えたりすることがあるからです。

 

もちろん、本作品が注目しているリアルは、そんな簡単には済ませられないし、看過してはいけない問題もたくさんあることは承知しています。とはいえ、リアルを追求し続けていけば、それはルポルタージュに近くなります。ルポルタージュ的あるいはルポルタージュを書くこともとても面白く大切なことですが、おそらく本作品の作家さんは、それをしたかったわけではない。

 

できるだけ多くの人に手にとって欲しい、だから、なるべく個別具体的な状況は避け、緻密な描写を避けて,読みやすいものを書きたい、そう考えたのではいでしょうか。編集さんの立場もあったかもしれません。

 

そうすると、本作品の、背景描写の極端なまでの少なさや、会話メインで進むストーリーが、工夫と計算のうえでなされていることが見えてきます。ページ数も多いというわけではなく、本当に、気軽に手にとって読み終えてしまえる読みやすさです。

 

 

4.明るく語る悲劇=喜劇

私は、ここまでで現実を省略する方法論について述べました。もう一つ、誇張という方法論について触れて、ブログを終わろうと思います。

 

現実を省略し誇張する。これは小説に限らず、表現にまつわる、よくあるお話です。

 

現実の複雑怪奇な状況をできるだけトレースしようとすることもあれば、思い切って単純かすることもある。さっぱりとしていて普段は目に留めないことを、ここぞとばかりに手間をかけてクローズアップさせることもあります。

 

本作品は、重苦しい現実をある程度省略して、読みやすい寓話として造形されていました。それは逆から言えば、重苦しい現実を、ある種の明るさで誇張することによって、それを見えやすい形にしている、といえます。

 

重たい話。ずっと続くと気が滅入ってしまいます。書いている側としても、シリアスなシーンが続くと、瞳はよどみ、背中は丸くなり、肩や腰に力がはいり、ため息はこぼれ、と辛い気分になります。

 

本作品、全体的にユーモラスな部分が多い。ネクタイを新調して浮かれている主人公であったり、デートと称して男と飯を食べに行ったりする。そういったシーンは、ユーモラスな部分としては突出していると感じています。こうして重苦しい現実を、あえて明るく語ることで、喜劇として提示する。そんな工夫がなされていると思いました。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラを予定しています。

 

ライトノベルは斜め上から(35)――『ねこシス』

こんばんは、じんたねです。

最近は酒断ちを続けていますが、辛い……指先が震えてくる。

 

さて、本日のお題はコチラ!

ねこシス (電撃文庫)

ねこシス (電撃文庫)

 

 

 

 

解題――ライトノベル「を」書くのか、ライトノベル「で」書くのか

 

 

1.作品概要

人間に憧れる猫又姉妹の三女・美緒は、14歳にして、ようやく人間の姿に化けられるようになった。そのまま人間として生きていくかどうかは、まずは人間世界を体験してから決めろ―長姉にそう命じられた美緒は、人間を理解するために、七日七晩、人間の姿で過ごすことになる。慣れない二足歩行をはじめとして、人間の言葉、人間のお風呂、人間の友達、人間の恋愛―何もかもが初体験の美緒は戸惑うばかりで…!?『人間嫌い』の長女・かぐら。『人間の文化に傾倒』する次女・千夜子。『人間が大好き』な四女・鈴。そして『人間になったばかり』の三女・美緒。柄も性格もてんでバラバラな四姉妹が繰り広げる、ネコ耳ホームコメディ。

 

 

2.ほのぼの和風ファンタジー

作品概要をご覧になれば分かるように、本作品は、猫又たちが主人公。どれもが美少女であり、ほんのりと笑いあり涙ありの、まさにホームコメディとして1冊完結しています

 

シリアスすぎる展開もなければ、どぎついラブコメもない。異能バトルがあるわけでもなければ、異世界設定が顔を出しているわけでもない。最初から最後まで、ゆっくりとした温かい気持ちになれるストーリーで満ちています

 

人間に化けることのできるようになった美緒ちゃんは、そりゃあもう可愛い。俗にいう猫耳としっぽというキャラクター記号をしているのですが、そこかしこのドジな様子が、ほっこりさせること間違いなし。

 

ケモ耳属性がお好きな方はもちろんのこと、そうでないひとも、あるいはネコ好きのひともイヌ好きのひとも、その可愛らしさに参ってしまう。かんざきひろさんのイラストがまた、素晴らしい・・・!

