ライトノベルは斜め上から(37)――『恋恋蓮歩の演習』

こんばんは、じんたねです。

本日も森博嗣は斜め上からをお送りします(?)

 

本日のお題はコチラ!

恋恋蓮歩の演習 (講談社文庫)

恋恋蓮歩の演習 (講談社文庫)

 

 

 

 

解題――会話文は語ってはならない

 

 

1.作品概要

航海中の豪華客船 完全密室から人間消失

 

世界一周中の豪華客船ヒミコ号に持ち込まれた天才画家・関根朔太(せきねさくた)の自画像を巡る陰謀。仕事のためその客船に乗り込んだ保呂草(ほろくさ)と紫子(むらさきこ)、無賃乗船した紅子と練無(ねりな)は、完全密室たる航海中の船内で男性客の奇妙な消失事件に遭遇する。交錯する謎、ロマンティックな罠、スリリングに深まるVシリーズ長編第6作!

 

 

2.ごく普通のプロットで、ごく普通ではない結論

本作品、ミステリー小説として分類することができると思います。というのも、ミステリーに詳しくない私がよんで、「ああ、あるある」な設定のオンパレードになっているからです。

 

曰わく付きの主人公、怪しいヒロイン(といってもどのキャラも怪しいですが)、主人公を目の敵にする刑事と冴えない部下、あまり当事者として関与しない説明係となる大学生たち、ブラフとして推理をミスリードするキャラクター、盗まれるための美術品を持ち歩いているお金持ち、その舞台となる豪華客船と密室トリックなどなど。金田一少年の事件簿名探偵コナンで育ってきた人間としては、ああ、なるほどなあ、というかたちになっています。

 

そしてこれは推測ですが、ミステリーにありがちな密室設定をおきながら、わざと謎解き部分を話の核に据えることなく、その魅力的な人間模様にストーリーの結末を持ってきています。おそらくミステリーの謎解き要素を知的パズルとして楽しもうとする読者にとっては(もちろん、本作品の謎ときも、大変軽やかで素晴らしいのですが)、やや肩すかしを食らったような、どこか騙されたような感覚になるのだと思われます。

 

さきほど「これは推測ですが」と前置きをしました。私はミステリー作品をあまり読まない人間です。複数の登場人物が出てきたり、建物の構造にかんする描写が多いと、途端に辛くなります。そういった限界があって、ミステリーのお約束がピンとこない部分があります。きっと王道をきわどい角度でずらしているというのは肌で感じるのですが、どこをどうずらしているのかは、私には判じかねるところがありました。

 

私にはひたすらキャラクターの可愛らしさ――というと正確ではありませんね。作者が可愛らしく描いているキャラクターへの愛着が私にも伝わってきて「豪華客船とかいいから、こいつら早く無駄話しないかな」なんて思いながらずっと読み進めていました。それくらいキャラクターが可愛い、というより、作者が可愛いと思う可愛らしさが追求されていました。

 

ひたすら紫子が可愛いねん。

なんでおっさんについて行くん。ちゃうやろ、大学生に恋しようよ。練無君はあれな、自重しような。

 

 

3.キャラクターの無駄話:キャラが立っていれば、もう勝利したようなものだ

本作品、私にとってはとにかくキャラクター同士の無駄話が面白かった。とりわけ、多くのキャラクターが恋愛を軸にした行動パターンを持っているので、それもまた、とても好みでした。

 

無駄話の演出は、実は、とても難しかったりします

 

多くの小説作品では、おおむね結論があってそれに向かってキャラクターたちは動きますし、ストーリーラインに関係のない会話に、どれだけの分量を割くか(ミスリード等を含めて)というのは、書く側としてはとても神経を使うからです。長すぎると退屈ですし、短すぎると無駄話にならない。ストーリーに関わりすぎると無駄話にならないし、ストーリーに無関係だと読む気が起きない。

 

本作品は「 」が多く使われています。これもまた書く側としても難しいものがあります。たとえばですが、

 

「それ」

「ん」

 

 

というやりとりがあるとします。これ、「 」だけだと意味がさっぱり分かりません。ですが、下のように補足を加えると全然違います。

 

「それ」

 Aは机に転がっている飲みかけの缶ビールを顎で指す。普段ならもう頬が真っ赤になっているのに、今もまだ健康的な肌色。つまりAは飲み足りないのだ。

「ん」

 そのことを察して、Bは缶ビールを手渡した。

 

 

これで状況が分かるようになります。「 」だけの読みやすさで組み立てようとすれば、状況の情報がかなり不足してしまいますし、それを補う工夫が必要になることが分かります

 

「それ、うちの飲みかけの缶ビールとってや」

「ん」

 

 

と書けば、会話文だけでもかなり補足説明ができますが、しかし現実的には、「うちの飲みかけの缶ビール」とまで説明的な発言はしませんつまり「 」で連なる小説を面白く読ませるには、その辺の虚実を織り交ぜる技術が必要になってきます

 

他にも、キャラクターたちの数を制限したり場面移動を減らすという方法があります。「 」だけで描きやすいシーンの代表格は通話です。キャラクターが自然と一対一になり、「 」が続けば、発言者はABABと繰り返しであると予測が聞きます。それに通話中は場面があまり動きません。発言内容こそがインフォメーションになるので、読み手もスムーズに理解できるからです。

 

私はあまり使いませんが、「 」動作「 」という文体も、その工夫の現れだと思っています。たとえば、

 

「どうぞ、では、足もとにお気をつけて、ご乗船下さいませ」係員は腕を伸ばしてスロープの方を示す。途中から階段になっていた。「はい、そちら様は?」(198頁)

 

会話文で動作をサンドイッチすることで、軽妙な読みやすさを維持しながら、場面の動きを表現できていることが分かると思います。

 

本作品、統計的をとればおそらく、一対一で食事など動きのない場面での会話が多い。そこでキャラクターたちの機微を描き出している。そういった工夫があって、しかもミステリーとして成立し、ひねりまで聞いている。「むむぅ!」と読みながら唸るしかありませんでした。

 

 

4.会話しない会話

それともう一つ。挙げればきりが無いので、そろそろ控えますが、会話文の会話らしさを出す方法として、会話しないというやり方があります。「会話しない会話」って言ってるけど、べつにじんたねの頭は正常に異常ですよ!

 

「 」を続けると、そのつながりを意識して、つい前の「 」と、後ろの「 」との間に、つながりを持たせようとします。一番多いパターンは、前者の「 」で質問をして、後者の「 」で答えるというもの「どうやってきたの?」「バスで」みたいなのです。

 

ですが、これは、現実的でもないし、ひねりもあまりない。まるで事務手続きのような会話になってしまって、キャラクターの機微が見えにくくなるキャラクターの誰もが、話したい話題をもち、避けたい話題や無視したい話題を持っている。だから「 」と「 」との間には、おのずと力関係のつなひきが生まれます。相手の疑問を切り捨て、自分のペースに巻き込む方法論もまた、キャラクターの個性によって変わってきます。

 

A「愛しています」

B「酔っているな?」

A「いけませんか?」

B「切るぞ」(325頁。ABはじんたねによる補足)

 

 

書きながら、なんとも耳たぶが真っ赤になるような電話での会話シーンですが、ここに2人の関係や性格が表れています。

 

まず「愛しています」という発言があるのですが、その発言に正面から答えていません。なぜそんな発言をするのか――酔っているからだ、という理性的な応答があります。ここに照れを読み取るのは女子の性でしょうが、それはさておき。「酔っているな?」という質問に、今度は真正面から「いけませんか」と答えているのに、それには「切るぞ」と酔っ払いの相手をする気はないという態度が表れています。

 

会話というのは、おおむね、ベタよりもメタのほうが優位にたちます。揚げ足取りをなぜしたがるかといえば、そのほうが、自分がえらいと錯覚することができるからです。

 

ここの会話文でも、Aがベタに情報のやりとりしようとしているのに、Bはそれに真正面から答えない。Bのほうが優位にある――おそらくそれはAが惚れているから、ということが読み取れます。そしてAは酔っ払ったときに「愛しています」というような人物である。おそらくは素面のときは、緊張感のある性格か、やせ我慢をしがちであり、酔ったときに態度が大きくなるという予断を、読者に与えることができます。

 

たった4行です。ほとんど「はい」「いいえ」レベルの分量です。でも、それでも2人の関係がよく伝わってくる、会話であることが分かると思います。もしあの会話を、問いと答え、というワンセットで組み立ててしまうと、

 

「愛しています」

「ありがとう」

 

 

終わり。という味気ない会話になります。相手の質問には答えない。これは現実でも当然ある会話であり、小説のようなフィクションにこそ濃厚に反映させなければならないやりとりなのです。

 

5.ダジャレを言うのは誰じゃ

最後に。本作品の無駄話演出として、ダジャレが多く出てきます。

 

これは何も作者がダジャレ大好きだから・・・かもしれませんけれど、たぶん、理由は違います。ダジャレ、つまり言葉遊びというのは、かなり時代が変わっても通用する部分が大きいから、時流に乗っているギャグだと、すぐに読めなくなってしまうから、いわば普遍性のある無駄話としてダジャレを採用しているのだと思います。

 

「お前、草生やすなよwwww」

「って、生やしてるのはそっちだろ!」

 

 

なんて無駄話を入れるのは、私は恐ろしい。2ちゃん文化をしらなければ、面白いと思ってはくれないから。とりわけインターネット等の情報の廃れるスピードは尋常ではないほど速い。「いつやるの」「今でしょ!」なんて書いてしまうと、もう、ね・・・。

 

そういった流行廃りを避けつつ、無駄話を面白くするには、時代の制約を回避するように工夫しなければならない。そんなときに強い武器となるのが言葉遊び。当面、日本語というフォーマットは変更されないからです。そして日本語がある程度読めれば、そのギャグの意味していることが理解できますから。

 

そんな工夫もちらほらと見え隠れします。本作品の場合は、英語のことが多いですが。

 

なんだか、森博嗣でもライトノベルでも作品論でもなかったブログですが、まあ、いいじゃないか。面白い作品ですので、ぜひ、これを機会に。あと、本作品のタイトルである「演習」の意味。ぜひ手にとって考えてみてください。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラです!

 

 

ライトノベルは斜め上から(36)――『ちょっと今から仕事やめてくる』

こんばんは、じんたねです。

やりたいことが多すぎて、どこから手をつけていいのやら、という日々です。

 

さて本日のお題はコチラ!

 

 

解題――現代的寓話

 

 

1.作品概要

この優しい物語をすべての働く人たちに

 

ブラック企業にこき使われて心身共に衰弱した隆は、無意識に線路に飛び込もうとしたところを「ヤマモト」と名乗る男に助けられた。

同級生を自称する彼に心を開き、何かと助けてもらう隆だが、本物の同級生は海外滞在中ということがわかる。

なぜ赤の他人をここまで気にかけてくれるのか? 気になった隆は、彼の名前で個人情報をネット検索するが、出てきたのは、三年前に激務で鬱になり自殺した男のニュースだった――

働く人ならみんな共感! スカっとできて最後は泣ける"すべての働く人たちに贈る、人生応援ストーリー"

 

 

2.サザエさんシンドローム

本作品は、そのタイトルから予想さえるように、いわゆるブラック企業で働く主人公が、偶然の出会いをきっかけにして人生を振り返り、仕事を辞めて新しい生き方を選ぶ、というものです。

 

作中にでてくる気分のめいったしまった状況の描写や、サザエさんシンドローム――日曜日にサザエさんを見ると、もう月曜日が始まってしまうとネガティヴな気持ちになるという現象――など、そういった鍵となる事柄や言葉がちりばめられています。

 

帯にあるように、「最後は泣けます」というコンセプトで書かれた作品であると言えるでしょう。

 

 

3.現代の寓話

さて、本作品の特徴と私が考えているものは、その寓話性です。寓話性、言い換えればフィクションらしさということなのですが、ここは補足説明が必要になります。

 

本作品、作品の舞台としてブラック企業であったり、鬱傾向の主人公であったりが登場するのですが、必ずしもリアルというわけではありません。ディテールにおいて「あれ、それでよかったの?」と、人物同士の摩擦が少なかったり、やや感情的にすぎる先輩や上司であったり、会社を辞める手続きがさっぱりしていたり、といったことがあります。ですが、こういった面に注目して「リアリティがない」と評するのは、作品の真価を曇らせてしまうと思っています。

 

なぜか。

これは寓話だから、です。

 

寓話、フィクションの機能の1つとして、現実を誇張したりあるいは省略したりすることによって、伝えたいこと・表現したいことを、より具体的に可視化させるというものがあります。

 

ガリバー旅行記ってありますよね。あれって、当時の社会を風刺している作品なんですよね。旅行記に見せかけて、同時代の人々を、あえて旅行でのイベントという寓話に仮託することによって描き出す。イソップ物語なんかは、そういう風刺や箴言の作品として解釈され続けてきたので、こちらのほうがイメージしやすいかもしれません。

 

ブラック企業の現状も、それに心病む人間も、リアルを追求しようとすれば、途方もない作業が待っています。ブラック企業も心を病んでしまうことも、いずれも千差万別であり、ある人にとってのリアルは、別の人にとっては生ぬるく見えたり、嘘っぽく見えたりすることがあるからです。

 

もちろん、本作品が注目しているリアルは、そんな簡単には済ませられないし、看過してはいけない問題もたくさんあることは承知しています。とはいえ、リアルを追求し続けていけば、それはルポルタージュに近くなります。ルポルタージュ的あるいはルポルタージュを書くこともとても面白く大切なことですが、おそらく本作品の作家さんは、それをしたかったわけではない。

 

できるだけ多くの人に手にとって欲しい、だから、なるべく個別具体的な状況は避け、緻密な描写を避けて,読みやすいものを書きたい、そう考えたのではいでしょうか。編集さんの立場もあったかもしれません。

 

そうすると、本作品の、背景描写の極端なまでの少なさや、会話メインで進むストーリーが、工夫と計算のうえでなされていることが見えてきます。ページ数も多いというわけではなく、本当に、気軽に手にとって読み終えてしまえる読みやすさです。

 

 