 

 

3.サブカルチャーへの愛

さて、本作品。そんなほのぼの路線をひた走っているのですが、プロットに対して不釣合いな分量で記述されているシーンやセリフが散見されます。ちょっと引用してみましょう。

 

 雑然とした部屋だ。フローリングには各種フィギュアやプラモが散乱し、壁や襖のあちこちに映画やアニメのポスターが貼られている。/ベッドはなく、代わりに巨大なクローゼットと本棚がかなりのスペースを占領していた。/幅広のパソコンデスクには、PCの他、最新ゲーム機が繋がった24インチ液晶テレビが乗っている。/PCのディスプレイでは18禁乙女ゲームスクリーンセーバーが作動中。(136ページ)

 

・・・・・・高坂桐乃じゃん。

 

と思ったひとは、たぶん、その通りなのだと思います。こんなに妹に似ているはずがない設定が、ちらほらと見え隠れしています。

 

俺妹と設定被りだどうだ、という下品な話をしているのではなくてですね、このサブカルチャーにキャラが接しているシーンや、こういった描写は、とても活き活きとしているんです。

 

作者の文体は――思いのほかというのは失礼なのかもしれませんが――堅いものです。ひらがなの漢字への変換率は高く、「見逃す」が「看過」へと置き換えられるような二字熟語も多く、3人キャラクターが登場すれば、必ず、3人ともに発言と行動を与えて、位置関係を示すような、律儀な書き方がされています。

 

そういった文体を採用すれば、勢い、分量が増えがちになります。説明が丁寧になればなるほど、ストーリーの進む速度は遅くもなります。当たり前ですよね、丁寧にたくさん書くのですから。

 

なので本作品は、丁寧に書くスタイルを自覚しつつ、禁欲的に分量を抑えようとしているように、私には見えました。かさばらないよう、それでいて丁寧に分かるように。綱渡りをするような緊張感がある。

 

なんですが、なんです。

 

サブカルチャーに話が及ぶと、もう筆が走るわ走るわ。こちらも活字を追いかけながら「いいぞもっとやって! 素敵!」と声援を送りたくなるくらい。

 

「ああ、作者は、本当にライトノベルが好きなんだなぁ」と、その愛をひしひしと感じられます。

 

 

4.ライトノベル「を」書いている

さてさて。本ブログの解題にもなっている話題に入ります。

 

作者はライトノベルを愛している。私はそう感じます。だから、作者が書こうとしているものは、まぎれもなくライトノベルらしいライトノベル。「じんたね、お前の言動は、最近おかしいぞ」というツッコミはちょっと待ってください。おかしいのは元からですし、言いたいところは、もうちょっと先にあるんです・・・。

 

ライトノベルを書く理由も目的も千差万別。そのモチベーションも辞める理由もまた千差万別。ここで一般論を主張するつもりはないと、まずは前置きさせてください。

 

で、ライトノベルを書くとき、二つの分け方があるように思います。まず最初はライトノベル「を」書きたい。好きな作品があった、感銘を受けたライトノベルがある。だから私も、そんなライトノベルを書きたい。典型的なモチベーションの1つだろうと思います。本作品、そういったライトノベル「を」書きたいんだという情熱がこもっていました。

 

そしてもう一つですが、ライトノベル「で」書きたいというもの。これはまず書きたいこと言いたいことがあって、それを表現する手段としてライトノベルを選ぶというものです。多くの人に読まれる。あるいは若い人に手にとってもらえる。そういうモチベーションです。極端に言ってしまえば、言いたいことを言えれば、ライトノベルでなくてもいいという立場です。