4.明るく語る悲劇=喜劇

私は、ここまでで現実を省略する方法論について述べました。もう一つ、誇張という方法論について触れて、ブログを終わろうと思います。

 

現実を省略し誇張する。これは小説に限らず、表現にまつわる、よくあるお話です。

 

現実の複雑怪奇な状況をできるだけトレースしようとすることもあれば、思い切って単純かすることもある。さっぱりとしていて普段は目に留めないことを、ここぞとばかりに手間をかけてクローズアップさせることもあります。

 

本作品は、重苦しい現実をある程度省略して、読みやすい寓話として造形されていました。それは逆から言えば、重苦しい現実を、ある種の明るさで誇張することによって、それを見えやすい形にしている、といえます。

 

重たい話。ずっと続くと気が滅入ってしまいます。書いている側としても、シリアスなシーンが続くと、瞳はよどみ、背中は丸くなり、肩や腰に力がはいり、ため息はこぼれ、と辛い気分になります。

 

本作品、全体的にユーモラスな部分が多い。ネクタイを新調して浮かれている主人公であったり、デートと称して男と飯を食べに行ったりする。そういったシーンは、ユーモラスな部分としては突出していると感じています。こうして重苦しい現実を、あえて明るく語ることで、喜劇として提示する。そんな工夫がなされていると思いました。

(文責:じんたね)

 

次回作はコチラを予定しています。

 

ライトノベルは斜め上から(35)――『ねこシス』

こんばんは、じんたねです。

最近は酒断ちを続けていますが、辛い……指先が震えてくる。

 

さて、本日のお題はコチラ!

ねこシス (電撃文庫)

ねこシス (電撃文庫)

 

 

 

 

解題――ライトノベル「を」書くのか、ライトノベル「で」書くのか

 

 

1.作品概要

人間に憧れる猫又姉妹の三女・美緒は、14歳にして、ようやく人間の姿に化けられるようになった。そのまま人間として生きていくかどうかは、まずは人間世界を体験してから決めろ―長姉にそう命じられた美緒は、人間を理解するために、七日七晩、人間の姿で過ごすことになる。慣れない二足歩行をはじめとして、人間の言葉、人間のお風呂、人間の友達、人間の恋愛―何もかもが初体験の美緒は戸惑うばかりで…!?『人間嫌い』の長女・かぐら。『人間の文化に傾倒』する次女・千夜子。『人間が大好き』な四女・鈴。そして『人間になったばかり』の三女・美緒。柄も性格もてんでバラバラな四姉妹が繰り広げる、ネコ耳ホームコメディ。

 

 

2.ほのぼの和風ファンタジー

作品概要をご覧になれば分かるように、本作品は、猫又たちが主人公。どれもが美少女であり、ほんのりと笑いあり涙ありの、まさにホームコメディとして1冊完結しています

 

シリアスすぎる展開もなければ、どぎついラブコメもない。異能バトルがあるわけでもなければ、異世界設定が顔を出しているわけでもない。最初から最後まで、ゆっくりとした温かい気持ちになれるストーリーで満ちています

 

人間に化けることのできるようになった美緒ちゃんは、そりゃあもう可愛い。俗にいう猫耳としっぽというキャラクター記号をしているのですが、そこかしこのドジな様子が、ほっこりさせること間違いなし。

 

ケモ耳属性がお好きな方はもちろんのこと、そうでないひとも、あるいはネコ好きのひともイヌ好きのひとも、その可愛らしさに参ってしまう。かんざきひろさんのイラストがまた、素晴らしい・・・!

 

 

3.サブカルチャーへの愛

さて、本作品。そんなほのぼの路線をひた走っているのですが、プロットに対して不釣合いな分量で記述されているシーンやセリフが散見されます。ちょっと引用してみましょう。

 

 雑然とした部屋だ。フローリングには各種フィギュアやプラモが散乱し、壁や襖のあちこちに映画やアニメのポスターが貼られている。/ベッドはなく、代わりに巨大なクローゼットと本棚がかなりのスペースを占領していた。/幅広のパソコンデスクには、PCの他、最新ゲーム機が繋がった24インチ液晶テレビが乗っている。/PCのディスプレイでは18禁乙女ゲームスクリーンセーバーが作動中。(136ページ)

 

・・・・・・高坂桐乃じゃん。

 

と思ったひとは、たぶん、その通りなのだと思います。こんなに妹に似ているはずがない設定が、ちらほらと見え隠れしています。

 

俺妹と設定被りだどうだ、という下品な話をしているのではなくてですね、このサブカルチャーにキャラが接しているシーンや、こういった描写は、とても活き活きとしているんです。

 

作者の文体は――思いのほかというのは失礼なのかもしれませんが――堅いものです。ひらがなの漢字への変換率は高く、「見逃す」が「看過」へと置き換えられるような二字熟語も多く、3人キャラクターが登場すれば、必ず、3人ともに発言と行動を与えて、位置関係を示すような、律儀な書き方がされています。

 

そういった文体を採用すれば、勢い、分量が増えがちになります。説明が丁寧になればなるほど、ストーリーの進む速度は遅くもなります。当たり前ですよね、丁寧にたくさん書くのですから。

 

なので本作品は、丁寧に書くスタイルを自覚しつつ、禁欲的に分量を抑えようとしているように、私には見えました。かさばらないよう、それでいて丁寧に分かるように。綱渡りをするような緊張感がある。

 

なんですが、なんです。

 

サブカルチャーに話が及ぶと、もう筆が走るわ走るわ。こちらも活字を追いかけながら「いいぞもっとやって! 素敵!」と声援を送りたくなるくらい。

 

「ああ、作者は、本当にライトノベルが好きなんだなぁ」と、その愛をひしひしと感じられます。

 

 

4.ライトノベル「を」書いている

さてさて。本ブログの解題にもなっている話題に入ります。

 

作者はライトノベルを愛している。私はそう感じます。だから、作者が書こうとしているものは、まぎれもなくライトノベルらしいライトノベル。「じんたね、お前の言動は、最近おかしいぞ」というツッコミはちょっと待ってください。おかしいのは元からですし、言いたいところは、もうちょっと先にあるんです・・・。

 

ライトノベルを書く理由も目的も千差万別。そのモチベーションも辞める理由もまた千差万別。ここで一般論を主張するつもりはないと、まずは前置きさせてください。

 

で、ライトノベルを書くとき、二つの分け方があるように思います。まず最初はライトノベル「を」書きたい。好きな作品があった、感銘を受けたライトノベルがある。だから私も、そんなライトノベルを書きたい。典型的なモチベーションの1つだろうと思います。本作品、そういったライトノベル「を」書きたいんだという情熱がこもっていました。

 

そしてもう一つですが、ライトノベル「で」書きたいというもの。これはまず書きたいこと言いたいことがあって、それを表現する手段としてライトノベルを選ぶというものです。多くの人に読まれる。あるいは若い人に手にとってもらえる。そういうモチベーションです。極端に言ってしまえば、言いたいことを言えれば、ライトノベルでなくてもいいという立場です。

 

何度も、但し書きをしないといけないのですが、両者は必ずしも明確に区分されるわけではないですし、この2つの極をとるとも限りません。ライトノベルの面白さを表現したいと思えば、それは「を」でもありますし「で」でもあり得ます。どちらか一方だけ、というのはあまり現実的ではないでしょう。話を整理するための『見立て』だと思って読んでください。