 

何度も、但し書きをしないといけないのですが、両者は必ずしも明確に区分されるわけではないですし、この2つの極をとるとも限りません。ライトノベルの面白さを表現したいと思えば、それは「を」でもありますし「で」でもあり得ます。どちらか一方だけ、というのはあまり現実的ではないでしょう。話を整理するための『見立て』だと思って読んでください。

 

ライトノベル「を」書きたい場合、その書き手にとっての評価は、その再現性にあります。自分が感動したようなライトノベルに――それが思い出補正の産物であろうとなかろうと――どれだけ近づいたのか。

 

反対に、ライトノベル「で」書きたい場合、それは言いたいことにどれだけ近づいたのか、になります。言いたいことを正確に、表現豊かに、誤解なく、伝わるように書けたのかどうか。

 

 

5.「で」と「を」

本作品、文体は堅めであると述べました。それはどちらかといえば「で」で書くほうに向いていることが多い。丁寧で言葉を埋める書き方は、誤解が生じにくく、言いたいことを伝えられるから。

 

そして本作品のベクトルは「を」に向いている。特定の主義主張哲学、というよりは、サブカルチャーを、その楽しさを再現しようとしている。

 

本作品の最大の面白味だと、私が考えているのは、ライトノベル「を」書きたいという情熱が、ライトノベル「で」書きたいという文体に収まっていて(実は収まっていないところもあって)、両者のギャップが「にゃーん! 好き!」って興奮させるからだと思います。

 

この「にゃーん!」って感覚、ここ30分、パソコンの前で、どうにか言い換えようと頑張ってみたのですが、上手い言葉が見つからない。とにかく「にゃーん!」ってなります。猫耳いいよね、まじで。

 

個人的には俺妹よりも、本作品のほうが好きだったりします。

もう「にゃーん!」だから読んで!

(文責:じんたね)

 

次回はコチラを予定しております。

 

 

ライトノベルは斜め上から(34)――『青は何色』

こんばんは、じんたねです。

最近、めちゃくちゃ眠たい。起きていても眠たい。

 

さて、本日の作品はコチラ!

 

 

解題――君に不干渉を貫く勇気はあるか?

 

 

1.作品概要

本作品は、現実とも非現実ともつかないようなオープニングから始まります。主人公である女の子は、まったく身に覚えのない山荘のような場所にいます。ですが、なぜそこにいるのか自分が何者なのか。記憶が曖昧としていて分からない。とにかく、そこに住まうことで話は始まります。

 

その建物には、主人公以外にもさまざまなキャラクターたちが住んでいる。

 

ひどくずぼらな人、怒りっぽい人、嫉妬深い人、性欲の強い人、七つの大罪を連想させる人たちばかりですが、そんな彼女たちとの同居生活が始まります。そして、その女性たちとは違う「神様」と呼ばれる人物がいます。彼女には「話しかけてはいけない。問われても答えてはいけない」というルールがあり、主人公はそれに従って、最初はおどおどしながら「神様」とも過ごします。

 

ストーリーは、最初はほのぼのとした流れですが、次第に滝に落ちていき、滝つぼで溺れて這い上がれなくなるような展開を迎えていきます。

 

そこに住まう女性たちが、次々に死んでいきます。その死に方も独特で、ミステリーのような、殺人のような、死因も幻想的であったりします。そうしてキャラクターたちが全員死んでゆき、最後にはストーリー全体を覆っていた謎が、霧が晴れるように見えてくる。そんな展開になっています。

 

本作品、極めてグロテスクで性的な表現が散見されます。レイプや暴力は言うに及ばず、刃物を突き立てたり、肉が腐敗したり、内臓が見えたり、肉体関係が描写されたり。幻想的とは言いましたが、必ずしも一般的な意味ではないことには留意しておく必要があります。

 

 