 

ライトノベル「を」書きたい場合、その書き手にとっての評価は、その再現性にあります。自分が感動したようなライトノベルに――それが思い出補正の産物であろうとなかろうと――どれだけ近づいたのか。

 

反対に、ライトノベル「で」書きたい場合、それは言いたいことにどれだけ近づいたのか、になります。言いたいことを正確に、表現豊かに、誤解なく、伝わるように書けたのかどうか。

 

 

5.「で」と「を」

本作品、文体は堅めであると述べました。それはどちらかといえば「で」で書くほうに向いていることが多い。丁寧で言葉を埋める書き方は、誤解が生じにくく、言いたいことを伝えられるから。

 

そして本作品のベクトルは「を」に向いている。特定の主義主張哲学、というよりは、サブカルチャーを、その楽しさを再現しようとしている。

 

本作品の最大の面白味だと、私が考えているのは、ライトノベル「を」書きたいという情熱が、ライトノベル「で」書きたいという文体に収まっていて(実は収まっていないところもあって)、両者のギャップが「にゃーん! 好き!」って興奮させるからだと思います。

 

この「にゃーん!」って感覚、ここ30分、パソコンの前で、どうにか言い換えようと頑張ってみたのですが、上手い言葉が見つからない。とにかく「にゃーん!」ってなります。猫耳いいよね、まじで。

 

個人的には俺妹よりも、本作品のほうが好きだったりします。

もう「にゃーん!」だから読んで!

(文責:じんたね)

 

次回はコチラを予定しております。

 

 

ライトノベルは斜め上から(34)――『青は何色』

こんばんは、じんたねです。

最近、めちゃくちゃ眠たい。起きていても眠たい。

 

さて、本日の作品はコチラ!

 

 

解題――君に不干渉を貫く勇気はあるか?

 

 

1.作品概要

本作品は、現実とも非現実ともつかないようなオープニングから始まります。主人公である女の子は、まったく身に覚えのない山荘のような場所にいます。ですが、なぜそこにいるのか自分が何者なのか。記憶が曖昧としていて分からない。とにかく、そこに住まうことで話は始まります。

 

その建物には、主人公以外にもさまざまなキャラクターたちが住んでいる。

 

ひどくずぼらな人、怒りっぽい人、嫉妬深い人、性欲の強い人、七つの大罪を連想させる人たちばかりですが、そんな彼女たちとの同居生活が始まります。そして、その女性たちとは違う「神様」と呼ばれる人物がいます。彼女には「話しかけてはいけない。問われても答えてはいけない」というルールがあり、主人公はそれに従って、最初はおどおどしながら「神様」とも過ごします。

 

ストーリーは、最初はほのぼのとした流れですが、次第に滝に落ちていき、滝つぼで溺れて這い上がれなくなるような展開を迎えていきます。

 

そこに住まう女性たちが、次々に死んでいきます。その死に方も独特で、ミステリーのような、殺人のような、死因も幻想的であったりします。そうしてキャラクターたちが全員死んでゆき、最後にはストーリー全体を覆っていた謎が、霧が晴れるように見えてくる。そんな展開になっています。

 

本作品、極めてグロテスクで性的な表現が散見されます。レイプや暴力は言うに及ばず、刃物を突き立てたり、肉が腐敗したり、内臓が見えたり、肉体関係が描写されたり。幻想的とは言いましたが、必ずしも一般的な意味ではないことには留意しておく必要があります。

 

 

2.自分探しの旅

本作品を一言で言ってしまうと、自分探しの旅、と言えるかもしれません。ややネタバレになりますが、共同生活をする人々はみな、主人公の抑圧してきた感情の写し鑑であるという設定になっています。

 

抑圧し、対話を否定してきたがために、彼女たちが登場する

 

こういった設定であれば、だいたい、その現身のキャラクター達と和解し、融合し、本当の自分を取り戻して、現実世界に帰ってくる。これがお約束であることが多い。

 

だが本作品、その流れを踏襲しつつも、ものの見事にそれを裏切る。どういうことか。主人公は、彼女たちと和解することは和解するのですが、その方法が異なっている。上述のようにキャラクターたちは死んでいきますが、後半の死因のほとんどは、主人公が殺すことによります分裂した自分を取り戻すため、自分を殺し続ける

 

そこに性的なエクスタシーを感じたり、快楽的な幻想によったりする描写が、何度も描かれています。これがどうして自分探しと言えるのか。最初に読んだとき、私はひどくビックリしたことを覚えています。

 

物語のクライマックス。すべての現身を殺し終えた主人公は、ついに自分自身の正体に気づきます。そしてかつて殺してきた彼女たちと過ごした、その場所に、幻想的なかたちで回帰します。こういっていいのか分からないのですが、主人公は、いったん現実に戻ってきたにもかかわらず、自分探しの旅を終了したにもかかわらず、もう一度旅に出ることを決意するのです。その旅は、でももう不要な旅。自分の正体に気付いており、自分を探す必要はないのですから。それでも主人公は旅を選び、現実世界との決別を果たします

 

このあたりのシーンでは、子宮と出産を連想させる描写が続き、「うあぁ!」とため息がこぼれたことを覚えています。最初はグロテスクにしか見えてなかったのですが、そこに込められた意図に気付いて、愕然としたというか。そこから振り返ってみれば、あのグロテスクな表現に込められた意味が、別様に解釈出来てきました。

 

 

3.不干渉の正義

その解釈ですが、以前、本作品の作者について、私はエッセイを書いたことがあります。それは以下のリンクから確認してくれれば分かると思いますが、作者には厳格で一貫したテーマがあると思っています。

それは本作品を読んだ後でも変わりません(無論、当人がどう感じているのかは別の話で、これはあくまでもじんたねにはそう解釈できる、という意味でしかありません)。

 

不干渉の正義――そう言えます。

 

他人との不必要なかかわりをもってはならない。他人へ干渉してはならない。それは自分と他人を食いつぶしてしまうから。どこまでも他人は他人であり、自分は自分である。この倫理観とも言っていいスタイルが、息づいている。

 

本作品もまた、不干渉の正義という観点から読み解くことができる。

 

主人公は、現実世界においてひどく傷ついた存在です。それこそ人を殺しかねないほど。そんな彼女の傷は、すべて他者の理不尽な干渉によってもたらされています。そして主人公の窮状を救おうとしてくる味方がいるのですが、その人もまた、主人公への干渉によって、命を落としてしまいます。そのことが主人公をさらに苦しめている。そういう前提がまずあります。

 

山荘のような場所で共同生活を始める主人公ですが、彼女は、そこの住人が死んでいくにつれて、まるで死んだ相手の人格を吸収するように人間らしくなっていきます。茫洋として意識すら怪しかった存在が、次第に自己主張を始め、周りを動かしていくようになる。

 

これ、実は、自分探しをしているのではないんです。

自分探しに見せかけた、別のことをしているのです。

 