2.自分探しの旅

本作品を一言で言ってしまうと、自分探しの旅、と言えるかもしれません。ややネタバレになりますが、共同生活をする人々はみな、主人公の抑圧してきた感情の写し鑑であるという設定になっています。

 

抑圧し、対話を否定してきたがために、彼女たちが登場する

 

こういった設定であれば、だいたい、その現身のキャラクター達と和解し、融合し、本当の自分を取り戻して、現実世界に帰ってくる。これがお約束であることが多い。

 

だが本作品、その流れを踏襲しつつも、ものの見事にそれを裏切る。どういうことか。主人公は、彼女たちと和解することは和解するのですが、その方法が異なっている。上述のようにキャラクターたちは死んでいきますが、後半の死因のほとんどは、主人公が殺すことによります分裂した自分を取り戻すため、自分を殺し続ける

 

そこに性的なエクスタシーを感じたり、快楽的な幻想によったりする描写が、何度も描かれています。これがどうして自分探しと言えるのか。最初に読んだとき、私はひどくビックリしたことを覚えています。

 

物語のクライマックス。すべての現身を殺し終えた主人公は、ついに自分自身の正体に気づきます。そしてかつて殺してきた彼女たちと過ごした、その場所に、幻想的なかたちで回帰します。こういっていいのか分からないのですが、主人公は、いったん現実に戻ってきたにもかかわらず、自分探しの旅を終了したにもかかわらず、もう一度旅に出ることを決意するのです。その旅は、でももう不要な旅。自分の正体に気付いており、自分を探す必要はないのですから。それでも主人公は旅を選び、現実世界との決別を果たします

 

このあたりのシーンでは、子宮と出産を連想させる描写が続き、「うあぁ!」とため息がこぼれたことを覚えています。最初はグロテスクにしか見えてなかったのですが、そこに込められた意図に気付いて、愕然としたというか。そこから振り返ってみれば、あのグロテスクな表現に込められた意味が、別様に解釈出来てきました。

 

 

3.不干渉の正義

その解釈ですが、以前、本作品の作者について、私はエッセイを書いたことがあります。それは以下のリンクから確認してくれれば分かると思いますが、作者には厳格で一貫したテーマがあると思っています。

それは本作品を読んだ後でも変わりません(無論、当人がどう感じているのかは別の話で、これはあくまでもじんたねにはそう解釈できる、という意味でしかありません)。

 

不干渉の正義――そう言えます。

 

他人との不必要なかかわりをもってはならない。他人へ干渉してはならない。それは自分と他人を食いつぶしてしまうから。どこまでも他人は他人であり、自分は自分である。この倫理観とも言っていいスタイルが、息づいている。

 

本作品もまた、不干渉の正義という観点から読み解くことができる。

 

主人公は、現実世界においてひどく傷ついた存在です。それこそ人を殺しかねないほど。そんな彼女の傷は、すべて他者の理不尽な干渉によってもたらされています。そして主人公の窮状を救おうとしてくる味方がいるのですが、その人もまた、主人公への干渉によって、命を落としてしまいます。そのことが主人公をさらに苦しめている。そういう前提がまずあります。

 

山荘のような場所で共同生活を始める主人公ですが、彼女は、そこの住人が死んでいくにつれて、まるで死んだ相手の人格を吸収するように人間らしくなっていきます。茫洋として意識すら怪しかった存在が、次第に自己主張を始め、周りを動かしていくようになる。

 

これ、実は、自分探しをしているのではないんです。

自分探しに見せかけた、別のことをしているのです。

 

お前は何を言っているんだ。さっきは自分探しの旅だと言ったじゃないか」というご指摘はその通りなのですが、もう少し説明をさせてください。主人公は自分を殺しています。よくよく考えてもみれば、殺すことと探すことは同じではありません(何を言っているんだろう俺は・・・)。

 

じゃあなんで殺すのか。7つの大罪の欲望は、言い換えれば、他者抜きには語れないものばかりです。他者無くしては成立しない欲望といえる。

(とはいえ、食欲などはあまり直接的にはつながっていません。本作中でも、食欲などの欲望をシンボライズしているキャラクターは、あっさり死んでしまいます)