お前は何を言っているんだ。さっきは自分探しの旅だと言ったじゃないか」というご指摘はその通りなのですが、もう少し説明をさせてください。主人公は自分を殺しています。よくよく考えてもみれば、殺すことと探すことは同じではありません(何を言っているんだろう俺は・・・)。

 

じゃあなんで殺すのか。7つの大罪の欲望は、言い換えれば、他者抜きには語れないものばかりです。他者無くしては成立しない欲望といえる。

(とはいえ、食欲などはあまり直接的にはつながっていません。本作中でも、食欲などの欲望をシンボライズしているキャラクターは、あっさり死んでしまいます)

そんな欲望のシンボルを仮託された自分の分身たち。それらを殺すことが何を意味するのか。

 

他者とのインターフェイスを切断すること、これです

 

不干渉の正義を貫くには、とことん他人からの/への、情報をシャットダウンしなければいけません。何らかの情報が入ってしまえば、リアクションせざるを得ず、したがって干渉が生まれてしまいます。目を閉じ、耳を塞ぎ、口をつぐみ、身を縮め、眠るように停止していても、私たちはどこにいても一人でいても、他人を意識せずにはおれない存在であり、不干渉の正義は、挫折してしまうことを運命づけられています

 

だったら目を潰し、耳を削ぎ、口を縫い合わせ、その身を滅ぼしてしまえばいい

 

不干渉の正義を、徹底的に貫くにはそれしかない。言い換えれば命を絶つしかない。そう、分かりますよね。主人公は不干渉の正義を貫こうと(現実世界での不幸を消化しようと)、自分の分身である存在を殺すのです。そこに、二度と、他者の臭いがまとわりつかないように

 

物語の最後で、主人公が現実世界を選ぶのではない、という結論も、その世界に住まわっては干渉し、干渉されてしまうからというロジックで見えてきます。

 

これほど強烈に、不干渉の正義を貫こうとする筆致に、驚かずにはおれません。自分を追い込みながらでなければ書けない。もし左うちわでこの作品がかけるとしたら、すでに不干渉の正義を貫徹しようとする原理的狂気を、手なずけていることになる。どちらにしても、真似できることではないでしょう。

 

 

4.なぜ正義なのか

ここで誤解してはいけないのは、本作品の不干渉が、他者への恐怖に由来するものではないということです。

 

もちろん他人が恐ろしい。他人なんか嫌だという引きこもりメンタリティがないとは言い切れないでしょうし、ものかきは多かれ少なかれ、そういうところがあるものでしょう。

 

正義、私はそう表現しました。

 

それは他者との干渉が、少なからず不幸をもたらすという認識から、それを何とか回避したいという他者への不干渉を生み出しています。

 

ここのねじれ、あるいは弁証法。他者に干渉してしまった、いや干渉したいという願いが、結果として不干渉の正義に行き着いてしまう。ここに高潔な覚悟を読み取れなければ、本作品のすべての文章にみなぎっている、内圧の高いエネルギーを感じ損ねてしまう。

 

不干渉が正義である。

この認識それ自体が、他人との干渉がもたらした苦痛によって支えられている。

 

このあまりにも人間的なスタート地点があるからこそ、本作品を含めた作者の生み出したものは、とても悲しくて、どこかユーモラスで、どれほどグロテスクで性的であっても、読んでしまう(苦手な人は駄目かもしれませんが)。それは人間自体がかかえる矛盾をごまかさずに書ききっているからでしょう。本作品は、そのなかでも、記念碑的なものとして位置付けられていい。

 

グロテスクであったり性的であったりする表現は、ここでの解釈にしたがうと、他者と干渉することそれ自体に内在している恐怖・不幸・まがまがしさ・理解不可能さ、そういったものを象徴的に示している。表面上、グロテスクで性的なだけではないからこそ、その描写には読ませる力があるのです。

 

 

5.おわりに

本作品は、これまでとりあげてきた多くの商業作品とはちがって、ネット上で無料でよめます。書く者がいて読む者がいた。そして突き動かされずにはおれなかった。どのような媒体、どのようなフィールドにおいても、ここを外しては、物語は意味がない。そしてその可能性は、人の数の複雑な関数関係にあり、物語はその関数の結節点にあります。物語はまさに、つねにすでに、一期一会。

 

もう一度いいますよ? 無料です。今すぐ読めます。

 

どうでしょう、皆様も一期一会に賭けてみては。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラになります!

ねこシス (電撃文庫)

ねこシス (電撃文庫)

 

 

ライトノベルは斜め上から(33)――『株式上場を目指して代表取締役お兄ちゃんに就任致しました~妹株式会社』

こんばんは、じんたねです。

今日は休肝日だから、お酒がない。渇くぞ……!

 

さて、本日の作品はコチラ!

  

 

解題――お金がない!

 

 

1.作品概要

「俺の妹になってください!」

 

 

政府の景気対策に基づいてビジネスパートナーを探していた五條田譲は、

渋谷街頭で見かけた西森舞華をスカウトした。

全国のお兄ちゃんを募り、妹を資本として株式を発行し、全国の投資家お兄ちゃんたちに

妹株式を購入してもらう。

そのためには譲にはどうしても妹が必要で、舞華は譲にとって理想的妹だったのだ。

それが『妹株式発行による会社設立に関する法律』に基づいて出来たとある妹株式会社の

代表取締役お兄ちゃんと妹資本の出会いだった。

 

兄と妹と株式と、ちょっとだけビジネスに詳しくなれるかもしれないサクセスストーリーここに開幕!

 

 

2.ヒロイン達は登場するが

本作品、設定は見た通り、とても奇抜になっています。妹を株にする。誤植ではなく、妹を株にします。厳密にいえば、妹役としての他人を株として所有するというかたち。そこには妹として3人のヒロインが登場し、どの彼女たちも、テンプレを押さえつつ可愛らしい振る舞いをします。

 

が、(ラブ)コメディの装いはここまで。

 

本作品、なにより異彩を放っているのは主人公の苦労話と、やや緊張感の欠けた商魂魂にあります。ヒロインたちはそれなりの設定を背負い、各々、妹株式会社で働くのですが、これといってラブコメを中心に展開することはなく、どちらかといえば後景に退きます。

 

「世の中のオタクには妹属性というのを持っている連中がいて、妹株を発行する事で、妹が欲しい全国のオタクから資金を募るのがこの妹株法のキモなんだな。妹は欲しいけど妹がいない、でも妹券を買えば自分にも妹が手に入る。すばらしいじゃないか!」(18ページ)

 

私のようなラブコメ脳は、「ほほう、妹にしたからには、それなりのことをするんでしょうなぁ」なんて下心丸出しで読み進めていったのですが、そういった不健全な予想は裏切られる。(ぐぅ!) その代わりに、物語を駆動させるのは、あれでもかこれでもかと苦労を続ける主人公資本主義辛い・・・そう思っちゃいました。辛い。

 

 

3.商売を始める辛さ

営業活動の一環として、電話を掛けたり、パソコンでDMしたり、レスがあった企業には郵送で資料を送ったり、それでもなしのつぶてでがっかりする。こんなシーンがあるのですが、やけに生々しい。これは、実体験だろうと勘繰ってしまうほどです・・・資本主義、辛い。

 

物語の中盤から、起業したての主人子に味方が現れるのですが、この人物も胡散臭い。どう考えても裏切りますよオーラがぷんぷんしていると思ったんですが、そんなことはなく、1巻の段階では平和に話が進んでいます。

 

終盤では一発逆転、起死回生のイベントで勝負するという話があるのですが、そこでのツッコミも世知辛い。一つのイベントに傾注するよりも、リスクヘッジを行なって、そこが駄目になったときのことを考えろと、主人公は諭されていたりします。

 

そうです、もうお分かりかと思います。

 

本作品は、ラノベのコメディを装った、立身出世の成り上がりストーリーなのです。お金がない!』(1994年)という織田裕二主演のドラマがかつてありましたが、それを彷彿とさせます。はあ、お金ないと辛いよね・・・辛い。

 

主人公は、ものすごく弁が立つわけでもなく、風貌がよいわけでもなく、頭が切れるわけでもなく、先見の明があるわけでもなく、他人より一歩も二歩も遅れているのですが、持ち前の「能天気」さと、折れないメンタルを武器に、じわじわとビジネスを拡大してくのです。

 

 

4.リアリティの届け先

現在、日本は不況で若者に仕事がないと言われています。私の立場では分からないところもありますが、肌感覚としてはそう感じています。

 

本作品、働くとはどういうことか。人から仕事をもらうとはどういうことか。そのイメージを掴むためにも、とても有益だと思います。願わくば、10代、20代の人間に目を通してもらいたい。あるいは30代、40代で、転職やラノベ作家を目指すような人間にも読んで欲しい。また50代、60代のひとには、若者の切迫感を感じ取ってもらうためにも、目を通して欲しい。

 

・・・全年齢対象じゃん。

 

テンプレな記号に隠された、苦労話に耳を傾ける。するととんでもない奥行きが見えてくる。そんな噛めば味わいのある、一風変わったライトノベルです。じんたねイチオシの作品でした。

(文責:じんたね)

 

さて、次回作はコチラ!

 

ライトノベルは斜め上から(32)――『剣と魔法の世界ですが、俺の機械兵器は今日も無敵です。』

こんばんは、ほろ酔い気分のじんたねです。

本日の作品は、こちらになります。 

剣と魔法の世界ですが、俺の機械兵器は今日も無敵です。 (HJ文庫)

剣と魔法の世界ですが、俺の機械兵器は今日も無敵です。 (HJ文庫)

 

 

解題――死ねない凡人、死ねる超人

 

1.作品概要

魔法が使えない? それなら機械兵器で殲滅すればいいだけだろ?
老衰以外では人が死ななくなった世界で唯一、怪我や病で死ぬ可能性がある少年エイジ。
しかも彼は全人類が使える魔法すらも扱えない異端者だった。
そんなエイジが十年前に手に入れたのは、多種多様な機械兵器の作成が可能な《工房》と、その管理者たる狐耳の少女テンコ。
彼女の主に選ばれたエイジは、今日も自作の機械兵器を駆使し、立ちはだかる敵を残らず殲滅する!

 

 

2.死んでもしなない一般市民と、死んだら終わりの主人公

本作品は、いわば「あざとい」設定とキャラがてんこ盛りで、とにかく安心して読めるクオリティだと思います。ちゃんと美少女であったり、剣と魔法であったり、狐耳であったり、ガーターベルトであったり、穿いてないガーターベルトであったり、やたらディテールのおかしいガーターベルトであったり、とにかくガーターベルトな作風です(?)

 

作品の世界観を、そのなかでも強く規定しているのが、ガーターベル・・・じゃない、死んでも蘇ることができるという設定です。細かい話はさておきますが、生き返ることが難なく実現されてしまう。頭をつぶされても、身体を真っ二つにされても、教会で復活するさいの酷い苦痛を度外視すれば、とくにデメリットなく復活します。RPGで死んでも大丈夫な勇者パーティーといった趣です。

 

それとは反対に、俺TUEEEEな主人公は、簡単に死にます。いや死んだら物語が進まないのですが、そういう設定です。だから命をとして戦う姿がカッコイイし、それにヒロインも心動かされるということです。

 

しかし、考えてもみれば、死んでもOKな人生とは、どんな人生なのか。不老不死モノの設定では、生きることが退屈だったり、生命を大事に考えないような、吸血鬼や神様が登場してきますが、それがデフォルトの設定になっている。

 

何もしない

 

それがきっと作者の判断なのではなかったか。死なないからといって、多少は暴力的になったり、生死を軽んじたりするけれども、おおむね普通に暮らし続ける。そんな奇妙なリアリティに支えられている作品です。たしかに、何にもしないかもなぁ、と読みながらしみじみと感じてしまいました。

 

それが証拠に、多くの一般人は、それこそ普通に暮らしています。明日への希望を謳ったり、過去への絶望を吐き捨てたり、といったことはなく。平均寿命が延びた現代日本人が、それ以前にくらべて変わった事をしているか、いや、していない。この事実に鑑みると、ここにはかなりのリアリティと面白さがあると思われます。

 

 

3.手堅い文体

さて、剣と魔法とラブコメとてんこ盛りな作品だと述べましたが、その文体は、どちらかといえば堅いほうに属するでしょう。堅いからといって読みにくことはさらさらなく、過不足なく状況を説明してくれるので、むしろすらすらと読んでしまえます。

 

もちろん俺がTUEEEので、その強さを強調するためにカッコイイ文体をチョイスしているという事情もあると推察していますが、おそらくライトノベルライトノベルと呼ばれる前の、ライトノベルの空気を知っている人間でなければ、こうは書けない。私のような年齢のラノベ読みには、もう、懐かしい気持ちでいっぱいになります。ああ、よかったって。

 

その手堅さは、実は、文体のみならず、作品の「死なない/死ねない」設定の背後を描き出すときに、とても効果的に作用しています。ありていに言えば説得力がありますし、別風に言えば、作者の世界観が透けて見えてくる。

 

作中の人物が『時計仕掛けのオレンジ』という不朽の名作について説明している箇所があります。

 

「そうね。犯罪が出来ない体になったわ。けど、それって善かしら? 自分で選択したわけじゃないのよ。本当はヴァイオレンスを欲しているのに、ルドヴィコ療法のせいで出来ないだけ。奪われただけ。ねえ、これってまるでウルティマラティオ[本作の世界の名前:じんたね注]みたいじゃない? 私たちに選択肢はない。……ええ、優しい世界だわ。けど、それがどうしたの。選択肢を頂戴よ。私は私でいたいのよ。時計じかけなんてまっぴらご免だわ!」(180ページ)

 

ここを読めば、死ねないことがどういう結論になるのか。一般市民とは別のキャラクターに語らせていますが、死ねるということは、やはり、悲しいけれど意味があることなのだということが示されています

 

これは物語に置き換えると、よく分かる。私たちは面白い小説を読むとき、これがずっと終わらなければいいのにと感じる。けど、本当に終わらない小説は、実は、小説ではない。終わりをただ遅延し続ける物語は――人によって感想は異なりますが、とりあえずはじんたねの感じるところで――緊張感を剥奪します。

 