そんな欲望のシンボルを仮託された自分の分身たち。それらを殺すことが何を意味するのか。

 

他者とのインターフェイスを切断すること、これです

 

不干渉の正義を貫くには、とことん他人からの/への、情報をシャットダウンしなければいけません。何らかの情報が入ってしまえば、リアクションせざるを得ず、したがって干渉が生まれてしまいます。目を閉じ、耳を塞ぎ、口をつぐみ、身を縮め、眠るように停止していても、私たちはどこにいても一人でいても、他人を意識せずにはおれない存在であり、不干渉の正義は、挫折してしまうことを運命づけられています

 

だったら目を潰し、耳を削ぎ、口を縫い合わせ、その身を滅ぼしてしまえばいい

 

不干渉の正義を、徹底的に貫くにはそれしかない。言い換えれば命を絶つしかない。そう、分かりますよね。主人公は不干渉の正義を貫こうと(現実世界での不幸を消化しようと)、自分の分身である存在を殺すのです。そこに、二度と、他者の臭いがまとわりつかないように

 

物語の最後で、主人公が現実世界を選ぶのではない、という結論も、その世界に住まわっては干渉し、干渉されてしまうからというロジックで見えてきます。

 

これほど強烈に、不干渉の正義を貫こうとする筆致に、驚かずにはおれません。自分を追い込みながらでなければ書けない。もし左うちわでこの作品がかけるとしたら、すでに不干渉の正義を貫徹しようとする原理的狂気を、手なずけていることになる。どちらにしても、真似できることではないでしょう。

 

 

4.なぜ正義なのか

ここで誤解してはいけないのは、本作品の不干渉が、他者への恐怖に由来するものではないということです。

 

もちろん他人が恐ろしい。他人なんか嫌だという引きこもりメンタリティがないとは言い切れないでしょうし、ものかきは多かれ少なかれ、そういうところがあるものでしょう。

 

正義、私はそう表現しました。

 

それは他者との干渉が、少なからず不幸をもたらすという認識から、それを何とか回避したいという他者への不干渉を生み出しています。

 

ここのねじれ、あるいは弁証法。他者に干渉してしまった、いや干渉したいという願いが、結果として不干渉の正義に行き着いてしまう。ここに高潔な覚悟を読み取れなければ、本作品のすべての文章にみなぎっている、内圧の高いエネルギーを感じ損ねてしまう。

 

不干渉が正義である。

この認識それ自体が、他人との干渉がもたらした苦痛によって支えられている。

 

このあまりにも人間的なスタート地点があるからこそ、本作品を含めた作者の生み出したものは、とても悲しくて、どこかユーモラスで、どれほどグロテスクで性的であっても、読んでしまう(苦手な人は駄目かもしれませんが)。それは人間自体がかかえる矛盾をごまかさずに書ききっているからでしょう。本作品は、そのなかでも、記念碑的なものとして位置付けられていい。

 

グロテスクであったり性的であったりする表現は、ここでの解釈にしたがうと、他者と干渉することそれ自体に内在している恐怖・不幸・まがまがしさ・理解不可能さ、そういったものを象徴的に示している。表面上、グロテスクで性的なだけではないからこそ、その描写には読ませる力があるのです。

 

 

5.おわりに

本作品は、これまでとりあげてきた多くの商業作品とはちがって、ネット上で無料でよめます。書く者がいて読む者がいた。そして突き動かされずにはおれなかった。どのような媒体、どのようなフィールドにおいても、ここを外しては、物語は意味がない。そしてその可能性は、人の数の複雑な関数関係にあり、物語はその関数の結節点にあります。物語はまさに、つねにすでに、一期一会。

 

もう一度いいますよ? 無料です。今すぐ読めます。

 

どうでしょう、皆様も一期一会に賭けてみては。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります!

ねこシス (電撃文庫)

ねこシス (電撃文庫)