終わらない物語があったとしても、それは終わりに向かっているのだということが、読者には信じられていなければならない。でなければ、何に向けて盛り上がればいいのか、キャラクターたちが苦労しなければならないのか、理解するための位置づけを失ってしまうからです。あのアリストテレスだって物語の定義として、はじめと、中間と、終わりがある、って言っているくらいですし。

 

他にも、死んでも生き返るから、市民を見殺しにしても大丈夫だとうそぶく騎士にむけて、こう言い放っています。

 

……ここで我々が真っ先に逃げては、人は離れていくでしょう。法律や経済よりもまず、信がなければ国はなりたたないのですから! 死んでも生き返るというのであれば、なおのこと命を張って国民を救いなさい!」(201ページ)

 

ここに、命よりも名誉をとれ、という態度をみつけるのは簡単でしょう。もちろん、作者とキャラクターの思想は、イコールではありません。むしろイコールにならないことがほとんどです。

 

ただそれでも、生き長らえるだけよりは、別のなにかを選びとれ。このモチーフが、設定から、キャラクターから、すべてから見え隠れしています。

 

 

4.おわりに

ここからは邪推でしかないですが、きっと不死のキャラクターは、主人公に動かされ、一度は不死をすてるという選択肢を選ぶのではないかと思っています。それが結果として、主人公と対等の立場に立つことになり、それが終盤のドラマになるのではないか。

 

続巻待ってます。あとガーターベルト!!

(文責:じんたね)

 

次回作は妹株です!

 

ライトノベルは斜め上から(31)――『りゅうおうのおしごと!』

こんばんは、じんたねです。

グランブルーファンタジーのファラ(スパッツ)がかわいすぎて、どうしよう。辛い。「ひらひらしても(スパッツだから)大丈夫っすよー」って、どうしよう、可愛いぞ。てか、スパッツって、あのスチームパンクなファンタジーに存在するのか! いいぞもっと存在して!

 

・・・ええと、本日のお題はコチラ!

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)

 

 

 

解題――熱い美談を語るには

 

 

1.作品概要

玄関を開けると、JSがいた――
「やくそくどおり、弟子にしてもらいにきました!」
16歳にして将棋界の最強タイトル保持者『竜王』となった九頭竜八一の自宅に
押しかけてきたのは、小学三年生の雛鶴あい。きゅうさい。
「え? ……弟子? え?」
「……おぼえてません?」
憶えてなかったが始まってしまったJSとの同居生活。ストレートなあいの情熱に、
八一も失いかけていた熱いモノを取り戻していく――

『のうりん』の白鳥士郎最新作! 監修に関西若手棋士ユニット『西遊棋』を迎え、
最強の布陣で贈るガチ将棋押しかけ内弟子コメディ、今世紀最強の熱さでこれより対局開始!!
※電子版は文庫版と一部異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください

プロ棋士や書店員から絶賛の声、続々!!

軽快な筆致ながら、情熱漲る若き竜王女流棋士志願のひたむきな少女との交流を通じて、
勝負の厳しさそして将棋の魅力を伝える斬新な作品が誕生したことを嬉しく思う。(加藤一二三九段)

萌えまくる将棋界! 棋士がみんな変態じゃないかー!
弟子をとるなら、素直で可愛い料理のできる小学3年生かなー。
笑いながら読んじゃいました、最高です!!(竹内雄悟四段〈西遊棋〉)

ライトノベル』というフィールドでは中々扱いが難しい
「将棋」というテーマでこれほどの演出が出来るとは想像以上だった。
緊迫感あふれる対局シーンはもちろん凄いが、笑いあり、感動ありの白鳥先生らしい
エンタメ作品に仕上げているのは見事としか言いようがない。感服です!(アニメイト仙台 遠藤)

「ししょうの玉・・・すっごく固い・・・」表紙が女子小学生で1ページ目がコレ。
出版界に激震が走るほどの印刷ミスを目の当たりにしたかと勘違いしてしまう、そんなつかみは必見です!!
全くブレない白鳥士郎先生の新作、是非とも読んでみてください!!(とらのあな 商業誌バイヤー)

JS弟子は超可愛いくて悶絶必至だし、ほかのキャラクターも個性豊かで飽きがこない。
ぶっ飛んだコメディを繰り広げるかと思えば、リアル知識に裏打ちされた臨場感満載のシリアルな場面も……。
これぞ……白鳥士郎先生です!(ゲーマーズ 末原)

将棋系幼女の時代到来!? もう、最高すぎておもらしもんですよ!
白鳥先生の紡ぐ安定のギャグと熱い対局、そしてしらび先生の描く美少(幼)女たち。
是非一度、読んで欲しい1冊です!(メロンブックス 服部)
出版社からのコメント
プロ棋士や書店員から絶賛の声、続々!!

●軽快な筆致ながら、情熱漲る若き竜王女流棋士志願のひたむきな少女との交流を通じて、
勝負の厳しさそして将棋の魅力を伝える斬新な作品が誕生したことを嬉しく思う。(加藤一二三九段)

●萌えまくる将棋界! 棋士がみんな変態じゃないかー!
弟子をとるなら、素直で可愛い料理のできる小学3年生かなー。
笑いながら読んじゃいました、最高です!!(竹内雄悟四段〈西遊棋〉)

●ロリ王八一(あ、ちゃうちゃう竜王や)と天才JSあいの笑いと感動のこの物語は
将棋の面白さを感じるだけでなく思考のスピード感が凄い! そして、一気に読んでしまえる作品です。
関西が舞台で、将棋の魅力満載とあっては当然、うちのエリアではめちゃめちゃ押してます! ! (アニメイト三宮 馬郡)

●『ライトノベル』というフィールドでは中々扱いが難しい
「将棋」というテーマでこれほどの演出が出来るとは想像以上だった。
緊迫感あふれる対局シーンはもちろん凄いが、笑いあり、感動ありの白鳥先生らしい
エンタメ作品に仕上げているのは見事としか言いようがない。感服です! (アニメイト仙台 遠藤)

●「ししょうの玉・・・すっごく固い・・・」表紙が女子小学生で1ページ目がコレ。
出版界に激震が走るほどの印刷ミスを目の当たりにしたかと勘違いしてしまう、そんなつかみは必見です!!
全くブレない白鳥士郎先生の新作、是非とも読んでみてください!!(とらのあな 商業誌バイヤー)

●JS弟子は超可愛いくて悶絶必至だし、ほかのキャラクターも個性豊かで飽きがこない。
ぶっ飛んだコメディを繰り広げるかと思えば、リアル知識に裏打ちされた臨場感満載のシリアルな場面も……。
これぞ……白鳥士郎先生です! (ゲーマーズ 末原)

●将棋系幼女の時代到来!? もう、最高すぎておもらしもんですよ!
白鳥先生の紡ぐ安定のギャグと熱い対局、そしてしらび先生の描く美少(幼)女たち。
是非一度、読んで欲しい1冊です! (メロンブックス 服部)

 

 

2.職業人・専門人がテーマ

最近、普段はスポットライトの当たらない世界を題材にとりこんだライトノベル、というよりは、いつの時代もどの書物にも、そういった手法が取り入れられてきました。

有名なスポーツの類のみならず、ややマイナーなものを取り入れて「へえ、こんな世界になっているんだ」というマルコポーロ東方見聞録よろしく、元々の物語を楽しみつつ、知的好奇心を満たすことの出来るものが。

 

本作品もその例外にはもれません。

 

今でこそ将棋はニコニコ動画人工知能との対決もあって注目されてきましたが、かつてはマイナー中のマイナー。奨励会という言葉を知っている人間も少ない時代があったのですが、今では穴熊や振り飛車なんて言葉を使っても、あまりビックリされません。個人的には藤井システムが好きなんですが、もう世代代わりしてしまった感がありますね。

 

これはマイナーであればいい、というわけでもない。あまりにマイナーすぎると共感という橋渡しがとても困難になりますし、逆にメジャー過ぎたら、いまさらみんな知っていることを開陳しても面白くならない。この絶妙なところをつくセンスが必要になりますし、ドマイナーでも「俺は面白いと思ってんだよ!」という読み手を殺しにかかる腕力が必要になってきます。

 

そういう意味では、本作品、きわめてよいタイミングで時流を呼んで、しかもかなり取材されていることが伺えるディティールの凝った物語が、グイグイと読ませてきます

 

 

3.面白い作品にはわけがある

でも、それだけでライトノベルが面白くなるわけありません。それを支えるセオリーが当然、あるわけですね。

 

本作品、プロットコントロールがきれいに行き届いています。最近読んだものでは『たま高』がそうだったのですが、セクションとそこで触れるべき情報のバランスがとても読みやすくなっています。本作中に登場した、「36歩」と読み上げるだけで将棋を差しあうシーンのごとく、ページ数を読み上げるだけで、起承転結のどの部分にあたるのかを言い当てられます。おそらく書き手は、とても抑制のできるかたなのではないかと、いろいろと邪推が捗りますが、それはそれ。

 

ステレオタイプやセオリーは、決まっているだけに、退屈に思われる危険性があることは判ります。私自身、型通り、というのは苦手だったりもします。ですが、型がなければ、型破りもできず、型なしになるだけ。これは将棋でも定石がたくさん積み重ねられていて、それを知っていなければ話にならないのと同じ。

 

ライトノベルという領域に関しては、どの程度の型があるのか判じかねるところですが、それでも本作品の整ったプロットラインは、それを眺めるだけでも面白い。たしかなプロの息遣いを感じました。

 

 

4.美談はいかにしてニッチになってしまったのか、あるいはその終焉

私が本作品で注目したいことは2つあります。それは美談の語られ方と、主人公のモノローグの話し相手、これです。

 

美談から話をしましょう。

 

美談が語られにくい世の中――私はそう捉えています。

もちろん美談がないわけじゃない。ゴミ拾いに精を出したり、人知れずこっそりと何十年もプレゼントを送り続けたり、美談ならむしろそこら中に転がっている。

 

でも、これ、消費されるための美談なんじゃないかって。美談に触れて「ああすごい、いいなあ、こんな素敵な人がいる。心が洗われる」とはなるものの、じゃあ、明日からキミ、それ頑張ろうね、とは決してならない。「ああ面白かった」と「泣ける映画」(この宣伝文句ほど品がないものもないと思いますが)を見て終わることに似ています。それを逆に、「キレイゴト」だと嘲笑して、距離を取ろうとする動きも、同時に成立しています。

 

どちらにしても真正面から美談が語られることを歓迎してはいません消費して無害化して他人事にするか、嘲笑して揶揄して貶めるか、になりがちだからです。

 

だから美談は語られた途端、消費の対象になってしまう。こんななか、消費されない美談を語ることは難しく、美談が語られた直後から、消え去る運命にある。

 

ですが、場所を創りだして、美談を語る技術がある。そう、物語を紡ぐことです。最初からフィクションであると予防線を張れば、物語を消費させるなかで、美談が消費されることを回避できる可能性がある。わざと読ませて、本音を潜ませる、とでもいえばいいのでしょうか。しかもそのフィクションの設定が、読者に馴染みが薄ければ薄いほど、隠しやすくなります。

 

本作品、棋界を扱っています。

 

将棋が知られるようになったとはいえ、現代の徒弟制よろしく、奨励会のシステムを知悉している人間は少ない。しかも、棋士という人間の生活については、なおさら不明です。羽生善治は凄い人だ、という共通認識はあっても、彼がどのようなライフスタイルを送ってきて、今にいたっているのかは見えない部分がたくさんある。

 

だから、棋界を扱っている本作品は、美談を語るに適切なんです

 

実際、棋界を知っている人であれば「ああ、あの話か」とすでに消費されていしまっているが、そうではない人には「ええ、そうなの」という逸話が、たくさん散りばめられています。

 

たかがボードゲーム、されどボードゲーム。人生がゲームであるという、主と副の逆転した格言が多く引用されています

 

それが、先ほどの述べたように美談を消費したり揶揄したりすることを回避させ、読者にそのまま届けられている。真剣な勝負の場面が、ほとんど棋譜もなく展開され、読み手を引きずり込む。強くなるために恋人も友人も必要ない。そんなセリフがリアリティを持って迫ってくる。

棋譜を並べるだけなら、将棋しらないひとは面白くないし、新聞の将棋コーナーとあまり変わらなくなっちゃうので、そりゃまあ読み物としてはそうしかないんですが・・・そういうラノベ的事情を加味しても、という話)

 

それは美談を美談としてそのまま語る技術――すなわち、美談の場所を、棋界という半フィクションに溶け込ませているからではないかと思っています。(本当に友達がいなかったり、朝から晩まで将棋ばっかりしていても強くなるとは限らず、また、女性のナンパばっかりしながら棋聖タイトル取るような人もいます)

 

 

4.「今、誰に説明したの?」

あと1つ。主人公の距離をとった地の文が、本作品の、魅力を引き立てています。

 

 姉弟子の実力をもってすれば全冠制覇も夢じゃないんだろうが、制度上それは不可能になっている。理由はそのうち語ります。お楽しみに。(22頁)

 

ここ。最初読んだ時、えらいびっくりしました。「今、誰に説明したの?」って思ったから。その予言通り、ちゃーんと物語の終盤で、このわずかな伏線は回収されるのですが、「理由はそのうち語ります」というのはここで理由をキープして黙っているという自意識が主人公にはあるからで、かつ「お楽しみに」というのは、誰の楽しみかといえば、それはもちろん読者のことです。

 

ここまで分かりやすいものは、その後、見られなくなりますが、ことあるごとに展開されるコミカルパートの会話は、そこに没入しつつも一歩引いてみている自分、という構図をなぞり続けます。

 

その適切な距離感というべきか。没入を避ける冷静なツッコミというべきか。それが作品に、得も言われぬ妙味をもたらしています。ぶっちゃけ、羨ましい。

  

この距離感と美談とが、不思議なコラボレーションを発揮しているのが、本作品。手に取ってまったく損はさせないと断言できる作品です。一読されてみてはいかがでしょうか。

(文責:じんたね)

 

次回作は、ツガワ先生!

剣と魔法の世界ですが、俺の機械兵器は今日も無敵です。 (HJ文庫)

剣と魔法の世界ですが、俺の機械兵器は今日も無敵です。 (HJ文庫)